百二 ネズミ語
ほらよ、と手渡された折りたたみ傘。雨の中、走りながらコウモリのようなそれを広げて、三人は街の出口まで向かっていた。
雨に濡れないだろうかという心配はグレンのおかげで無くなったが、外の騒ぎはまだ収まっておらず、壊れた建物を修繕する人や、亡骸の傍で涙を流す人、慌ただしく駆け回る医者が目に入った。
それらを横目に大きな通りを走り抜け、ようやく街の外へ出た。そして、そこで待っていたのは──
「アル!」
黄色いレインポンチョを着た大きめのネズミだった。
ハルはネズミの名を呼ぶと、胸に飛び込んできた小さな体を受け止める。持っていた傘の中棒を肩で支えると、冷え切った小さな体を温めるように両手で包んだ。
おかえりなさい、と言って微笑むと、アルもチチチと鳴きながらハルの手に身をすり寄せた。
「アル、寒かったでしょ? よく頑張ったね」
ハルがそう言うと、アルは嬉しそうに鳴いた。
「アル、おかえりなさい。この雨だし心配してたんだけど、そんなに小さなレインポンチョなんてあるんだね……可愛い」
日野がホッとしたように人差し指でアルの頭を撫でると、アルが何か言いたげに体を動かし始めた。
両目尻を釣り上げるように引っ張ったあと、手を動かして何か伝えようとしている……と思っていたら、くるりと一周回ったあとに、両手を広げてポーズを決めた。
その行動にどういう意味があるのだろうかと日野が首を傾げていると、ハルが笑いながら教えてくれた。
「グレンが作ってくれたんだ、似合うでしょ? って言ってるよ」
「あ……なるほどね」
言われてみれば、そういう動きに見えてきた。言葉は通じないけれど、体全体で必死に伝えようとしてくれている。なんとも可愛らしい生き物だ。
しかし、この小さなレインポンチョを作ったのがグレンとは……料理も出来て手先も器用、自分より女子力の高い彼に感心してしまった。
そして、ふと見上げると、そこには満足そうな彼の顔があった。
「可愛いだろ。ちゃんと雨から守ってやれたみたいだな。ところで、さっそくで悪いんだが、女どもの居場所は掴めたか?」
グレンがそう言うと、アルはまた鳴きながら身振り手振りで伝え始めた。
しかし、日野にはアルの言葉はチチチとしか聞こえない。大きく体を動かしながら何かを伝えてくれているものの、それもよく分からない。
そんな、言葉の通じないネズミ相手にグレンとハルはうんうんと頷いていた。たまに言葉を返しながら、会話もしているようだ。
なぜこの二人は人間と同じようにアルと話しているのだろう……そんな疑問が頭に浮かぶ。いつだったか、テレビで動物と話ができる人を見たことがあるが、もしや彼らもネズミ語が分かるのだろうか。
話の中からなにか手がかりが見つかっていればいいのだが……そんなことを考えていると、二人と一匹の会話が止まった。
「あ……どうだった?」
日野が恐る恐る訊ねると、二人は首を横に振った。
「やっぱり、駄目だったみたい」
「この雨だしな。匂いも足跡も消えちまって、ローズマリーやルビーの居場所は分からなかったそうだ。ただ……微かに残っていたオリバーの匂いを追っていた時、鈴の音が聞こえたらしい」
そう言うと、グレンとハルは腕を組んで考え込んだ。
しかし鈴の音だけでは、それが偶然聞こえただけのものか、オリバーや連れ去られた二人に関係しているものなのか分からない。
アルの嗅覚でも追い続けることは出来なかった。ならば、刻も今頃はどこを探せばいいかと迷っているだろう。
「取り敢えず、アルが奴を見失った場所までは行ってみるか。そこまで案内出来るか?」
気持ちを切り替えるように、グレンはフウッと息を吐いた。ハルの手の中で、少し大きめのネズミが頷きながら進む方向を示している。
立ち止まっていても仕方がない。手がかりが少なくても、道がぬかるんでいても、空が泣いていても、前を向いて進むしかない。
雨の中、日野たちは小さな手が指し示す方へ、ゆっくりと歩き出した。