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奇聞集  作者: keikato
67/79

67 トランス

 今回は今は亡き母の話である。

 母は他人を疑うことをまったく知らず、詐欺の被害に遭うもっとも典型的な人だった。

 そんな母が某宗教にのめり込んでいったのは、何事も信じて疑わないその性分だったと思う。ただ母自身は、それまで苦しめられていた偏頭痛が楽になったと話してはいたのだが……。

 私は就職とほぼ同時に実家を離れたので、当時の記憶は明確ではないが、母が某宗教に入信したのはその時期であったと思われる。

 その宗教団体は日本各地に支部があって、各支部ごとに道場というものがあるそうで、母は毎日のようにそこへ通っていたようだ。

 私は実家に立ち寄った際、母からしばしば道場への車の送迎を頼まれていたので、よく道場のある場所まで母を連れていったことを覚えている。

 そんなある日。

 母から道場に上がって見学しながら待っていろと言われ、そのとき初めて母に連れられ、私は道場なる建物の中に入らせてもらうことになった。

 今回の話は、そのとき私が目にした母の異様な光景である。

 時期は昭和が終る少し前の頃だったと思う。


 道場は畳敷きで三十畳ぐらいの広さがあった。

 すでに十人以上の信者らしき者が、二人一組になって対面して何やら行っていた。

 受付でいくらかの寄付をすませたあと、母が奥の方の畳に正座をすると、すぐに一人の若い男性がやってきて、やはり母と対面して正座をした。それから母の額に向かって手の平をかざし、お経のようなものを一心に唱え始めた。

 事前に母から、手の平からは光が出ているのだと聞いていた私は、三メートルほど離れた場所に座り興味津々にそれを観察していた。

 母の言った光が見えることはなかった。

 ただ、ものの一分。

 母の体が前後左右に揺れ始め、ついには倒れるように畳の上にうつ伏してしまった。

 それだけではなかった。

 母は低いうめき声をあげ始めたのである。

 それから次第に、何やら言葉も発するようになっていった。

 私には母が何をしゃべっているのかよく聞き取れなかったが、そのときそれが男言葉のようだと思った。

 途中、男性が読経を中止し、母に向かって怒ったように話しかけ始めた。

 その話し方から母というより、母の中にいるもう一人の人物に向かって話しているという感じである。すなわち母の身体に、誰か別の悪い者が憑依しているのである。

 男性の戒めの言葉が続く。

 男性の口から出ていけという言葉が発せられる。

 母はさらに強く体を動かすようになった。まるで何かの苦しみに耐えているようだった。

 母が母でない。

 男性は母の動きに合わせ、自分の手の平が母の額に向くようにしていた。

――これがトランス状態なのか。

 私はそう思った。

 トランス状態。

 それまでテレビでは何度か見たことはあったが、母親が目の前でそのような状態になって、私はとにもかくにも驚いた。

 二人の話を聞いていると……。

 母に憑いた者はかなり昔に生きていた男で、しかも何らかの罪を犯した罪人。

 男性がその罪を改心させ、また母の身体から出ていくよう説得している。

 おおむねそんな構図であった。

 男性と母に憑依した者のやり取りは、それから三分ほどで終わった。

 男性がどういったきっかけで終わらせたかは記憶にないが、母は先ほどまでのことがまるでウソのようにいつもの母に戻っていた。憑依した者が母から離れたたのだろうが、その場で聞くにも聞けず、状況はまったくわからなかった。

 この男性。

 手かざしとお経で人をあっという間にトランス状態にしたり、また元に戻すとは不思議な力を持っているものだと思った。

 帰途。

 母に対面した男性は誰なのかを聞くと、母は支部の幹部で先生だと話していた。

――催眠術のようなものだな。

 私はそう思ったことを覚えている。

 ただ……。

 一時的にも自分が罪人の男になっていたことを、母自身は覚えているのだろうか?

 このことも聞いたとは思うが、そのときの母の答えを残念ながら覚えていない。

 今となっては残念でならない。


 これを書くにあたって、ウィキペディアで「トランス」のことを調べてみたので、その概略をここに記しておくことにする。

 トランスあるいはトランス状態とは、通常とは異なった意識状態、つまり変性意識状態の一種であり、その代表的なものである。

 入神状態と呼ばれることも、脱魂状態や恍惚状態と呼ばれることもある。

 トランス状態には以下のようなものがある。

・催眠によって表層的意識が消失して心の内部の自律的な思考や感情が現れるもの。

・ヒステリーやカタレプシーにより意識を喪失したもの。

・宗教的修行によって、外界との接触を絶ち、法悦状態になったもの。

 トランス状態に入るのにはさまざまな方法があり、社会ごとに定型化されていることが多い。たとえばイタコやカミサンの場合は祭壇で呪文などを唱える。

 トランス状態の時には通常の感覚は失われ、例えば目の前でストロボを発光させても反応しなくなるし、からだの一部に針を刺してもそれを感じない。

 トランス状態というのは何も宗教的な場面だけに見られるわけではない。一例を挙げると、催眠療法というのは催眠を用いた心理療法であるが、一連の暗示操作によって覚醒レベルを下げて被暗示性を高めた状態に導き治療を行うものであり、トランス状態のもたらす緊張緩和効果を利用している。


 最後に。

 晩年の母は認知症になった。

 やがて母は道場に行くと、ほかの信者や宗教団体の者とトラブルが絶えないようになり、ついには悲しいことに破門されてしまった。

 救うのが宗教ではないか。

 それまで多くの奉仕活動や、多額の寄付をしてきたであろうにと、身内としては文句のひとつも言いたくなるところだが、他人様に迷惑をかけていることも事実であった。

 現実とはそんなものなのかもしれない。

 残念である。

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