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むらさきの雨

作者: 下戸山椒魚

これは昔話です。



むかしむかしある所に田中さんという女性がいました。彼女はただ働いてご飯を食べて寝るだけの、そんな白黒な日々を送っていました。


そんなある日、仕事の帰りにコンビニに寄って会計を済ませている時のことでした。ふと外を眺めると一匹の白い猫がこちらをじっと見つめていました。不思議に思い見返しているといつの間にか会計が終わっていて、田中さんは慌ててお酒の入ったビニール袋を受け取りました。振り返ると猫はいなくなっていました。



コンビニを出て夕方の住宅街を歩いていると、信号の無い十字路に差し掛かった辺りで先程の白い猫を見つけました。その猫は道の真ん中で立ち止まり、またじっとこちらを見つめていました。赤みがかった水色の美しい瞳でした。その光景に懐かしさを感じた田中さんは猫に声をかけました。すると猫は黙って歩き出します。しかし少し行くと振り返り、また立ち止まりました。まるで待っているように見えたので、田中さんは猫について行くことにしました。


田中さんにはある猫との思い出があります。それは幼馴染の佐藤君が飼っていたスマイルという名前の猫です。スマイルも美しい白い毛をしていました。幼馴染とは家族ぐるみで仲が良く、よく佐藤君の家に行ってはスマイルと遊びました。佐藤君とは高校までずっと同じ学校で、スマイルは佐藤君と同じくらい田中さんにも心を開いてくれるようになりました。そんなスマイルと先程の白い猫がとても似ていたのです。




それからも白い猫は一定の距離を保つように後ろを振り返りながらゆっくり進みました。すると手前に小さな公園が見えてきました。そこは佐藤君とよく遊んだ場所でした。二人が高校生になった頃に遊具が新しくなりましたが景観は昔から変わっていませんでした。猫は滑り台のてっぺんに座りました。そこは二人が公園に行くのによく付いてきていたスマイルの特等席でした。田中さんはベンチに腰をかけ、お酒を飲みながら泣きました。知ってか知らずか猫は田中さんが泣き止むまで毛ずくろいをしていました。


涙もすっかり引き、空になったビール缶をゴミ箱に捨てて戻ってくると、猫は滑り台から降りていました。そして田中さんの姿を見ると公園の外へゆっくりと歩き出します。田中さんもまた猫について行きました。




猫と田中さんは地元の中学校の前を通り過ぎました。耐震工事された場所だけ色が濃いような古い校舎のままでした。紅葉の季節も過ぎ、葉が抜け落ちた木々が寒そうに風に震えていました。


田中さんは毎朝佐藤君と一緒に登校していました。部活が違うので下校する時間は違いましたが、いつもテニス部の練習の後に美術室前で佐藤君を待っていました。ドア越しに見ている田中さんに気付くと、佐藤君は決まって顔を崩して手を振りました。田中さんは佐藤君が絵を描く姿を眺めることが好きでした。


もう日も暮れて、校門は閉まっていました。猫はその細い校門の上を器用に歩いていきます。少し砂が混じった風が火照った身体を吹き抜けました。




しばらくすると馴染み深い喫茶店の前に着きました。個人経営の小さな店ですがとても雰囲気の良い落ち着いた内装で、値段も安く、チェーン店に比べて客も少ないのでついつい長居してしまうようなお店です。猫は店前に飾られている花の香りを心地良さそうに嗅いでいました。


二人は高校生になってからこの店によく通いました。特にテスト期間は「家じゃ集中できない」などと言い訳をしてこの店で待ち合わせをしました。生真面目な佐藤君が遅刻することは無く、田中さんも次第と時間に正確になりました。佐藤君は成績優秀で田中さんは教えられてばかりでしたが、彼は嫌な顔せず付き合ってくれました。二人が恋仲になることはなく、けれど田中さんは佐藤君のことが好きでした。




それからも不思議な白い猫は二人の思い出をゆっくりと歩いていきました。二人だけで花見をした丘陵に咲く桜の木、夏に一度だけ行った遊園地のプール、紅葉に囲まれた小さな神社、初めて手を繋いで歩いた冬のイルミネーション。その全てが色鮮やかなままでした。



気付けば田中さんは佐藤君の家にいました。そこに白い猫の姿は無く、代わりにテーブルに置かれた日記帳だけがありました。田中さんの前では向かい合うように座っている佐藤君のお母さんがハンカチで涙を拭いていました。開いている日記帳は半分が白紙のままでした。田中さんは文字が書かれた最後のページを読みました。そこには上手ではないけれど形の整った佐藤君の文字がありました。


『六月二日。絵の仕事が波に乗ってきてから一年近くたってようやく収入も安定してきた。そろそろ自信を持って想いを伝えてもいいだろうか。いや最近はお互い忙しくて会う回数も減ってるし、いきなりはよくないかな〜。分からん。分からんものは明日考えよう。なんて先送りにばっかしてるからダメなのかねぇ。そもそも向こうの気持ちはどーなんでしょ。こーゆの文字にすると恥ずいしやめよ。』


今日は一月四日。日記は半年以上書かれておらず、そしてこの続きが書かれることはもうありません。佐藤君はこのページを書いた次の日に交通事故で亡くなりました。田中さんは佐藤君の葬儀が終わってからただ事務的に生きていました。働いてお酒を飲んで寝るだけの生活が続いていたある日、佐藤君のお母さんから「遺品整理をしていたら捨てるに捨てれなくて、是非あなたにも見て欲しい」と誘われ正月休みにこうして佐藤君の家にやって来ました。そこでこの日記帳を手に取りました。生真面目な彼が毎日寝る前に付けていた日記。それを田中さんは一日かけて読んでいました。何の変哲もない日常の羅列が、忘れていた世界の色を、二人で描いた沢山の色を田中さんに思い出させました。田中さんは声を出して泣きました。掌に溢れ出た自分の涙を見て、田中さんは佐藤君が美大に進むことを決めた日の言葉を思い出しました。


「涙って何色だと思う? 僕は沢山あると思うんだ。例えば欠伸した時の涙は白。悲しい時は青。嬉しい時は赤。目に見えるものだけが色じゃない。僕そういうこと考えてる時間が、やっぱりどうしても好きなんだよね」


思い出は次第に色褪せますが消えることはありません。田中さんの眼から零れた涙は日記帳を紫に染めました。それはアルビノだったスマイルの瞳のようでした。



さて、三十路を控えた田中さんはまだ田中さんのままのようですが、毎日楽しくとはいかずとも元気に生きているようです。めだたしめでたし。


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