百十六 起きて
雨が止んだ。穏やかに吹く風が冷たさを増し、空からちらほらと雪が降り始めた。
──チリン
仰向けに横たわる男の傍で、鈴の音が響いた。
『あと少しズレてたら死んでたんじゃない? その治癒力がどこまでかは分からないけど』
意識のない男に向かって、黒猫は話を続けた。
『命が助かっただけで、僕は嬉しい。だけど、君は起きたらきっと悔しがるんだろうね』
黒猫は、深紫色の髪をかき分けて、首筋へ体を寄せた。
『僕は温めることが出来ないんだ。起きて。起きてよ、オリバー。風邪引いちゃう』
トクトクと、脈を打つ音が聞こえる。彼はまだ生きている。しかし、落ちては消えていく白い雪が、その体温を静かに奪っていった。
黒猫は、目を覚まさない男に、声をかけ続けた。何度も何度も、その名前を呼び続けた。
◆◆◆
刻が出て行ったあと、ローズマリーを含めた四人と一匹が街に残った。この街には宿屋も無いようで、その夜もジェマの好意に甘えて家に泊めてもらうこととなった。
──そして、翌日。
昨日からちらほらと降り始めていた雪が、一晩で辺り一面を白く覆っていた。
警戒が薄れた街の住民も、徐々に姿を現しはじめ、街中は何やら騒がしくなってきた。
外に出た日野は、丸太を半分に切ったような横長い椅子に腰掛けて、そんな街の様子を眺めていた。
暗い顔をしたローズマリーが気がかりではあったが、何をどう話せばいいのか分からずに逃げてきてしまった。
自分に何かしてあげられることがないかと考えてはみるものの、人を励ます方法が思いつかない。
刻とルビーも心配だが、数日はこの街に留まるとグレンに言われてしまった。一人で勝手に出歩くなと釘も刺されたが……
「じっとしていても落ち着かないし……」
ハァ、と小さな溜め息が止まらない。グレンと話したいとも思うが、彼はオリバーの遺体を埋葬するために朝早く街外れに向かって行った。
我慢するしかないか……と気を落としながら、ふと視線を隣へ向けた。
横長の椅子は、日野が座っていない部分に雪が薄く積もっていた。ジッとそれを見つめ、無意識に指を動かす。
痛いほどに冷たい雪の上に、二人の名前を書いた。そして、その間にハートマークを描く。
こんなことをして、子供みたいだ。そう思いながらも、雪に残した気持ちに、小さな笑みを浮かべた。
「おい。一人で勝手に出歩くなと言っただ──」
「わああああああ!?」
「なんだよ、いきなり」
「いや、なんでもないです。おかえり、グレン」
突然聞こえてきた彼の声に、日野は椅子の上の雪を慌てて振り払った。そして、眉をひそめた彼に、ちょうど雪のなくなったそこに座るよう促した。
すると、隣に座ったグレンに抱き寄せられた。ギュッと抱き締められると、鼓動が速くなる。冷たかったはずの頬も、熱を帯びていくのを感じた。
そのとき、冷え切った大きな手が、日野の首筋にピタリと当てられた。
「いいいい!? 冷たいっ!」
「だから、もう少し女っぽい反応出来ないのか?」
「だって、突然……というか、こんなところでくっ付いてたら目立っちゃうよ!」
そう言いながらジタバタと少し抵抗してはみるが、離れたくない気持ちもあり、なかなかその腕の中から抜け出せない。
そうこうしているうちに、だんだんと温まってきたグレンの手。それが首からそっと離れ、日野を抱きしめる腕に力がこもる。
「オリバーが、いなくなってた」
ポツリと小さな声で告げられた言葉に、日野は目を見開いた。
「どういう……こと?」
「遺体が消えていた。あちこち探し回ったが、どこにもなかった。奴は、死んでいない」
昨夜積もった雪のせいで、足跡も追えなかった。
それを聞いて、反射的に辺りの匂いを探った。しかし、オリバーらしき匂いはしなかった。
金色の瞳を持つ人間に備わった驚異的な治癒力。心臓を撃ち抜かれても死なない体……なにがあっても、死ぬことができない体……。
その力の恐ろしさに、日野は体を震わせた。