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奇聞集  作者: keikato
35/79

35 クチナシ

 この話は私自身が体験したことである。

 不思議なことでも怪奇なことでもないのだが、ただこれだけは言えると思う。

 こうしたことを経験した者は、数万人に一人もいないのではなかろうかと……。


 平成に入ってすぐの頃。

 その年の一月に亡くなった祖母の分骨と京都の観光をかね、両親と兄と四人て西本願寺に行った。

 九州からはフェリー、京都市内ではレンタカーを利用した。

 まず納骨堂で分骨をすませ、それからいくつか名所を巡り、最後に平等院鳳凰堂に向かったのだが、宇治川の土手沿いの道路を走っていたときである。

「人間が川に浮いていた!」

 後部座席の左側にいた母が叫んだ。

 川は道路から見下ろす位置にあったのだが、土手に立ち並ぶ木々の間からたしかに見えたのだという。

 それからは観光どころではない。

 両親は警察を呼びに、私と兄は人が浮いていたという現場へと走った。


 七十歳前後の老婦人だった。

 川底には消波ブロックが並べられており、その突起に引っかかるようにして浮いていた。

 水深は三十センチほど。

 岸からは三メートルも離れていない。

 老婦人は息をしているようには見えなかったが、紺色の花柄のワンピースを身に着けた身体には目立った外傷はなく、とにかく川から引き上げようということになる。

 と、そこへ。

 四十歳前後の男性がかけつけてきた。やはり道路から見えたのだという。

 この男性と兄がズボンの裾をまくし上げ、水に入って老婦人をかかえ上げ、私が岸の上から抱き取るように受け取った。

 このとき死んでいると確信した。

 溺死体を拾ったのである。

 それから間をおかず、両親が近くの交番から警察官を引き連れてきた。

 その警察官は二十代半ばくらいで、彼もこんなことに遭遇するとは思いもしなかったのだろう、溺死体を目の前にしてひどくあわてふためいていた。

 兄が発見からの状況を話した。

 そのさなか。

 一緒に行動した男性が地元の人だとわかり、あとはその方に任せることにして、私たちは早々にその場から退かせていただき、再び平等院鳳凰堂に向かって車を走らせた。


 平等院の庭園。

 そこにはクチナシの花が咲いていた。

 その白い花びらをむしり取り、兄と私は必死になって身体じゅうにこすりつけた。

 なんのことはない。

 クチナシの香りで、死体の臭いを消してしまおうと考えたのだ。


 その後。

 九州から遠く離れた京都のことゆえ、あの老婦人の溺死の原因は知らないままである。

 事故だったのか。

 自殺だったのか。

 事件だったのか。

 今となっては想像にゆだねるしかない。

 そういうことがあって、旅先での記憶は川で死体を拾ったこと、平等院の庭に咲いていた白いクチナシの花のことだけである。

 私はこんなつまらぬことを考えた。

――これこそ死人にクチナシだな。


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