百十四 泣くな
濡れた地面を蹴り、家の壁に立て掛けてあった鉈を素早く掴んだ。それをクルクルと回転させながら近付いてくるフードの男。
深紫色の長い髪の間から、口角を上げた男の顔が見えた。
突き飛ばされていたローズマリーは、グレンの手で家の中へと引き入れられていた。
外にいるのは三人。全員が破壊の力の持ち主だった。
怒りに震えながら、刻が飛びかかる。応戦したオリバーも、怯むことなく攻撃を躱しながら、鉈を振り回していた。
「速い……こんなの、ついていけない」
男二人の動きは速かった。互いに全力を出し合う殺人鬼たちの戦いは、日野に入る隙を与えなかった。
「できること──、私にできること」
日野は辺りを見回した。正面からぶつかっていっても敵いそうにない。ならば、ほかの方法で隙を突けないか……。
同じ体質なら、小さな傷も大きなダメージになる。
すると、キョロキョロと動く金色の瞳が、泥のついた傘を見つけた。
乱暴に捨てられたそれは、弱まった雨に打たれて寂しそうに転がっていた。
「速いけど、なんとか足にかけて転がすくらいなら……」
そう思い、走り出した。傘を手に取ると、くるくると丸めてボタンを留める。
「これで──」
「なにしてるの? オネエサン」
突然耳元で囁かれ、日野はその場を飛び退いた。傘のハンドルを握り締め、ニヤニヤと笑う顔に、その先端を向けた。
オリバーは余裕の表情で鉈をくるくると回している。
──刻は!?
ハッとしてあたりを探した。目を離した一瞬のうちに、刻はオリバーの鉈に切り裂かれ、蹴り飛ばされて背中から地面に倒れていた。
「オネエサン、戦ったことないでしょ? よそ見するのは、よくないよ」
血を吹き出し倒れている殺人鬼に気を取られていたとき、もう一人の殺人鬼に持っていた傘を奪い取られた。両腕を掴まれ、動きを封じられる。
「オネエサン……やっぱりオネエサンも、オレの傍にいなよ」
優しい声音で囁きながら、オリバーの顔が近づいてきた。その時、
──ドカッ
「──っぐあああ!?」
日野の蹴りが、オリバーに直撃した。蹴り飛ばされた体は高く宙を舞い、地面を擦るように転がった。
しかし、思い切り力を込めた足への反動が重く、日野はその場にへたり込んだ。
「……痛い」
まるで骨が折れたようだ。痛みが両足を駆け抜け、苦痛に顔が歪んだ。
だが、一撃だけではオリバーを止めることは出来なかった。
オリバーは気を失ったように動かなくなっていた。しかし、すぐに意識を取り戻したのか、むくりと起き上がった。
落とした鉈を拾い上げ、一瞬で日野へと距離を詰める。
──逃げられない!
日野は体を庇うように両腕を前に出し、ギュッと目を閉じた。
「オネエサン。オネエサンは、オレの傍にいてくれないの?」
「……え?」
攻撃を防ごうと構えた日野の腕から力が抜けた。
そっと目を開くと、そこには酷く寂しそうな顔があった。フードが外れ、濡れた頬を伝う雨粒が、まるで涙のように見えた。その時、
──ガウン
「──っぐ……あああああ……!!」
「オリバー!?」
辺りに一発の銃声が鳴り響き、オリバーは苦悶の声を上げてその場に倒れ伏した。
そして、倒れたオリバーの向こうには──銃を構えたグレン立っていた。つり上がった鋭い目が、ジッとこちらを見つめている。
「……グレン?」
「悪いな。こうでもしないと、こいつは止められない」
スッと下がったグレンの視線につられるように、日野もオリバーを見た。
左胸の辺りから、血が滲んでいる。心臓を撃ち抜かれたのだろうか。彼は今、目の前で……あんなにも寂しそうな顔をして──死んだ。
へたり込んだまま、金色に輝く瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。だんだんと呼吸が荒くなっていき、胸が締め付けられたように苦しくなる。
そこへやってきたグレンが、日野をギュッと抱きしめた。
「泣くな」
「だって……オリバーが……死んで……」
「相手は殺人鬼だ。お前が心を痛めるな。優し過ぎると、いつか壊れるぞ」
けれど、涙が止まらなかった。グレンのコートを掴む手に力が込もる。
誰かの死を、こんなに哀しいと感じたことは初めてだった。もっと他に、違う出会い方はなかったのか……力強く抱きしめられた腕の中で、日野は一人の殺人鬼のために涙を流した。