百三 因みに
白い髪の先からポタポタと雫が落ちる。濡れたスーツが体にまとわりついて気持ちが悪い。太陽は雲に隠れ、暗い空から降り続ける雨が、追いかけていたはずの匂いを消した。
行く先を見失った刻は、森の中で一人立ち尽くしていた。
いつでも会えると思っていた。あの小さな店の扉を開けると、栗色の髪を揺らしながら彼女が振り向いた。そして、とても嬉しそうに微笑んで、こちらに駆け寄ってきた。
ふわりと漂う甘い匂い。あの店へ通ううちに、なぜかその匂いが癖になっていた。
あの頃は、彼女が目の前からいなくなるなど考えもしなかった。いなくなったところで、拒否されたところで、それは彼女の意思だ。傍にいようが、離れようが、好きにすればいい。そう思っていた。
──ドンッ
苛立った刻の拳が近くの木を殴りつける。ミシミシと音を立てて、木はぬかるんだ地面にめりこむように倒れた。
殴った衝撃で、冷え切った体に痛みが走る。こんな雨の中、なぜ彼女たちを探し回っているのだろうか。
頭に浮かぶのは、ローズマリーとルビーの姿ばかり。静かに過ごしていたいのに、二人のおかげで最近はいつも騒がしかった。外を歩いている時も、部屋にいる時も、いつになったら話が尽きるのかと呆れる程に、よく喋る。
しかし今は、雨の音以外には何も聞こえなかった。
「静かなものだな」
濡れた白髪をかき上げながらそう言うと、背中をトンと押された。ゆっくりと振り返ると、黒い馬が刻を励ますように擦り寄ってきた。馬用のレインコートを着せてはいるが、少し寒そうにしている。
「心配するな、落ち込んでなどいない。しかし、この雨の中ではどこを探せばいいのか検討もつかないな……貴様はどうだ?」
そう問いかけると、黒い馬は首を横に振った。そうか……と呟いて、刻はあてもなく歩き出す。
ジッとしてはいられなかった。ローズマリーやルビーの匂いとは別に、数人の男の匂いがした。そして、その後を追うようにフード男の匂いも残っていた。
こうしている間にも、二人が何をされているか分からない。一歩、また一歩と歩を進めるたびに、胸が締め付けられた。
──会いたい。
ふとそんな思いが心を支配した時、アイザックの言葉が頭に浮かんだ。
『それを好きだって言うんですよ、バカ』
好き……? 違う。ただ、会いたいと思っているだけ。フード男のような奴に二人を渡したくないだけ。ただ、それだけだ。
会って、助け出して、その後は知らない。彼女たちの好きにすればいい。
「傍にいてほしい……そんな言葉、口に出す資格は俺には無い」
そうポツリと呟いた刻の声は、雨の音にかき消された。その時、
──チリン
鈴の音が、近くで響いた。黒い馬の耳がそれに反応してピクピクと動く。どこから響いた音なのかと、馬は辺りを見回した。しかし、何かがいる気配はない。ご主人様は気付いているのか? と、刻の方へ視線を向けるが、刻は鈴の音に気付く様子もなく歩いている。
──チリン
まただ。また鳴った。黒い馬は再び辺りを見回すが、やはり何の影もない。生き物の気配すら感じられなかった。
しかし、二人の居場所が全くわからないこの状況では、鈴の音さえ貴重な手がかりになるかもしれない。なんとかして、ご主人様に伝えなければ。
黒い馬は、ぬかるんだ地面を蹴り上げると、そのまま刻の背中へと向かって走り出す。
──ドカッ
鈍い音を立て、刻を背中から突き飛ばした。まさかそんなことをされるとは思ってもいなかった刻は、その勢いで顔から地面に突っ伏した。
強い衝撃を受けた背中の痛みに顔を歪めながら、刻がゆっくりと起き上がる。泥だらけになったその姿を見て、黒い馬は一歩後退りした。
「……貴様、どういうつもりだ。この俺に何か恨みでもあるのか?」
低い声でそう言った刻は、怒りを抑えるように顔を引き攣らせながら笑っていた。
ああ……ごめんなさい。ごめんなさい、ご主人様。綺麗なお顔を泥だらけにしてしまって……因みに鈴の音がしたのですが聞こえませんでしたか?
黒い馬は、慌てながらもなんとか鈴の音のことを刻に伝えようとした。体を動かしたり、鳴き声を出したり、出来ることは全てやりきった。しかし、刻には伝わらなかった。
「どうした……風邪でも引いたのか?」
しまいには病気の疑いまでかけられてしまった。
なんとかして伝えたい。気のせいかもしれないが、気のせいじゃないかもしれない。手がかりにならないかもしれないが、手がかりになるかもしれない。
でも、ご主人様とは言葉が通じない。自分には、話すことも、伝えることもできない。一体どうしたら……。
その時、一匹のネズミの姿が浮かんだ。
──そうだ! あの子なら!
黒い馬は、ブルルと鳴きながら、姿勢を低くした。
「どうした? 乗れと言うのか?」
乗って。数少ない人に伝わる動作だ。
辺りに耳を澄ます。鈴の音は、しなくなっていた。
馬は刻がしっかりと乗ったことを確認すると、勢いよく地面を蹴って走り出した。目指すのは、あの小さなネズミのいるところ。あの子なら、きっと伝えてくれる。
「おい、そっちは街に戻ってしまうぞ!」
その言葉が届いていないフリをして、黒い馬はぬかるんだ道を走り続けた。