百九 不吉
家の中に入ると、女性はすぐに鍵をかけた。そして、窓から辺りをチラチラと見回したあと、ホッとしたように短いカーテンを閉じた。
振り返った女性に、汚れた服は洗ってあげようと言われ、促されるまま三人は上着を脱いだ。
ふと、日野は辺りを見回した。狭い家の中はぽかぽかと温かく、少しかじかんだ手がほぐれていく。中央にある小さな暖炉の上には、楽しそうに笑う中年の男女の写真が飾ってあった。
女性のほうは、自分たちを家に招き入れてくれたこの人。しかし、隣に写る男性はここにはいない。
「気になるかい?」
その写真をジッと見つめていると、柔らかな笑みを浮かべた女性に声をかけられた。
「一緒に写ってるのは旦那さ。去年、病気で亡くなっちまったけどね」
「……優しそうな方ですね」
「だろう? 今でも大好きさ。たった一人の、大切な人だよ」
あんたの大切な人は、そこの兄ちゃんかい? と小さな声で訊ねられ、日野は赤面した。
その様子に、図星だね、と楽しそうに女性は笑った。
すると、二人のやりとりはお構いなしに、グレンは椅子に腰掛けて女性へ声をかけた。
「おい、おばさん。ところで──」
「あたしゃ、まだお姉さんだよ。ジェマって呼んでくれ」
「そりゃ悪かったな。ジェマ姉さん、俺たちを急かしてまでここに招き入れた理由はなんだ? 殺されるってどういうことだ」
「殺人鬼が来たんだよ。あんたたちが来る少し前にね。背の高い白髪の男が街を潰して回ってるという噂は耳にしていたから、みんな家の中に隠れたんだ。しばらくしたらいなくなったみたいで、少し外の様子を見ようとカーテンを開けてみたら、あんたらが来たって訳さ」
背の高い白髪の──、それはきっと刻だろう。街の人間から避けられ、情報を得られなかった。その話に、日野は自分のことのように悲しい顔をした。
やっぱり、一緒に行動するべきだったのか。今もまだ、この雨の中で、刻はきっとローズマリーとルビーを探し回っている。
早く、なんとかしてあげなければ。その気持ちから、日野はギュッと両手の拳を握り締めた。
「あの……ジェマさん。この辺りで、髪の長いフードを被った男の子や、フリルやリボンのついたワンピースを着た女の子たちを見かけませんでしたか?」
「さあ、どうだったかねぇ……その子たちを探してこの街に来たのかい? ワンピースを着た女の子は街にちらほらいるけど、髪の長い男はこの辺じゃ見たことないね」
「……そうですか。それじゃあ、白髪の男がどっちへ行ったか分かりますか?」
「ごめんね。私も怖くって家に隠れちゃったから、分からないよ。街の人間でわかるのがいるかもしれない。雨が上がるまでうちにいていいから、晴れたら聞き込みでもしてみな」
「それじゃ──」
それじゃ遅いんです! そう言いかけた時、グレンが椅子から立ち上がり、日野の手を掴み引き寄せた。
バランスを崩した日野の体は、グレンの腕の中にすっぽりと収まった。抱き締めたまま、小さな日野の頭にコツンと顎を乗せたグレンは、その体勢のままジェマへ話しかける。
「他には街でなにか変わったことなかったか?」
「そうだねぇ。少し前、街の女の子たちがいなくなって大騒ぎになったよ」
「女がいなくなった?」
「そう。幸い、その恋人たちが探しに行って、無事に戻ってきたんだけどさ。あの子たち、何もなかったって言いながらずっと怯えてるのさ。だから、こう妙なことが続くと……不吉だねぇ」
頬に手を当てて、ジェマは深いため息を吐いた。
街の女性たちの失踪。戻ってきてからの怯えた様子。突然現れた殺人鬼。そしてこの、どんよりとした空に止まない雨。
何かが起こる前触れのようで、居ても立っても居られない。そわそわと三人分の上着を集めたジェマは、汚れを落とすために洗濯の準備をはじめた。
すると、ハルがジェマのエプロンをくいくいと引っ張った。
「ジェマさん。じゃあ、最近どこかで鈴の音を聞いたことはない?」
「鈴の音ならたまに聞くよ。そんなに珍しいもんでもないからね。店先に飾ってあったり、街の女の子の髪飾りなんかに付いてたり、色々さ。……そういえば、シェシェもよく鈴の髪飾りを着けてたね」
「シェシェ?」
「そう。少し前にいなくなった女の子の一人さ。会いたいなら、明日紹介してあげるよ」
「ほんと? ありがとう。ジェマさんは優しいんだね」
そう言って、ハルはニッコリと微笑んだ。
あら、可愛いボウヤだね。と言いながら、ジェマはニコニコと笑って洗濯をしに向かっていった。
すると日野が、頭に乗っているグレンの顎を押し上げながら、ゆっくりと体を離した。その頬は赤く染まっているが、顔には怒りと焦りの感情が表れていた。
グレンはフーッと深く息を吐くと、赤く染まった頬を両手で掴んだ。
「ブス」
「…………」
「怒ったら可愛い顔が台無しだぞ! だって」
「……ごめんなさい」
「バカ」
「あんまり心配するな! だって」
「……うん」
「焦るのは分かるが、熱くなるな。刻なら大丈夫だ。ローズマリーとルビーも必ず見つける」
「ボクも、そのつもりだよ」
そう言った二人の眼差しは、強く優しいものだった。二人の言葉に、日野はコクリと頷いた。
昂った気持ちが少しずつ落ち着いていく。
ローズマリーとルビーを早く助けてあげなければ。雨の中を探し回っているであろう刻も、このままではそのうち風邪を引いてしまうだろう。
早く、早く。そう焦る気持ちが抑えられずに、優しいジェマさんに八つ当たりしてしまうところだった。
「二人とも、ありがとう」
日野がお礼を言うと、グレンとハルは柔らかく微笑んだ。
「今夜は人に聞き込みするのも難しいだろう。明日また探す。今日はここに厄介になろう」
時計の長針と短針が真上を向いた頃。硬い床に、二枚の布団が並べられた。ジェマさんは奥のベッドで寝るらしい。
ハルとアルを真ん中にして、日野とグレンで挟むように寝転がる。焦る気持ちを抑えるように、日野はギュッと目を閉じた。
明日。明日はきっと。きっと助けられますように。
心の中で、そう祈りながら、ゆっくりと眠りについた。