ラスト・ワルツ
「おかえり、木綿子ちゃん」
五年ぶりの故郷の駅で偶然会ったたけちゃんは、そう言って微笑った。
「はは、ただいま。何かすっかりご無沙汰しちゃって……」
「ホントにね。高校卒業してから一回も帰省しないなんて、どうしたの?……みんな心配してたよ」
「いやあ、誠に申し訳御座いません。十二分に反省し、今後はこのような不手際のないように注意を怠らないことを心掛けます」
私はおどけて頭を下げた。社会人になって鍛えられたスキルの一つだ。頭を深く下げれば下げるほど謝罪の意思を示す事が出来、自分の表情を隠すことが出来る。
たけちゃんは「もう!」と笑って、私の背をバシバシと叩いた。私も笑った。会話をわざと切った事は悟られなかったようだった。
いまだ蒸し暑い朝だった。暦の上ではとっくに秋の筈なのに、湿度も蝉の声も全盛期のままに思える。空の青も熱気を輻射する夏の仕様まま。私の好きな、高く清しい秋の空にはほど遠かった。
久方振りの友人とおこなう定番の近況確認と外見の褒め合いを一通り済ませて、私は時計を見た。
「ごめんね、もう行かないと」
「あ、そうだね。引き止めちゃってゴメン」
「ううん、全然。お母さんが足を折ったらしくてさ。大した事は無いみたいなんだけど、見舞いに来いってうるさくて」
「おばさんも寂しいんだよ。せいぜい親孝行しないとね。……ねえ、いつまでこっちに居るの? 今夜、は疲れてるだろうから、明日会えない? みんなで遊ぼうよ」
出来るだけ遠い地域へ就職したので、有給と土日を含めて休暇は四日あった。正直あまり気乗りはしなかったが、そろそろもう良いだろう、という気はする。普通の帰省客になっていい。五年も逃げ回ったのだ。
「もちろん良いよ。明日の夜ね。連絡はどうする?」
「スマホ今故障中でさあ、代替機だから何かあんまりプライベートで使いたくないんだよね。みんなへの連絡はこっちで何とかするから、明日の夜七時に家に迎えに行っていい?」
「分かった。楽しみに待ってるね」
さて、帰省しなかった言い訳を考えておかないと。母には仕事が忙しいの一辺倒で何とかしてきたが、明日の夜はそうはいくまい。女友達の追求は容赦ないのだ。
手痛い失恋をしたとでも言っておこうか。あながち間違いではない。
本当の事を話す心算はなかった。だって何でもなかったのだ。あの痛みも、喉を突き上げてやまない嘔吐感も、タオルをぐっしょりと浸した赤も。
――みんな、私の気のせいだったんだから。
たけちゃんの車は……私は車には詳しくないけれど、それでも断言出来るほど旧式でボロかった。ちょっと引いた。表情には出さなかった……と信じたい。
「さ、行こ行こ」
満面の笑みを浮かべるたけちゃんに逆らえる訳はなかった。わざわざ家に迎えに来てくれたのだ。私は妙に薄っぺらい感じのする助手席のシートに笑顔で座った。
車はなめらかに発進した。失礼だけどちょっと驚いた。
日が落ちると、さすがに少しだけ涼しさが感じられる。県道の路肩に秋桜の列が揺れていた。
「あたし、木綿子ちゃんは音大に行くんだと思ってた。ピアノすごく上手だったし」
他愛のないお喋りの途中で、たけちゃんは無遠慮にそう言った。私は声のボリュームを上げて胸の痛みを押し潰す。
あれからピアノは弾けなくなった。鍵盤が血で汚れるから。
「まさかあ。よっぽど才能が有る人じゃないと、やっていけないんだよ、音大って」
「ええ、木綿子ちゃんでもダメなの? 厳しいんだね。……あたし、木綿子ちゃんのピアノ好きだったな。むかし中学の音楽室で弾いてた、あの綺麗な曲……」
「中学? 何だろう、覚えてないなあ」
「ええとね、確かこんな感じ」
右ウインカーの音と共にたけちゃんは歌い出した。
「てぃらりらりら、てぃらりら……」
あやしく崩れたメロディーだったが、すぐに分かった。叙情的なピウ・モッソ。メランコリックな右手の旋律が、オクターヴのステップを踏んで淑やかにターンする。くるり、くるり、くるりと。
ワルツの第七番、嬰ハ短調作品64‐2。タイトルは無いが有名な美しいショパンのワルツだ。
「ああ、わかった。ショパンのワルツだね。そんなの学校で弾いてたかなあ」
「あたしは凄く印象に残ったから覚えてるんじゃないかな。中学のことなんて普通もう忘れてるからね」
たけちゃんは朗らかに笑った。またワルツを口ずさむ。楽譜からはかなり外れたメロディーは気に障るばかりで正直止めて欲しかったが、そんなことは言えなかった。
私は外を眺めて苛立ちを誤魔化すことにした。
「ねえ、たけちゃん」
そして街灯もまばらな郊外の道を走っている事に気がついた。
「なあに」
「これ、何処に向かってるの? 今日はどのお店に行くの?」
「とっておきの所だよ」
にこにこと笑って、たけちゃんは更に暗い野原に向けてウインカーを出す。
観覧車と複雑なレール、幾つかの建造物が遠く月光に沈んでいた。十五年ほど前に閉鎖された裏野ドリームランド。ネット等でも風情ある廃墟として有名な廃園だ。どんな傷も押し流すはずの時間という救いが、錆びついて止まった場所。何もかもあの時のままの。
「いや、いやよ。たけちゃん戻って。あそこには行きたくないの。もう二度と行かないの」
車はバウンドしながら猛然と野原を突っ切った。穂芒をなぎ倒し、野紺菊の群落を踏んで跳ねる。破れて傾いたフェンスを轢き飛ばした。上下左右に振られて、私は思わずシートベルトに縋る。
ぽつりと咲いたピンクの秋桜の前で、車はやっと停まった。
「とうちゃーく!」
たけちゃんが声を張り上げる。
それは恐れていた通り、メリーゴーラウンドの傍だった。私は目を瞑り、命綱のシートベルトを固く抱きしめた。あり得ない。あり得ない。誰も知るはずが無い。
「そのメリーゴーラウンドね、ひとりでに廻るって有名なんだよ。心霊スポットなの。どうしてだろうね」
耳に生ぬるい唇と嘲笑の感触。私は悲鳴を上げた。いつの間にか助手席のドアが開けられ、たけちゃんが車外から覗き込んでいた。私に抱きつくようにしてシートベルトをはずした彼女に、引きずり降ろされる。最後までシートベルトを離さなかった右手に噛みつかれて、私は再度悲鳴を上げた。
「さあ、遊ぼう? 会わせてあげたくて、ずっと待ってたんだよ」
「ちがうちがうちがう!」
「何が違うの? ここで遊ばせる為にわざわざ埋めに来たんでしょ? とっても小さかったから、ここがいいもんね。ジェットコースターとかじゃ怖がるだろうし」
「……どうして知ってるの?」
野原に座り込んで私は呆然とたけちゃんを見上げた。彼女は笑顔のまま、また調子外れのワルツを歌う。メリーゴーラウンドを囲む錆びた円形の柵を開け、私の腕を引いた。万力めいた抗いようのない力だった。
塗料の剥げた天蓋は所々が欠け、舞台の床も割れて盛り上がっているのが見えた。割目に沿って細い草が揺れている。
首が異様に細く、醜く見える馬は、たてがみが落ちたのだろう。足が無かったり、倒れたりしたものもある。十五頭ほどの串刺しの馬達は、一様に叫びの形に馬銜を噛まされ、そのまま時を止めていた。色褪せた鞍が奇形の肋骨のように胴に浮く。
たけちゃんはまだ歌っていた。憂いに満ちた、哀しい、空回りのメロディー。
二ヶ月近く生理が遅れた。高三の夏だった。
泣きながら相談したピアノ教師には、「俺はちゃんと避妊してた。別の男だろ」と突き放された。いくら彼以外は知らないと訴えても、彼は全く聞く耳を持たなかった。
ズルズルと圧倒的な力で引きずられて私は進む。草むらの長い葉が頬を切った。歯の根が合わない。あの時もガチガチと忙しなく音を立てていた。壊れたメトロノームみたいに。
あの時のことは切れぎれにしか覚えていない。凄まじい痛みと下腹の痙攣に襲われ、夜中のトイレに駆け込んだ。大量の血。こみ上げる吐き気。タオルを噛んで堪えた激痛と、レバーのような何か。泣いて。暗闇。多分少し気を失って。
水洗で流してしまう事は出来なかった。優しい気持ちなどではない、全くの保身だった。万が一詰まってしまったら、何が詰まっているのか調べられてしまう。そう思った。
便器の中の血溜まりをタオルで浚った。歯も手も足も震えて、思うようには動かなかった。極力見ないように、直接触れないようにした。でも一瞬だけ、指の間をするりと滑った短い、棒のような、あれは、あれは、――
「違う、気のせいなの。あれはただの遅れてきた生理で、何でも無かったの」
私は震えながら呪文のように呟いた。だってそうなのだ。痛みも出血も一時的なものだった。だから何でもない。とても体調が悪かった。それだけ。
立ち止まったのはメリーゴーラウンドの真ん前だった。円形の舞台に沿って、まだ綿毛を開いていない芒が風に靡いた。かたい銀の穂波が周囲を巡る。
「まだそんなこと言ってるの? 木綿子ちゃん。せめて認めてよ」
歌うのを止めてたけちゃんは、にっこりと微笑んだ。異様だった。人の口角は、あそこまで深く吊り上がるのか。そんな、はずは。
「あたしの時もそう言ったね。気のせいだって」
生者には有り得ない表情で、たけちゃんは嗤った。私はようやく思い出した。彼女は中学の時に首を吊ったのだ。この裏野ドリームランドで。
「……だって、あれは両親の虐待が原因だって……」
「そうね。でもね、気持ち悪いとか臭いとか触ったら汚れるとか、クラス中でそんな事を言われて無視されて、私が全然傷つかないとでも思った?」
「違うの……」
「本当はね、あのクソ親をドリームキャッスルの拷問部屋送りにする以外に、復讐する気なんて無かった。でもみんな、自分のせいじゃない、自分は関係なかった、って思い込んで忘れてしまうんだもの。ひどいよ。気のせいだって言って、無かった事にされてしまうのが、一番ひどい」
黒い縄跡のある首を、見せつけるように真後ろに仰け反らせて、たけちゃんは呻いた。その身体は芒と共に風に靡いてブラブラと揺れる。どうして気が付かなかったんだろう。彼女は中学のセーラー服を着ていた。背も顔の多分、当時のままだ。
「ほら、見て。メリーゴーラウンドが廻るよ。開園だよ」
半端に太った月が、天頂から白けた明かりを灯した。人の行き交う気配が園内に満ちる。ゾッとするほど虚ろな気配。遠くの悲鳴が風に混じる。でも、振り返る事は出来なかった。
ぎ、ぎ、と舞台が軋んだ。哀しげに口を開けたままの馬達が、ぎこちなく進み出す。
あの時、何故ここに来たのか、何を考えてここを選んだのかは思い出せない。どす黒く変色したタオルを厳重にビニール袋で包み、紙袋に入れてバスに乗った。気のせいだと思っていたはずなのに。
馬は進み、浮いて、沈む。色褪せた往時の夢の残骸。打ち棄てられ、正当な動力を失い、最早どこにも辿り着かない死馬のパレード。ポールの銀色のメッキの残りが、ちらちらと月光を反射して、当てのない旅路を彩った。
ああ、きれいだ、と思った。そして私に相応しい。
「今夜のメリーゴーラウンドは木綿子ちゃん達の貸切りだよ。ほら、遊ぼう」
前方から芒の中を、カサカサと小さな何かが近付いてくる。
私は正面を向いたまま、それを見ないようにした。震えが止まらなかった。座り込んだ膝先に取り付いたそれは、軟体めいた不安定な動きで腿から腹、胸を這い登り、鎖骨にペタリとへばり付く。すえた血の臭い。縋るように首筋を蠢くのは、冷たく、細い、――
「つかまえた」
上機嫌なたけちゃんがワルツを歌いだした。
夜が廻る。
くるり、くるり、
くるくる、
――くるり。
勝手に廻る、誰も乗っていない、明かりが灯る、とても綺麗、
と、お題の要素は一応全部満たしたはず。
でも、あんまりピカピカにライトアップしたくない気分だったので、月光で。
廃れた雰囲気のまま廻って欲しかったので、「とても綺麗」は悩んだ末に、主人公が諦観と共に綺麗だと思う程度にとどめました。お題消化としては苦しかったかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。
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