百十七 ほっと、みるく?
「寒いか?」
そう言って、彼は震える背中を撫でてくれた。震えていたのは、恐怖を感じたせいだ。自分の中にある力が怖かった。
だが、今はそれを言い訳にして、少し甘えてみようと思った。
背中に手を回して、自分よりも大きな体をギュッと抱き締める。愛しい彼の匂いが鼻をくすぐった。普段はなかなかこうして二人になれる時間がない。日野は今この瞬間を味わうように、温かい腕の中で、そっと目を閉じた。
トクトクと規則正しく脈打つ心臓の音が心地良い。安心して眠ってしまいそうだった。
「寝るな」
「うっ……ご、ごめんなさい」
バシッと背中を叩かれ、目を開けた。
「明日から数日は雪祭りだそうだ。オリバーには警戒する必要があるが……気分転換のためにもローズマリーを外に出したほうがいいだろう」
「雪祭り? ……そうだね。私、どう声をかけてあげたらいいのか分からなくて……逃げてきちゃったし」
「あの様子じゃあな。ま、今日は祭りの準備でみんな雪だるまを作るそうだ。俺たちもやるぞ!」
そう言って、グレンは日野を離すと、ポケットから買ったばかりのあるものを取り出した。
その手に握られていたのは、四双の手袋──そして、祭りに参加する気満々だと言わんばかりに、彼はニヤリと笑みを浮かべたのであった。
持っていた手袋を再びポケットへしまうと、グレンは立ち上がり、日野へ手を差し出した。
「引きこもり共を呼びにいくぞ」
「うん」
また少し冷たくなった手を取って、日野も立ち上がった。ザクザクと音を立てながら、手を繋いで雪の上を歩く。
ジェマの家はすぐ近くにあった。ものの数分で着いてしまう距離だ。しかし今は、二人きりのこの時間が少しでも長く続くようにと、日野は心の中で密かに願った。
ジェマの家へたどり着き扉を開くと、深緑色の塊がグレンの顔に目掛けて飛んできた。
その塊──子供用のコートを片手で受け止めると、グレンは目の前に座っている少年へ視線を向けた。
少年は、乾き終わった洗濯物をせっせと畳みながらグレンを睨んだ。
「おかえりなさい、二人とも。ボクがお手伝いしてる間にデートですか?」
穏やかに笑ってはいるが、ハルの額には血管が浮き出ていた。どうやら虫の居所が悪いようだ。
ふと見ると、小さなハンカチなどはアルがせっせと畳んでいた。彼も手伝ってくれていたようだ。
「お皿洗いに、窓拭き、そして今はこれ! ボクだけお手伝いして不公平だ!」
グレンと日野が出ている間に、ジェマからいろいろと頼まれたのだろう。ぷんぷんと怒りを露わにするハルに、日野は申し訳なさそうに、ごめんねと謝った。
部屋の奥に移動させてあるテーブルを見ると、ローズマリーが暗い表情で静かに座っていた。
泊めてもらっている分、お手伝いをしなければならなかったのは私なのに、なんだか悪いことをしたな……そう思いながら、日野はハルへ近づこうとしたが、グレンに止められた。
「ハル、明日から雪祭りが始まるらしい」
「二人で行けば? ボクたちは興味無いね」
そう言って、ハルは頬を膨らませてプイッとそっぽを向き、アルも真似してそっぽを向いた。
ハァ、とわざとらしい溜め息をついたグレンはゴソゴソとポケットを漁り始めた。
なにを取り出すのかと思い、日野がその様子を眺めていると──ポケットから四枚、可愛らしい桃色の紙が出てきた。
グレンがひらひらとそれを振っているため、なにが書いてあるのかはよく分からない。
すると、拗ねたハルとアルの背中に向かって、グレンはいかにも残念そうな声を出した。
「数量限定で苺のホットミルクっていうのが出るらしいから、そのチケットを買ってきたんだけどな。そうか、ハルはいらないのか……残念だ」
「いちごの……ほっと、みるく……?」
くるりと振り返ったハルとアルは、ひらひらと揺れるチケットを目で追いながら、よだれを垂らしていた。目を輝かせている姿がなんとも可愛らしい。
それにしても、チケットなんていつの間に買ってきたのだろうかと日野は苦笑した。なんだかんだ言っても、彼はハルに優しいのだ。
「行くか?」
ニヤリと笑ったグレンに、ハルとアルはあっさりと頷いた。グレンはスタスタと近づくと、深緑色の頭をポンポンと軽く叩いた。
「お前らだけに手伝わせて悪かった。頑張ったな」
そう言うと、そのままローズマリーの元へ向かった。
「おい。お前、雪だるまは分かるな?」
「…………雪だるま? 知ってるわ。でも私そういう気分じゃ──きゃっ!?」
断ろうとしたローズマリーの腕を、突然グレンが掴み、その体を持ち上げた。すると、彼女は可愛らしい悲鳴を上げた。
「そう。こういう反応だ」
分かったか? と言いたげな呆れ顔で、グレンが日野を見つめた。
そうか……可愛い反応とは、こういうことか。やっぱりローズマリーさんには勝てない。
「が、頑張ります」
涙ながらに日野がそう言うと、グレンはククク……と楽しそうに笑った。
その後、日野たちは残った洗濯物を畳んで、家の奥にいたジェマへ、少し出掛けてくると声をかけた。
相変わらず外は寒かったが、刻がローズマリーのトランクを置いていったため、彼女のコートの心配をする必要はなかった。
気分転換にと家の外に出てはみたものの、雪を見ても、相変わらず彼女の表情は暗いまま。乗り気でないローズマリーを連れて、日野たちは街の中心部へと向かっていった。