百二十九 忘れるな
バタン──と扉が乱暴に閉じられ、鍵のかかる音がした。
温かくなった身体に、くらくらと揺れる視界。心の緊張が解け、普段から感じている不安もどこかへ行ってしまったようで、気分がいい。
ここはどこなんだろう……そう思いながら、日野は辺りの匂いを嗅いだ。先程まで鼻を刺激していた酒と香水の匂いは薄れている。その代わり、愛おしい匂いが傍にあるような気がして、目の前の人影を抱きしめた。
すると、頭の上から、誰かの声がした。しかし、何を言っているのかはよくわからなかった。抱きしめたまま、ぼうっと上を向いていると、背負っていたリュックを下ろされ、コートが脱がされた。
温まっていた身体が冷たい空気にさらされ、体温が奪われていく。あまりの寒さに身震いしていると、今度は目の前の人影に抱きしめられた。
薄いシャツから、温かい体温が伝わってくる。再び匂いを嗅ぐと、それが愛しい彼の香りだということに気がついた。
「グレン?」
見上げると、揺れていた視界が徐々にはっきりとして、彼の顔が見えた。釣り上がった目がこちらを見つめている。
「……かっこいい」
緩んだ顔で、そう言った。今なら、なんでも言えそうな気がする……そう思った時、突然体が浮き上がり、日野は小さな悲鳴を上げた。
慌てて彼の首にしがみついていると、部屋の奥にあったベッドまで運ばれ、押し倒された。
「お前、俺がどれだけ我慢してるかわかってるのか?」
「グレン?」
「……忘れるなよ」
大きな手が日野の顔にかかった黒髪を払うと、引き合うように、二人の唇が重なった。
どんなに傍にいても、二人きりになれる時間は少ない。触れたいと思っていても、我慢するしかなかった。しかし今は、周りを気にするような余裕はなくなっていた。いつもと違う深く甘い口付けに、溶けてしまいそうだ。
冷えた身体が、再び熱を帯びていく。月の光が差し込む薄暗い部屋の中、心の赴くままに、彼を求めた。
◆◆◆
「美味しい!」
「あら、よかった。作り過ぎちゃったから、好きなだけ食べていいわよ」
宿の一室で、ハルは目を輝かせて声を上げた。すっかり酔いの覚めたアルも、両手でチーズを抱えて上機嫌だ。そんな二人を見て、ローズマリーは微笑んだ。
部屋へ向かう途中、宿の中に食材を売っている場所を見つけた。そこで、いくつかの野菜を買い、スープを作った。
しかし、どちらかと言えば得意なのはお菓子作りの方だ。今まではそちらに力を入れ過ぎて、家庭料理というものはほとんど出来なかった。正直自信は持てなかったが、ハルが喜んでいる顔を見ると嬉しくなった。
刻やルビーの健康の為に、普通の料理も作れるようになりたい。売り場に並んだ食材を眺めながら、そんな気持ちになり、自分がどの程度のものを作ることができるのか試してみたのだ。
「男の子が生まれたら、こんな感じなのかしら……」
ポツリとそう呟いて、頭の中で想像を膨らませた。
刻にそっくりの小さな男の子。傍には刻やルビーもいて、この先も四人で仲良く暮らしていく。何事もなく、ただ平穏に。
そんな生活が出来ればいいのに……そう思いながら、窓の外へ視線を向けた。
今頃、二人はどうしているだろうか。無事にアイザックの元へ行けただろうか。どこかで倒れてはいないだろうか。
油断すると、不安ばかりが心を満たしていく。二人を探して本当にいいのだろうか。また会っていいのだろうか。
──私のせいで、二人が死んでしまうかもしれない。
そんな考えを振り払うように、軽く左右に頭を振った。すると、深緑色の瞳がジッとこちらを見つめていることに気がついた。もぐもぐと動かしている口元には、野菜のかけらが付いている。
「あらあら、お口が汚れてるわよ」
そう言って、ハンカチで口元を拭ってあげると、ハルが嬉しそうに微笑んだ。
「明日も早いわ。食べ終えたら一緒にお風呂に入って、早く寝ましょう」
「うん!」
明るい返事と、無邪気な笑顔に、癒された。
ルビーとハル、この二人の子供が大きくなる頃には、自分たちはどうなっているのだろうか。
破壊の力を持ってしまった以上、刻やショウコが普通の人生を歩むことは難しい。それが暴走しそうになると、刻はどこかの街を壊しに行く。同じ力を持っているショウコも、この先、彼のように心を削りながら生きていくことになる。助ける方法はないのだろうか……。
考えても、答えは出ない。医者のアイザックなら、力を抑える方法を思いつくだろうか……次会った時に相談してみよう。そう思いながら、温かいスープを口に含んだ。
「あ、ほんとね。我ながらよく出来てるわ」
そう言って、予想以上に出来のよかったスープに、ローズマリーは柔らかく微笑んだ。