35 クチナシ
この話は私自身が体験したことである。
不思議なことでも怪奇なことでもないのだが、ただこれだけは言えると思う。
こうしたことを経験した者は、数万人に一人もいないのではなかろうかと……。
平成に入ってすぐの頃。
その年の一月に亡くなった祖母の分骨と京都の観光をかね、両親と兄と四人て西本願寺に行った。
九州からはフェリー、京都市内ではレンタカーを利用した。
まず納骨堂で分骨をすませ、それからいくつか名所を巡り、最後に平等院鳳凰堂に向かったのだが、宇治川の土手沿いの道路を走っていたときである。
「人間が川に浮いていた!」
後部座席の左側にいた母が叫んだ。
川は道路から見下ろす位置にあったのだが、土手に立ち並ぶ木々の間からたしかに見えたのだという。
それからは観光どころではない。
両親は警察を呼びに、私と兄は人が浮いていたという現場へと走った。
七十歳前後の老婦人だった。
川底には消波ブロックが並べられており、その突起に引っかかるようにして浮いていた。
水深は三十センチほど。
岸からは三メートルも離れていない。
老婦人は息をしているようには見えなかったが、紺色の花柄のワンピースを身に着けた身体には目立った外傷はなく、とにかく川から引き上げようということになる。
と、そこへ。
四十歳前後の男性がかけつけてきた。やはり道路から見えたのだという。
この男性と兄がズボンの裾をまくし上げ、水に入って老婦人をかかえ上げ、私が岸の上から抱き取るように受け取った。
このとき死んでいると確信した。
溺死体を拾ったのである。
それから間をおかず、両親が近くの交番から警察官を引き連れてきた。
その警察官は二十代半ばくらいで、彼もこんなことに遭遇するとは思いもしなかったのだろう、溺死体を目の前にしてひどくあわてふためいていた。
兄が発見からの状況を話した。
そのさなか。
一緒に行動した男性が地元の人だとわかり、あとはその方に任せることにして、私たちは早々にその場から退かせていただき、再び平等院鳳凰堂に向かって車を走らせた。
平等院の庭園。
そこにはクチナシの花が咲いていた。
その白い花びらをむしり取り、兄と私は必死になって身体じゅうにこすりつけた。
なんのことはない。
クチナシの香りで、死体の臭いを消してしまおうと考えたのだ。
その後。
九州から遠く離れた京都のことゆえ、あの老婦人の溺死の原因は知らないままである。
事故だったのか。
自殺だったのか。
事件だったのか。
今となっては想像にゆだねるしかない。
そういうことがあって、旅先での記憶は川で死体を拾ったこと、平等院の庭に咲いていた白いクチナシの花のことだけである。
私はこんなつまらぬことを考えた。
――これこそ死人にクチナシだな。




