百五 愛して
パチパチと薪のはぜるような音が聞こえ、ローズマリーは薄く目を開けた。両手首に違和感を感じて確認してみると、そこには硬い手枷がはめられていて、手枷から壁まで長い鎖が繋がっていた。
一体ここはどこだろう……体を横にしたまま、ゆらゆらと視線を動かすと、先程から鳴っている音は暖炉から聞こえているものだということがわかった。
薄暗い部屋の中で、その辺りだけが炎に照らされている。暖炉の前には、誰かがあぐらをかいていた。
なにか話しているようだ。しかし、周りには誰もいない。独り言だろうか……それにしては、やけに楽しそうだった。
あの人は誰だろう。私は何をしていたんだろう。ぼうっとする頭で考える。確か、刻に部屋から出るなと言われていた。外に出たらまた危険な目に遭うかもしれないと引き止めたが、刻はやることが残っていると言って出て行った。
それから、どのくらい時間が経った頃だろうか……遠くで、街が壊されていく音が聞こえはじめた。
私は、刻の無事を祈るように、ルビーと一緒に窓の外を見つめていた。すると、
──コンコン
誰かが部屋の扉を叩いた。
刻……のノック音ではない。こんな時に、誰だろうか。
部屋から出るなとは言われたが、ここを訪ねてくる人間がいるとすれば、憧子たちくらいだろう。そう思い、油断してしまった。
鍵を開けると、扉は乱暴に開かれた。目の前には数人の見知らぬ男たち。彼らは、酷く悲しい顔をしてそこに立っていた。
「ごめんな」
そう言うと、男たちは私を取り押さえた。そして、物音に気付いて駆けつけて来たルビーも──
蘇ってきた記憶に、ローズマリーはハッとして辺りを見回した。寝返りをうつように体を回転させて後ろを確認すると、同じように手枷をつけられたルビーが倒れていた。
「ルビー。ルビー、起きて」
小さな声で呼びながら体を揺らす。何度か呼びかけているうちに、ルビーの目が開いた。
良かった、生きていた。まだ寝ぼけた様子のルビーに、ホッと胸を撫で下ろした時だった。
「オハヨウ。二人とも目が覚めた?」
暖炉の前の人物から声をかけられた。ゆっくりと立ち上がったその人は、こちらに向かって歩いてくる。目深に被ったフードに長い髪。顔ははっきりと見えなかったが、声の感じから、それが男だと分かった。
ローズマリーは両手を使って起き上がると、男から逃れるように後退りした。目が覚めたルビーも、ローズマリーの背中に隠れている。
「あなた、誰なの? ここはどこ?」
「その前に……ちょっと待って」
スタスタと歩く男は、そう言って部屋のランプに近付き、明かりを灯した。部屋が先程より明るくなると、男はこちらを向いてにっこりと笑った。
「さっきの質問の答えだけど、オレはオリバー。ここは知らない人の家。家主は殺したから安心して寛いでいいよ。それにしても、近くで見るとやっぱり可愛いね……オレのお嫁さんにならない?」
オリバーはそう言って、ローズマリーの顎に手をかけた。その手を振り払うように、ローズマリーは両手を振り上げる。しかし、振り上げた両手は簡単に掴まれてしまった。
片手で抑えているにもかかわらず、どんなに体を動かして抵抗してもオリバーの手はびくともしなかった。
「私には好きな人がいるの。悪いけど、あなたのお嫁さんにはならないわ!」
「ふーん……でも、いくらキミが好きだと言っても刻は助けに来ないよ」
「あなた、刻を知ってるの? 狙いは何?」
「知ってるよ。キミたちのことは事前によく調べたし、刻は有名な殺人鬼だもの。それに狙いも何も、アイツはキミたちを見捨てて逃げ出したんだ。だからオレがキミたちを引き取ったの」
「ふざけないで。刻はそんなことしないわ」
ローズマリーがキッとオリバーを睨みつけると、オリバーは嬉しそうに口角を上げた。
「ねぇ、キミは刻を好きだって思ってるかもしれないけど……アイツはキミのことが好きなのかな? 好きだって言われたことある?」
掴んだ手を持ち上げてニヤニヤと笑いながら、オリバーはローズマリーの顔を覗き込む。
オリバーの問いに、ローズマリーは答えられなかった。
──好きだ
たった一言、それを言われたことがなかった。いつも、どこへ行くのかも分からない彼の背中を見送るだけ。帰ってきたら迎え入れるだけ。
次はいつ会えるだろうか、会えたらどんな話をしようかと想像しながら、彼の好きな甘いものを準備して待っている時間が幸せだった。
でも、何度会っても彼は好きとは言ってくれなかった。それでもいい。それでもいいと思っていた。しかし、改めて訊かれると……私たちはどういう関係なのだろうと考えてしまった。
戸惑ったローズマリーが黙っていると、オリバーがそっと体に触れようとした。その時、ローズマリーの背後から、ルビーが両手を振り上げて飛び出してきた。
両手についた硬い手枷をオリバーの頭目掛けて振り下ろす。しかし不意をついたはずの攻撃は躱され、小さな体は勢いよく床に押し付けられてしまった。
「ジャマするな。女の子だからってオレは手加減しないぞ」
そう言って、オリバーはルビーの鼻と口を押さえる。ルビーは息が出来ずにバタバタともがくと、再び意識を失った。
「ルビー! やめて、その子を殺さないで!」
「大丈夫、殺さないよ。気を失っただけだから安心して」
手についた埃を落とすように両手を叩くと、オリバーは目に涙を浮かべたローズマリーをギュッと抱き締めた。
「ねぇ、どうなの? 手を繋いでもらったことある? キスしてもらったことある? 抱き締めてもらったことある? 刻に、好きだって……言われたこと無いんでしょ?」
そう耳元で囁かれた言葉に、ローズマリーの目から涙が溢れた。
違うと答えたかった。否定したかった。しかし、一緒にいても何もされたことが無い……それは事実だった。
好きだと思っているのは私だけで、刻は私をなんとも思っていなかった。「好きにしろ」と言われてついてきた旅も、もしかしたら邪魔に思われていたかもしれない。
考えれば考えるほどに、心は深く暗い場所へ落ち込んでいった。それでも、希望は捨てたくなかった。刻はいつも助けに来てくれた。初めて出会ったあの日も、山の中で熊に追われたあの日も、いつだって刻は助けに来てくれた。だからまた──
「キミはアイツにとって都合のいい女だったんだ。刻はキミを捨てて、他の女の子のところに行ったんだよ」
耳元で囁かれる言葉が、希望を打ち砕いていく。
「そんなことない……刻は、そんなことしない……私は……」
「刻がしてくれなかったこと、オレは全部してあげる。だから、アイツじゃなくてオレを愛してよ。ローズマリー」
オリバーの腕に力がこもる。柔らかい体を強く抱き締めながら、「捨てられた」「刻は助けに来ない」と呪文のように囁き続けた。しかし、彼女の心はまだ折れそうにない。
「刻はそんなことしない……」
オリバーの腕の中、ローズマリーは小さな声でそう言いながら、力無く涙を流していた。