百一 出発
──コンコン
一通り情報屋から買い取った話を聞き終え、サンドイッチの乗った皿も空になった頃、誰かが扉を叩いた。
この部屋に訪ねてくる人間などそうそういないはずだ。刻が戻って来たのだろうか? それとも……
日野が扉を開けるために席を立つと、スッとグレンの手が遮った。何も言われなかったが、俺が行くということだろう。
グレンはそのままスタスタと扉まで歩いて行くと、訪ねて来た誰かと話をし始めた。相手の姿は見えない。小さな声で話しているため、その内容もよく聞こえなかった。
すると、用が済んだのか、声の主を招き入れることなく、扉はパタンと閉じられた。
「出発だ。お前ら、さっさと荷物をまとめるぞ」
「え? いいけど、今すぐ出発するの?」
「ボクたちだけで行くの? ザック先生は?」
「置いていくに決まってんだろ。病人は役に立たねぇんだよ。それよりジジイを外で待たせてる。早く準備しろ、今すぐ出発だ」
そう言って荷物をまとめ始めたグレンに釣られるように、日野も慌ただしく準備を始める。
アイザックの様子が気になりベッドの方を見やると、ハルが寂しそうに別れを告げていた。
この街を去る前に何とかして医者を呼ぼう。涼しい顔をしているが、体中が痛みに悲鳴を上げているはずだ。
準備を終えると、買ってもらったコートを羽織る。よく見ると、フードも付いていた。これなら雪が降っても大丈夫そうだ。しかし、窓の外を見ると雨はまだシトシトと降り続いている。
雨の日に街を出るのは初めてだ。せっかく買ってもらったのに、濡れてしまうな……どこかで傘が買えたらいいのだが……。
そんなことを考えながら、忘れ物が無いかを確認する。部屋の隅に置いてあったアイザックの荷物は、ベッドの近くに寄せた。
よいしょ、という掛け声とともに自分のリュックを背負ったその時、パサリとフードが頭に被せられ、見上げると、グレンと目が合った。
ポンポンとフード越しに頭を軽く叩かれる。街を出るまでは被ってろよ、という意味だろうか? 日野は赤くなった頬を隠すように、フードを深く被り直した。
グレンとハルも準備を終え、アイザックにも改めてお礼と別れを告げた。その時、日野はこっそりと、なんとかして医者を呼ぶことをアイザックに伝えたが、彼は笑いながら、医者ならもう来ているから大丈夫だと答えた。
それがどういう意味か考える時間も無く、グレンに急かされながら、落ち着きのないまま日野はハルを連れてバタバタと部屋を出て行く。
すると、扉の外にいた白衣の老人と目が合った。日野を見た瞬間、老人の顔が青ざめる。
「ひいい!? お主、街中で暴れて──」
「おう、ジジイ。待たせたな。おじさんのこと頼んだぞ」
悲鳴を上げた老人から日野を隠すように割り込んできたグレンが、老人の言葉を遮った。
「おじさん! 三人分の宿代は財布に入れておいたからな! 支払い頼んだぞ!」
グレンがその言葉を言い残し、三人は廊下を走り抜け宿を出て行った。
まるで嵐のように過ぎ去って行った彼らに、あんぐりと口を開けていた老人は、ハッと何かを思い出したように目の前の扉に手をかけた。
「そうじゃった、そうじゃった。熱のある怪我人はお主かね?」
白衣の老人はそう言ってアイザックへ近付いていく。
「熱があるって……誰がそんなこと」
熱があることは日野さんにしか伝えていないはずだったが……彼女がそれをこの医者に伝える時間は無かったはずだとアイザックは首を傾げる。すると、ガチャガチャと白いトランクを開けていた医者が口を開いた。
「さっき扉のところでね、あの兄ちゃんに聞いたよ」
『ジジイ、怪我で呼んだところ悪いが、顔が赤いから熱もあるかもしれない。診てやってくれるか?』
『わしゃ医者じゃぞ、言われなくともきちんと診るわい。安心して任せなさい。それと、わしはジジイじゃない!』
年老いた医者は、つい先程のことを思い出し、年寄り扱いしおって……と、苦々しい顔で呟いた。
アイザックはフッと嬉しそうに笑うと、ゆっくりと目を閉じる。
「少し寝ても良いですか?」
「好きにせい。その間に手当てしておいてやろう」
こんなに傷だらけにしおって……と言って、医者はブツブツと独り言を言い始めた。その声にクスクスと小さく笑うと、フッと緊張が緩み、アイザックはすやすやと深い眠りに落ちていった。