ねだり狸
刀 無銘 伝《ねだり狸》
刃長二尺七分。反り七分一厘。鎬造、庵棟。身幅広め、重ねが厚めで小切先、腰元からゆるく反った中間反り。地鉄は小板目を詰んで細やかな地沸がついているが、地色は濃く青みががった黒。室町中期ごろの作と思われる。刃文は一見皆焼を思わせるが、注意して観察すると桃山最盛期の刀身彫もかくやと思わせる見事な狸の姿がのっていることがわかる。これが《ねだり狸》の由来とされる。伝承によると、旅の侍が猟師も入らぬ薄暗い山道を一人歩き、ドウドウと轟く急流を危なっかしく越えたころにはドンドロドロドロと雷が哭きはじめ、雨も降り出して、さてどこで夜を明かしたものかと思案に暮れつつ熊笹を踏み越え川辺に出たところ、一尾の小ぶりな狸に鉢合わせした。この狸、雨露を避けるべく自分の嚢を畳ほどの大きさにひろげてかぶり、鍋と柄杓をのせた盆を両手に持ち、物欲しげにしている顔はなかなか愛嬌がある。そう思って見ていると、狸が口を切った。お侍の旦那。おいらはこの山の化け狸だ。そんじょそこらの狸とは格が違う。龍にも獅子にも化けられるが、それもたらふく食っていればの話。いまは腹ぺこで手前の玉袋に押しつぶされそうなくらい弱っているときてる。旦那、意地悪は言いっこなしだ。そして、狸は雨が入らないよう注意して、鍋のふたを開けた。中身は酒――鍋底の疵一つ隠せないほどに澄んだ酒だった。狸が言う。おいらはこの三日、酒しか飲んでいない。それは羨ましい身分だな、と侍。狸は笑う。酒は美味いが腹にたまらねえ。なにかに化けるってのはひどく腹が減るんだ。未熟な狸が分に合わない大化けをして死んじまうことだってあるんだぜ。山賊どもにとっつかまってタヌキ汁にされそうになったもんで、おいらァ、でっけえ妖怪に化けてやったのさ。山賊どもは蹴散らしたが、調子に乗って力を使いすぎた。変化がとけたころにはもう腹が減って動けねえ。これじゃいかんてなもんで、山賊どもの鍋と酒をとって、なんとか道まで降りてきて、食いでのあるものをと思ったところに旦那が通りがかったのさ。さあ、旦那。こっからが大切なとこだ。だましあいっこは一切なし。この酒とその岩魚、取り替えちゃくれないかい? 侍は快く自分の食べるつもりだった岩魚を与えてやった。狸はいった。恩は忘れないぜ。狸の恨みは深いけど、恩はもっと深いんだ。数年後、侍はその恩を思わぬ形で返されることとなった。侍はさる国の山道で三人の山賊に囲まれ、一人の首を打ったものの二人目を袈裟懸けにしたところ刀身が骨にかかり抜けなくなった。最後の山賊が長巻きを上段から振り下ろそうとしたそのとき、侍は突然手に飛び込んできた刀をつかんで相手の一刀を刀身の中ほどで受けた。気づくと山賊は腕と頭の鉢を割られて絶命していた。そのとき侍の手に飛び込んできた大業物匹敵の一本こそ、岩魚をねだった狸の化けた姿であった。伝承ではこの侍は生涯このねだり狸を腰に差したと云われるが、また一方では侍は酒好きだった狸のためと思い、酒代にしてぱあっと呑んでしまったとも云われる。伝承としては後者のほうが人気がある。後者の伝承によれば、ねだり狸は幾人もの手を渡り歩いたと云われ、また人語を話すことができたと云われる。ねだり狸の操る言葉は物の怪を斬ったことのあるものにのみ理解することができたと云われるし、誰であっても理解できたとも云われている。
幾多の講談のなかでも美貌の侍刀十郎とねだり狸の話は人気がある。たとえば紅葉山の鬼を斬ったという話。刀十郎が桜舞い散るなか、突然現れた美女に酌をされ、その杯をぼんやりと眺めていたが、そこでねだり狸が、旦那、杯に注意しなと声をあげた。刀十郎は促されて杯を眺めた。水面には恐ろしい鬼の顔が映りこんでいた。伝承はここに二つの説を投ずる。一つは刀十郎が振り返りざまに抜刀し美女に化けた鬼を胴から真二つに斬り捨てたというもの。もう一つは見逃したというものである。ここでは見逃したものを採用する。なるほどね、刀十郎は冷笑すら浮かべると手を刀の柄にかけるかわりに酌婦のほっそりとした腕をつかんだ。なにをなさいます、と酌婦に化けた鬼がいえば、刀十郎は顔を近づけじっと見る。刀十郎の顔立ちは美女のそれより整っていて女性を感じさせる白い肌、吹きかけられるのは冷たい息。それは人間離れした、大業物の名刀を思わせる美貌の侍だった。刀十郎はふん、鬼にしてはうまく化けたな、というなり手を離し、行け、今後人食いをやらぬのなら命は助けてやると言い放った。美女は鬼に姿を変化させると、山肌を猿のように登り、洞窟のなかに去っていった。刀十郎の冷たい笑みがすっとゆるみ、礼をいう、とねだり狸に話しかけた。お前がいなければ食われていたよ。数日後、刀十郎の宿に客があった。それは酌婦に化けた鬼である。今宵ここに参ったのはお願いがあってのことでございまする。刀十郎はカレイの干魚を小さくかじってつまみにし、酒を呑んでいた。私どもの山で抜け忍を匿っております。すると刀十郎の手が止まった。抜け忍? まだ詳しくは言えませぬ。そうか、刀十郎は杯を傾けた。ならばここにもやってくる、お前、おそらくは…… つけられていたぞという前に油皿の火が消えて障子が破れ、天井から柿染め色の忍び装束が飛び込んだ。左だ、ねだり狸は言った。刀十郎は咄嗟に身を寄せると忍びの音のない突きを流し、すれちがいざまに横腹を心臓まで届くほどの深さで斬った。忍びが血を噴き上げ闇のなかに沈むと、新手が庭から湧いて出た。庭の茂みから針が音もなく殺め針が走る。トリカブトの猛毒を塗った針はたとえ急所に当たらずとも、じわじわと命を奪う、まさにつば先三寸で打ち払い、そのまま潅木ごと忍びを串刺しにする。残った二人の忍びは手鉤と忍び刀を両手で交差して影に溶けるように身を低くする奇妙な形で構えている。ふん、暗殺剣術か。軽蔑の笑みを浮かべつつ、左の忍びを上段で誘い、相手が構えを崩したところを蹴り上げ頚骨を破砕し、右の忍びに飛びかかる。おもわず体位を挙げた右の忍びの首を腕ごと払いで刎ねた。見ず知らずの男を排除するために忍びを五人も送りつけるところを見ると、その抜け忍は重要な忍びに違いない。それにしても恐ろしい刀である。斬った忍びのうち一人は鎖帷子を纏っていたのに、まるで紙でも切るように鎖を切り裂いてしまった。刃こぼれはなかった。これはねだり狸がいかにすぐれた大業物であったかを知らしめる逸話である。刀十郎と抜け忍が出会ったときの描写に関しては正確な資料が残っていない。伝承も刀十郎が初めて出会った抜け忍に感服し、ねだり狸を譲ったとも云われるが、これも細部については不明であり、議論がされている。人を斬るとき冷笑を浮かべる刀十郎がそのようなありがちな感情にからめとられ、ねだり狸のような大業物を手放したりするであろうか。伝承の一つによると刀十郎が手放したのはねだり狸の慫慂によるものであったとも云われる。ねだり狸はしゃべる刀である。旦那、ちょっとおいらをあの抜け忍の小僧に貸してやっちゃくれねえかい? それもありえるのではないか。
この抜け忍については資料と伝承の語るところによれば、まだ少年であったという。とノ十三。これが少年の名前であった。名前というより符号である。とノ十三は忍びのなかでも暗殺をもっぱらとする忍びであった。対象は人間であることもあれば物の怪であることもあった。里にいたころはもっとも巧みな暗殺者として重宝されていた。とノ十三に狙われたものはたとえ大名であろうと豪商であろうと必ず抹殺された。とノ十三といえばその名は死そのものを言い表した。なにか思うところあって里を逐電した折には多くの忍びが追撃したが誰一人生きて帰ることはなかった。みなとノ十三の暗殺術の餌食となったのだ。奇妙なことにとノ十三は逃げない抜け忍であった。彼は人里離れた山のなかに小さな庵を結び、そこで暮らした。山水は紅葉のふもとから岩肌を白糸のように流れてゆく。枝葉の合間からこぼれ落ちる日光が名もなき山道を美しく飾った。とノ十三は人間としては育てられなかった。彼の里では《いろはにほへと》で少年たちを組に分け、番号をふった。とノ十三とは《と》の十三番目の暗殺者という以上の意味を持たない。それは刀の銘よりも情のない名であった。彼は人間ではなかった。ともあれ、ねだり狸は幼いころより殺すことのみを学んだ冷氷のごとき少年の手に渡った。とノ十三とねだり狸のあいだに交わされた会話は想像するかぎり、このようなものであっただろう。
「おいらはねだり狸。あんたは?」
「とノ十三」
「へんな名前だねえ」
「……」
「すまねえ。怒らすつもりはなかったのさ」
「べつに怒っていない」
とノ十三にまつわる話というと、死霊ヶ原の決闘が有名である。死霊ヶ原とは死者が髑髏となって甦り徘徊するすすき野であり、とノ十三は八ヶ辻城主に召し抱えられた剣士木原某と果し合いをすることとなった。ねだり狸の言葉を借りれば、それは薄汚い功名のための戦いだった。木原某はとノ十三を斬って、己が功名を確固たるものにせんとしたのだ。本当に汚い野郎さ。ねだり狸は語った。死霊ヶ原の草を足で踏んだ途端、暮れ方のススキのむこうから死霊がわんさと現れた。とノ十三は大勢殺めてきた。侍に忍び、女の忍びもいればまだ小さな忍びもいた。悪霊物の怪の類もいた。鬼や青坊主、化けギツネ。みな旦那(とノ十三)が斬った物の怪さ。ねだり狸は語る。そんなやつらが旦那の姿が見えなくなるくらい纏わりつきしがみつくもんだから旦那はすっかり身動きがとれなくなった。剣術師範はそれを見るなりしめたと思った。死霊ヶ原ではこれまで殺めたものたちが人物の怪を問わず現れて、自分を殺めたものを冥府へ引きずり込もうとする。いくらとノ十三でもあれだけの死霊に組み伏せられては手もでるまい。ところが旦那はそんな死霊には目もくれず、おいらを抜くなり飛び上がった。死霊亡霊怨霊どもを引き連れて。木原某のほうはというと腕があがらず刀すら抜けなかった。たった一人小さな女の子の死霊に取りつかれてね。女の子の霊は背筋がぞっとするような笑みを浮かべて木原某を見上げた。まあ、やっこさんにも覚えがあったんだろうな。一方、旦那に憑いた怨霊の数があまりに多いものだから脳天からヘソまで相手は真っ二つになるやいなや紫の炎につつまれて骨まで灰になっちまった。死霊にとりつかれたまま、旦那はおいらについた血をぬぐうと鞘におさめた。あの女の子の霊は旦那にぺこりと頭を下げると、すーっと消えていったのさ。
木原某の焼け残りに目をやって少年は言った。
「剣を捨てるべきなんだ。業を背負えないのなら」
とノ十三とねだり狸は十本松の決闘、黒蜘蛛党三十人斬り、桜花狂乱など様々な逸話を残した。ある地方ではとノ十三は労咳によって夭折したとも云われている。誇り高き狼はその死に様を決して人には見せない。とノ十三もまた然り。感情を持たぬ暗殺者は人間が有するくだらない幾多の感情のなかから価値のあるのを一つ、誇りを抱いて死んでいった。とノ十三夭折説を信じるものはその証拠として山賀の地蔵堂を挙げる。つまり、ここでとノ十三は最期を遂げたというわけであるが、この仮説を信じる人々は同時にとノ十三はその死に様を誰にも見せず、また亡骸も残さなかったという極めて矛盾した主張をする。とノ十三がその亡骸を残さなかったのであれば、なぜ山賀の地蔵堂でとノ十三が最期を遂げたと分かるのか。しかし、民間伝承の大半は誰かより伝え聞いた話を核とする。口から口へと話がまわるうちに多くの矛盾を内包することは決して珍しくもなく、またそれによって伝承の民衆文化としての価値が減ずるものでもないだろう。地方によってはとノ十三の佩びていた打刀は大鯰が化けたものだ。いやとノ十三は大蛇が化けた鎖鎌を得物としていたのだと主張する人々もいる。H県K村の稲荷神社では二尾の狐が化けた二本の短刀こそがとノ十三の得物であると信じ、実際にその短刀が奉じられてもいる。これ以上の例示は本文章の目的であるねだり狸の解説から大きく外れるため割愛するが、ともあれとノ十三の得物についてだけでも全国に数十の異なる話が伝え聞かされていることは銘記しておこう。
K県では、ねだり狸の持ち主として公家侍の大納言なる老武者が登場する。齢七十、六尺の背丈、見事な美髯の持ち主である大納言は高烏帽子にだいぶ着古した狩衣を身につけ、腰には太刀でも吊るすようにねだり狸がさがっていた。大納言はその昔、朝廷で権勢をふるっていたが、身に覚えのない咎で追放となり、各地を放浪する身となった。大納言は路銀を稼ぐために菓子屋と組んで居合抜をした。つまり客寄せの口上代わりに居合い抜きをしてみせ、集まった人々に乾菓子や羊羹、果物を売るのだった。大納言はこの道の達人であり、人以外ならば何でも斬ってみせた。巻き藁、大根、豆粒、瀬を泳ぐ小魚、空を飛ぶツバメ、米俵。大納言の斬ったなすびはピタリともとの一つにくっついた。大路や街道に大納言が現れると、通行人だけでなく、演目を放り出した猿引や傀儡師、辻占いまでが居合い抜きを見物しにきたという。その名は管領家の邸にまで聞こえ、ついに饗宴に呼び出されることになった。大納言は内心不服であった。かつては宴会の舞台ではなく首座の席につき猿楽や能を観たものだ。邸で見世物になることは辻往来のそれと違って辛いものよ。過ぎた日の栄華がいまはこの身に辛く堪える。それでも行かぬわけにはいくまいて。宴には権中納言有茂が来るではないか。思えばいまの不遇もこやつの讒言によるもの。目にものみせるは今宵をおいて他にはない。すると、ねだり狸は初めて大納言に話しかけた。本当にやるのかい。大納言は刀が話しかけてきても、齢七十を超えれば滅多なことに動じることはなく、ただウムとうなずいた。ねだり狸は残念に思った。今まで話しかける機会こそなくとも、すぐれた技を持ち、零落しても庶民のなかにあってたくましく生きたこの老武者を気に入っていたのだ。おそらく彼は死ぬだろう。たとえ怨敵を斬ったところで、管領邸の武士たちによって膾切りにされるのが関の山だ。だが、老武者の決意は覆らず、かくて大納言は管領邸の舞台にあがった。篝火の光が鏡のように磨かれた舞台や庭園を貫く小川の水面に踊っている。客人たちの話し声。田楽法師の笛や太鼓。厨房からは魚の身を骨から外す音がシャリシャリと聞こえてくる。そこまで大納言の神経は高ぶっていた。権中納言有茂は我のことを忘れたと見える。それほど我の零落はひどいのだろうか。大納言は口を切った。今宵見せたるはそれがし一世一代の大技にございまする。管領はたずねた。何を斬るのか。人にござりまする。言うなり大納言は抜き打ちを放ち、数瞬後にはねだり狸を元の鞘にパチリとおさめた。では、ごめん。大納言はその場をつかつか歩き去った。管領一同は一体なにが起きたのか分からなかった。大納言が刀をおさめるところはかろうじて見えたが、抜いたところは目にとらえきれず、大納言が一体何を斬ったのか判じかねた。その場にいたものはゆっくり己の首に触れ、まさか自分の首が斬られたのではあるまいかと思案した。権中納言有茂もその一人であり、恐る恐る蚊をつぶすようにパチンと自分の首筋を叩いてみたが、首は落ちなかった。そのうち管領が肝の太いところを見せようとして笑いながら、人を斬るより食ったところのある老人であった、と言い、客人たちも左様左様と応じた。それから彼らは酒と肴と田楽を大いに楽しんだ。半刻後、権中納言有茂はかわやに立ち上がり、用を済ますとほろ酔い気味に廊下を歩いた。あたる風は肌に心地よく、鈴虫の声は耳に心地よかった。よろめき肩を柱に軽くぶつけた。すると、権中納言有茂の半身は袈裟懸けに右から左へ、肩から脇腹へズルリと落ちた。その後、大納言がどうなったのかは分からない。夜明けごろ、彼は蔵まわりの男とねだり狸を数枚の銭で交換にして、薄ぼんやりとした小路へと消えていった。翌日、捕縛吏がその行方を探したが、大納言は捕まらなかった。まるで天から伸びた手にさらわれたかのように手がかりを一切残さずに消えてしまったのだ。菓子屋は客寄せのために新しい男を雇わなければならなかった。その結果、杉田某なる牢人が居合い抜きとして雇われた。この男は身の丈よりも長い太刀を手にやたらと大きな口を叩いたが、それも結局抜かず仕舞いで終わるので、やがて人に飽きられてしまった。
ねだり狸を買った蔵まわりとは、あちこちで古着や古道具を二束三文で買い叩く質屋のことである。商売熱心な輩で夜明けに空の布袋と数十枚の粗悪な銭を持って出かけると、正午前には袋をいっぱいにして店に戻ってくるのだった。中身は小袖、水干、直垂などの衣類から焙烙や包丁といった台所道具、古銭や仏像、それにねだり狸のような刀剣である。こうしてねだり狸は土倉の持ち物となった。蔵には質流れの武具が並べてあった。土倉の主人は質屋の常として強欲だったが土一揆を恐れるだけの慎重さを持った臆病な小男であった。だが、彼は物――とくに値打ち――をよく知った男でもあった。ねだり狸が物の怪の化けた業物であることを一目で見抜き、妖刀をおさめる特別な櫃に閉じ込めたのだった。それはねだり狸がここで多くの妖刀に知己を得る機会でもあった。伝承ではここで天下に名を知られるかの妖刀村正と知り合ったとあるが、これは罪のない後世の創作である。ねだり狸がその意思を通じ合えたのは剣の持ち主と物の怪に限られる。村正はその由来に物の怪があるわけではないので、ねだり狸からすればただの刀に過ぎない。当時、その櫃には《大鯰》《天狗小僧》《あぶりするめ》といった太刀や小太刀、脇差の類がおさめられていた。顔役の《大鯰》曰く、もうじき自分たちはここから出られる。土一揆がおきて、蔵は全て破られ、戦になる。もう百姓と馬借と野武士が手を組んでいるのだから坊主も質屋もメッタ斬りにされるだろう。自分たちは野武士の手に渡るだろうが、それも長くはない。なぜなら天下をゆるがす大乱がおき、持ち主が次々と討ち死にする忙しい世がやってくるのだ。その場に居合わせた刀たちはきっとそうに違いないと相槌を打った。ねだり狸はそう物事がうまく運ぶだろうかと怪しんでいた。《大鯰》の博識を否定する気はないが、世の中そううまくいくものではないという気持ちも強かった。しかし、それを口に出して場の雰囲気を悪くすることもあまり賢いとはいえなかったので、ねだり狸もとりあえず相槌を打った。ひょっとすると数年先まで、ずっと相槌を打たねばならぬかもしれないと覚悟したが、意外にも解放のときはすぐにやってきた。数日後、櫃が開き、外気が流れ込むと主人の脂ぎった手がねだり狸をつかんで運び去ったのだ。主人はぶるぶる震えていた。そのような季節でもないだろうに。ねだり狸は自分が誰に売られるのか考えたのだろう。客間にいたのは……おや、刀十郎の旦那だったのかい。旦那がおいらを受けだしたってわけかい。でも、そんな銭どこから……え、違う? 今日一晩の用心棒するかわりにおいらをもらうという取り決めだって。そりゃまた滅茶苦茶な取り決めだ。おいらみたいな大業物をたった一晩で手にしようだなんて。――だが、それもそう法外な取り決めではなかった。土倉の主人はその晩に百姓たちが焼き討ちにやってくるという報せを受けていたのだ。ねだり狸はやはり滅茶苦茶な取り決めだと言った。百姓たちが束になってかかってくるんじゃ、いくら旦那でも勝ち目はないぜ。斬り込めば、旦那のことだ、十三、四人の首が宙を飛ぶだろうがその後はありとあらゆる方向からふってくる鍬だ鋤だをよけなきゃいけない。百姓たちにはもう失うものはないのだから、血を見たら狂乱の態で旦那を膾にしちまう。かといって壁を背にして戦えばいいかというとそうでもない。百姓どもは石礫を雨のように喰らわしてくる。斬り込んでもお陀仏、守ってもお陀仏。旦那どのみちお陀仏だ。なんまんだぶ、なんまんだぶ。旦那が死ねば大勢の女が、泣くぜ、きっと。それみたことかと喜ぶ女もいるだろうがね。刀十郎は言った。お前と話すのは楽しいよ。
刀十郎は土倉からしばらく歩き、竹林の鬱蒼と茂る道をねだり狸と刃渡り八分もない短刀、それに棒手裏剣を五本携えて進んでいった。百姓たちを待ち受けるのではなく、その懐へ飛び込んでいくのだった。暗い夜道を明かりもつけずにすいすいと歩く。奥へと進むうちに松明の光が幾つも暗闇に浮かんだ。きっとこの松明の火の下で誓文をまわし、そして土倉を焼くつもりだろう。一揆の衆は小さな社に集って、誓文の灰をお神酒とともに飲み干しているところだった。誰かが、そこで止まれと命じる。お前はどこの衆のものじゃ。刀十郎は口角を少しあげて、どこだと思う、とたずね返した。刀十郎が影のように身を低く駆け出したときには、これはいよいよ血を見るなとねだり狸は覚悟したが、そうはならなかった。両手に滑り込ませた棒手裏剣を松明に放って、社の周囲を闇に沈め、一揆の首魁とみられる大兵の野武士の首に手刀を打ったことをのぞけば刀十郎は何もしなかった。しかし、それで十分だった。血を一滴も流さず、一揆勢にものの道理を教え込んだ。別の伝承では刀十郎は松明の明かりを残したまま、一揆の首魁の目の前まで間合いをつめ、相手の柄をおさえたまま、目をのぞきこんだとも云われる。それだけで一揆の首魁が術にかけられたようにへたり込み、一揆勢の気迫は雲散霧消してしまったという。この言い伝えでは刀十郎がまるで飯綱使いのような印象を受ける。ただどの伝承も次の事柄では一致を見る。刀十郎は刀をぬかずに三百を越える一揆衆の武装を解いてしまったということだ。
こうしてねだり狸は刀十郎の手に渡った。しかし、この伝承の複雑なところはこの刀十郎の存在にある。刀十郎はねだり狸を手に入れては必ず何かの理由で手放している。手放した回数については伝承ごとに異なるが、少ないもので二回、多いもので三十五回におよぶ。しかも、その理由が明確に示された伝承は皆無である。とノ十三の伝承でも触れたが、刀十郎は抜け忍の少年と出会っただけでねだり狸を譲渡してしまうのである。その過程にどのようなやり取りがあったのかはまったく不明である。また伝承に現れる刀十郎が全て同一人物であるかすら疑問の態なのだ。これは後述することになるが、どう考えても刀十郎が生存しているはずのない時代に登場する伝承がある。刀十郎というのは実在の人物ではなく、伝承に寓意的性格を付与するために創出された人物なのではないかという説もある。ともあれ、ねだり狸の伝承を研究する上で刀十郎とは欠かせない一要素であることが共通の認識として存在する。それが実在しようがしまいが……
大乱、一揆、征伐。世が乱れる前は町も豊かであった。小路にメダカ売りの声が響き、焼き味噌と揚げ蕎麦の香ばしい匂いが竹を半分に割って屋根瓦の代わりにした居酒屋の入口からもれてくる。味噌に葱をまぜ木の板に張りつけ炙るだけの料理だが、これを揚げた蕎麦切りとともにいただくと実にうまい。少し裕福な商人のあいだでは炙り岩魚の骨酒が流行った。書店や酒屋の主人たちは岩魚の骨酒を嗜んだ。ほぐした岩魚をつまみに燗酒を飲むのは寒くなりつつあった時期の楽しみとして適したものであった。市は栄えた。品物があふれ、各店は繁盛した。料理屋、一服一銭、箙や兜の直し、占い師、書物屋、団子屋、菜売り、魚売り、漆細工師、繕い屋、奇術師、人形劇、狂言、皮革屋、数珠屋、鋳物屋…… 伝承によれば、当時市を仕切っていたのは唐越冠者率いる唐越衆であった。彼らはすごろく賭博の胴元、高利貸し、馬借の大親分、酒屋であり、馬借と関所の役人を抱きこんで、抜け荷を行い、悪党や牢人をかかえて、侍所の役人とも通じて、その支配は絶対的なものであった。唐越衆のゆるしがなければ、茣蓙一枚敷けぬ、お手玉一つ投げられぬという権勢ぶりだった。しかし、盛者もいつかは衰える。唐越衆もまた例外ではなかった。忍び崩れの男女を集めて結成された黒蜘蛛党が市の支配の簒奪を計画し、挑戦を始めると、その権勢にも影が差した。往来のあちこちで唐越衆が殺され始めた。黒蜘蛛党の刺客は山伏、猿引き、女芸人に身をやつし、毒針と隠し弓で唐越衆を葬り去った。有象無象の力自慢や足軽くずれを集めただけの唐越衆では忍びの術に精通した黒蜘蛛党の敵とはならなかった。荒瀬川で酒屋と馬借の親分の死体があがり、また忍び装束と鎖帷子に身をかためた黒蜘蛛党の刺客数人が成宮神社の賭場を襲い、客と唐越衆を斬殺した。関所では唐越衆の抜け荷に便宜を図っていた役人が茶に盛られた毒によって命を落とした。これらの殺人は全て、唐越衆と関わるものは誰であれ殺すという意志の表れであった。市の人々は震えおののき、唐越衆と距離を置いた。市は活気がなくなった。それもこれも黒蜘蛛党のせいだとこぼすと、どこからともなく毒針が走り、不平分子の命を奪った。ついにとうとう耐えかねた唐越冠者は町を出ることを条件に命だけは助けてもらおうとし逐電した。海へ出るために舟を雇い、乗り込もうとしたそのとき水中から伸びた鉄線に引きずり込まれ、波紋を一つ残して唐越冠者は消えた。しかし、黒蜘蛛党は後に自らの破滅をもたらす致命的な過ちを犯していた。町を出てから舟に乗るまでのあいだに唐越冠者は文をしたためそれを伝書鳩の足に結びつけて放っていたのだ。
文の内容は黒蜘蛛党の抹殺であり、その受け取り手こそがこの伝承におけるねだり狸の持ち主に相違ないが、問題は誰が受け取ったかである。これには三つの説がある。
一つは刀十郎。
一つはとノ十三。
一つはくノ十一。
くノ十一とはおそらく《いろはにほへと》のくの組の十一番という意味でとノ十三同様、暗殺を専門とするくノ一であろう。いずれの三人が手紙を受けたのか断定するには判断材料が足りないが、各伝承から共通する部分を抽出はできる。まずこの大立ち回りには黒蜘蛛党三十人斬りの名がつけられ、市からは黒蜘蛛党が完全に駆逐され、焼き味噌と揚げ蕎麦の匂いが路に戻ったということである。だが、人によってはこの三十人斬りを後世のつくり話と唱えるものもいる。その根拠は三十人の手練れを殲滅することが極めて難しいというところにある。刀が血糊で脂ぎり切れ味が鈍ることがあれば、鍔迫り合いで刃こぼれを起こすこともあるし、最悪は骨や具足に当たって折れてしまうこともある。たとえ剣士の腕がよくとも並みの刀で三十人を切り伏せることは不可能だ。よって黒蜘蛛党三十人斬りはまったくのつくり話である。いや、一見不可能に見えるからこそ、ねだり狸がこの大立ち回りに関わっているのだと主張する民俗学者もいる。この手の論争は最終的に水掛け論へと堕し、伝承を理解考察する上で大きな障害となっている。
さて、ねだり狸は必ずしも剣士の手のみを行き来したわけではない。寺社仏閣系の金貸しや在家信徒の商人、酒屋・土倉の帳簿にもその名は載っている。《宝徳元年、ねだり狸、明銭一貫文》《寛正四年、ねだり狸、麦種十石・大豆三石》といった具合にねだり狸は金銭や穀類と交換にされた。生娘と引き換えにされたこともあれば、盗賊にさらわれた商人の身代金として渡されたこともある。ややもすると、地侍や百姓が一揆を起こし劫掠が横行する世の中である。蓆旗がひるがえり、野太刀が叩き潰し、長巻が手足を刎ね、鎌が切り裂き、斧がかち割り、槌が土倉の戸を破るこの時代、おそらくは騒乱のなかで盗人やスッパの腰に差されたこともあるだろう。だが、ねだり狸が女子どもを斬ったという話は伝えられていない。
伝承によれば、文明年間のある時期にさる地方の国人で左衛門尉なる侍がねだり狸を所有したことになっている。左衛門尉がねだり狸を佩びていた期間は国一揆の時期と一致する。応仁の大乱の影響で守護大名が領国に苛烈な兵糧捻出と軍役を賦したことにより、在地領主や地侍、百姓らの怒りが頂点に達しようとしていた時期である。百姓たちは集会を開き、これ以上はもう何も捻出できないことを在地領主に告げた。もう何日も雑草粥しか食っていません、その粥だって粥というよりはぬるま湯に粟粒を二三粒浮かべただけの代物です。家禽は皆とられ、母親は倅を畑に出すことができません。郡代に見つかればすぐ軍役にとられちまうからです。お願いしますだ、左衛門尉さま。左衛門尉さまからもお願いしてくだされ。これじゃわしらは暮らしていけねえ。それは左衛門尉とて窮状は同じこと。地侍や在地領主たちも食うや食わずの生活をしており、守護たちの内紛に巻き込まれることにうんざりしている。だが、守護が任命した郡代は酷薄なのか、ただの馬鹿なのか、搾り上げを繰り返しており、その結果、田畑が荒れ、密猟がおこり、領地が荒廃に帰している。どうやら不満の声は国のあちこちであがっており、ついに八幡神社で国人衆の集会が開かれることとなった。集会の如何によっては守護大名への直談判もあるので左衛門尉もねだり狸を差して屋敷を出て、徒歩で八幡神社へむかった。道は土手沿いに走っていた。濁った水だけが広がる田畑では興奮した百姓たちが戸にたらしたやぶれ筵を旗代わりにして集まり、鉈や鉞といった、人を畜生みたいに叩き殺せる道具を手に目を血走らせている。飢えた人間の目は異様に大きく、光って見える。摂津や丹波、山城の国一揆の噂はすでに集落から集落へと誇張して流布され、蜂起を渇望する空気が――焦げついた鍋のようにいらいらする空気が張りつめていた。左衛門尉は真夏の光を少しでも避けるべく、木陰から木陰へと移動した。直垂の右肩を縫いで、小袖のなかに少しでも風が入るようにしていたが、ちっとも涼しくならなかった。暑い。八幡神社とはこんなにも遠い場所にあったものだろうか。国がもう少し豊かだったころは、馬を取られる前は簡単に行くことができたはずだ。それにしても暑い。
「そうか、旦那も暑いかい?」
「お前も暑いか?」
「いや、平気さ。おいらは刀だから」
「わしは暑い」
「旦那は人間だからね」
「人間ではない。人間とは頭で考え、心で感じるもののことを言う。今のわしは胃袋で考え、胃袋で感じる。そんなものは人間とは言えん。畜生以下だ。餓鬼だ」
「それが分かってるだけでも旦那は人間さ」
「ふん、暑さしのぎになにか話してはくれんか」
ねだり狸は自分が化け狸だったころの逸話を話した。それは遠い過去の出来事だったのだが、ねだり狸は化かして脅かした男の小袖が青錆布地だったことや、その日は巣穴に尻尾が二本生えた不思議なトカゲが入り込んだことを今見てきたかのように話すことができた。涼しくなる類の話ではなかったが、時間を忘れることはできたので、ねだり狸の講談が終わるころには左衛門尉は八幡神社の鳥居前に立っていた。神社とはいっても、それは小さな祠を申し訳程度の鎮守の森で囲んだ狭い地所に過ぎなかった。左衛門尉は身をかがめ、手の平を土につけてみた。土は冷たくしっとりとしていて気持ちがよかった。境内の頭上は濃い枝葉に蔽われていたので、日光が届かなかったからだ。主だった国人はすでに到着していた。三十人ほどの国人が祠の前に集まっていた。みな落ち窪んだ目をしていて、不気味なほどきらきら光っていた。左衛門尉は思った。これはいよいよ国一揆が起こるぞ。一味神水だ。血判状の回し飲みだぞ。杉ヶ辻や言霊峠、寛和寺谷、綾井、六田、舞打、それに刈谷の六郎次郎や風祭の松沢左馬、馬借の親方衆や惣村の長老まで来ている。これはもう、郡代の手下に闇討ちをかけるくらいではすまない。おそらくは摂津や山城、丹波のように守護を完全に除いて、自分たちで国をおさめるつもりだ。そうだ。国を乗っ取るのだ。そこまでやらなければいかん。今までそのことは考えなかったが、このままでは一人残らず殺られてしまう。六郎次郎が立ち上がり、領地の窮状を訴えた。あいついで餓死者が出ていること、牛をとられて思うように田畑を耕せないこと、種がないので来年はもっとひどいめにあうことを訴えた。決断せねばならん。六郎次郎はそう締めくくった。杉ヶ辻や綾井の国人も同様で飢饉にあってこの上戦など耐えられん、すぐに事を始めねばならんとやや曖昧な言葉を使い、国一揆の必要性をほのめかした。皆殺しにせんといかん、と言ったのは六田の鈴木五郎重孝だった、皆殺しじゃ。いや待て、一揆を起こして勝てるのか? この集まりで初めて一揆という言葉を使い、そして一揆に対して抱いた疑問を吐露したのは寛和寺谷の国人だった。誰もそれを臆病だとか卑怯だとか罵りはしなかった。一揆を起こしたら、主戦場は寛和寺谷になる。寛和寺谷は山の多い国境で唯一の街道であり交通の要所だった。もし寛和寺谷で守れなければ、国人衆の勝ちは万に一つもなくなる。その上で寛和寺谷の国人代表は言ったのだ。成算はあるのか、と。左衛門尉は言った。ない。加えて言うなら、このまま過ごして来年、いや来月を生き延びる成算すらない。この中で守護の家来たちの略奪に遭わなかったものはいないだろう。この苛烈な統治は今日に始まったものでなく、昨日終わったものでもない。ましてやこのさき変わるものでもない。わしらはもう賽を投げて出た目で勝負するしかないところまで追いつめられた。わしの村落の衆議はもう決まっている。国一揆か座して飢え死にを待つか。そのどちらかしかないのだ。国一揆か死か、だ。左衛門尉は決して弁の立つほうではなかったが、このときばかりは立て板に水を流すごとく、滔々と発言した。後に左衛門尉は、わしはあのときどうかしていたのかもしれんな、とねだり狸に語った。国一揆か死か。集まった国人たちはその言葉を米でも噛むように用心深く繰り返した。国一揆か死か。国一揆か死か。国一揆か死か。
国一揆か死か!
彼らは国一揆を選んだ。なんと簡単なことだろう。あれほど恐れていた代官の首は情けないくらいあっさりと落ちた。あれほど憎らしかった土倉や寺院はあっけなく燃えた。こんなやつらにわしらは苦しめられていたのかと情けなくなるほどに事は簡単に運んだ。いまや国を治めるのは土民だった。ふくれあがった一揆勢になにも恐れるものはなかった。一揆勢は討伐軍の襲来に備えて、要衝をかためた。城を囲うように砦を建て、深い穴を掘り穴底に削った杭を打ち、何年でも立て篭もれるよう兵糧と武器を運び込んだ。刈谷、六田、寛和寺谷、風祭はいまや難攻不落の城塞となった。討伐軍は来るには来たが、たった数百の雑兵に過ぎず、一揆勢は拍子抜けするくらいにあっけなく勝ちをおさめた。山城に篭もった一揆勢はわざと中腹の砦を相手に落とさせ、のこのこ道を登ってきた討伐軍の頭上に矢、石、丸太、煮え湯を雨と降らせ、相手が崩れたのを見るや打って出て容赦なく殺戮した。圧倒的な勝利をおさめたにもかかわらず一揆勢は楽しまなかった。このようなやつらを今まで恐れていたのかと思うと腸が煮えくり返った。半年後、守護は倍の数で攻めてきたが、一揆勢は具足をつけた案山子の軍勢でおびきよせ、またしても勝利を得た。もう二度と襲いかかれないよう追い討ちをかけてやろう。一揆勢は城を出た。唄をうたい、酒を飲み、笑いながら行軍した。それが最盛期であり、終わりの始まりだった。敗軍を追った一揆勢の先陣四百が見たのは国境に集結した守護の軍勢数万騎であった――左の手のひらですくった雑魚を右の拳で叩き潰すように、戦いが始まった。刈谷、六田、寛和寺谷、風祭が飲み込まれるように陥落した。平野までの道を遮るものはなく、突撃してくる守護の軍勢に左衛門尉は一人で相対した。左衛門尉は橋の上の櫓で三人の雑兵を射殺した。つづいて弓をつがえ、後方で指揮を取っている敷目威の腹巻を身につけた侍の顎を射抜いた。それからは弓合戦だった。数人の鉢や顎を射抜いて、防戦に努めたが、左衛門尉は肩と脛に矢を受け、虜囚となった。顔を地面に押しつけられて見えたのは自分の故郷が上げる赤黒い火柱だった。左衛門尉は捕らえられた。死ねたものは幸運だった。というのも一揆の参加者は捕らえられれば老若男女身分の貴賤を問わず、生きたまま焼かれるか埋められるかしたからだ。左衛門尉は自分の手足が槍に刺されて高々とかかげられたのを見て、やつらが本気なのだと悟った。やつらが問題にしているのは国を再び支配することではなく、どうやって切り刻むのかなのだ。
一揆勢の刀の大半はなまくらだったがゆえにへし曲がるほど人を――生きていようが死んでいようが――斬らされることとなったが、ねだり狸は業物ゆえに大切にされ、市にて高値で売り飛ばされた。ここからは伝承によって持ち主の説が異なる。つまり国一揆をつぶした守護大名が買い上げたという説や遊女が買い上げ貢いだ先がなんとあの刀十郎であったという説、乱暴なものでは酔っ払った砥ぎ師に擦り上げられ脇差にされてしまったという説もある。本稿では庶民向けの盆景をつくって暮らす笹屋次郎三郎によって買い上げられたという説をとる。ねだり狸はここで美しいつくりものの世界と出会った。作業小屋のなかの棚という棚を占めている稗蒔たちである。まるで棚田を見ているようだ。手のひら大の薄い土鉢に稗の芽が密に青々と茂り、小さな田んぼをつくっている。土鉢ごとに焼き物の鷹や泥細工の人形、葦の穂の案山子、楊枝でつくった鳥居、蜀黍殻の橋などが飾りつけられている。笹屋次郎三郎はある程度の数が出来上がると、桶に天秤棒をかついでこの小さな原風景を売り歩きに行く。大路でほかの行商に混じって売り歩くことがあれば、横路に切れ込んでお得意様を回って歩くこともある。喉が渇けば一服一銭で茶をすすり、木っ端や苔など飾りつけの材料なども忘れずに探しておく。ねだり狸は笹屋次郎三郎が箱庭をつくるのを見た。稗蒔同様、稗の芽を使うのはもちろんだが、こちらはずっと手の込んだ代物で必ず水を用いてあった。池の上に建つ東屋のなかで歌を詠み合う焼き物の武家や僧侶。水を吸い上げる不思議なからくりを嵌め込んだ苔生す土塊からは水が流れ、それが精密につくられた水車をゆっくりと回した。幕府の権威は地に堕ちて、各地では押領や反乱が相次ぎ、世の中は混沌としていたが、笹屋次郎三郎のつくる小さな世界はゆったりとした時間のなかにあった。しかし永遠の時間のなかにあったわけではない。飾っているうちに稗は育ち、背を高くしてしまうのでこれらの芸術が楽しめるのは一ヶ月が限度であった。笹屋次郎三郎は病をえて亡くなるまでに約千八百点もの盆景をつくった。
ねだり狸はときの公方のものとなったこともあった。公方は六尺の偉丈夫で幾多の剣豪に教えを乞い、剣をよく学んだ。生まれついての才ゆえか、公方の剣の腕はめきめき上達し、剣豪将軍、あるいは抜刀公方の名で人々に知られた。そのような公方ならば当然、刀に目がなく天下の銘刀がその蔵に集められた。ねだり狸もその一本であり、のちに公方が松永弾正による弑逆の目にあい、壮絶な最期を遂げたときもそのそばにあった。また、このころねだり狸は生まれて初めて《あるけぶす》を見た。それは桜の花が散り、枝に緑葉が萌えたころのことであった。紅い毛と鬢に美しい水草のような色の目をした南蛮人が炭のように黒く天をつくような大男の従者を連れて公方の御前に参上した。紅い毛の南蛮人は明国の商人を通訳にして、武芸達者な公方さまに是非とも《あるけぶす》を御覧いただきたいと言った。南蛮人は、じょあん、と黒い大兵の従者を呼ぶと大男は包みをとき、《あるけぶす》を取り出した。大男は小男の拳ほどはあろうかという鉄の玉を懐より取り出すと《あるけぶす》の筒先にねじ込み、棒でさらに奥までむりやりねじ込み、火打ち袋でパチパチ燃える不思議な縄――これは火縄と申します――に火をつけると、《あるけぶす》から生える鉄の取っ手らしき部分にとりつけた。鉄の取っ手には既に火縄を嵌め込むための溝がつけられていた。大男は《あるけぶす》を目の高さまで持ち上げると足を肩幅に開き力を入れて体をかため、《あるけぶす》の筒先を的に向けた。的は巻き藁に具足を身につけさせたもので三十歩先の庭園の端に立てられていた。このときねだり狸は近習に捧げ持たれる形で公方の後ろに控えていた。彼に分かっていたことはあの《あるけぶす》は何かの動物が化けた姿であるということだった。南蛮にも人に恩義を感じて武具に化ける動物がいるというのはなんとも不思議な気分だった。《あるけぶす》はねだり狸に異国の言葉で話しかけてきた。もちろんねだり狸にのみ聞こえていたわけであったが、ねだり狸には何を言っているのか理解はできなかった。ただ大きな音が鳴るから覚悟をしておくよう促しているらしいことはつかむことができた。黒い大男の指が動いた。菅公の雷もかくやという轟音が響いた。侍たちはみなビクリと体を動かし、近習は危うくねだり狸を落としかけ、黒い大男は大きく後ろによろめいた。公方と南蛮人のみが微動せずにいた。公方はゆっくり立ち上がると、じきじきに的まで歩いていった。当然、近習も後ろに続いたので、ねだり狸は具足を纏った巻き藁の哀れな末路をじっくり検分することができた。具足のちょうど真ん中に大男の拳を通してもまだ余るほどの大穴が開いていて、そのなかで鉄が、水をかけた焼け石のようにしゅうしゅうと煙をあげ、藁を焼いていた。公方は扇子で鉄を穿り出すと、ひしゃげて形を崩した鉄の玉がボトリと落ちてきた。巻き藁に開いた穴のむこうには刀の時代の終焉が見えた。それは公方にも見えたのであろう。それから公方は離れに篭り、物憂げに塞いだ。公方とは名ばかりで幕府の実権を失っている男と《あるけぶす》に取って代わられるであろう剣術の定め。なんとも悲しいことよな。松永弾正の兵が御所を囲んだその日まで塞ぎの虫が続いた。弾正の謀反を聞くと、公方は顔色一つ変えず命じた。近習たちにひとまず防がせて、奥の間へ退くと《散る》ための支度をした。公方はこれまで集めた銘刀を畳に突き立て、先祖伝来の鎧を着込むと備前長船の業物を抜いた。ねだり狸もまた突き立てられたうちの一本だった。ねだり狸は公方を見た。童子切、鬼丸国綱、大典太、三日月宗近など天下の名刀が墓標のごとく林立するなか平家の公達のように美麗な鎧を纏った公方はまさに武士の華だった。それは散って初めて咲く華だった。三人の足軽が踏み込むなり、公方はうっすら笑ってみせた。うぬら三人で六人をこさえてくれよう。公方は三人を両断し、実際にこさえてみせた。刃がこぼれると、公方はツバに具足が当たるほどの力任せの突きを食らわせ、新しい刀を畳から抜いた。抜刀公方の名に恥じず、攻め手の首や手足を次々刎ね、刀に限度を感じると畳から新しいものを抜く。槍で突いても無駄なことで瞬く間に間合いをつめ、斬り捨てる。矢が飛んでくれば打ち落とす。腕に覚えのあるらしき侍たちを打ち、刎ね、斬り捨て、へし斬り、両断する。ひいっ、鬼神じゃ。鬼神じゃ。公方さまは鬼神じゃ。攻め手は恐慌に陥った。数十の亡骸が転がる血の海に名刀たちを従えて立つ公方はまさに鬼神だった。公方はねだり狸を抜こうとしたまさにその瞬間に《あるけぶす》で撃たれた。それは桜が散り緑の芽が見え始めた初夏のあの日に見たものよりもずっと細い《あるけぶす》だったが、それでも利き手の肉と骨は指二本を残して四散した。よろめきながらも左手でねだり狸を抜くと《あるけぶす》ごとその兵を斬った。武運は尽き、華が散った。松永の兵たちは畳を楯に公方を倒して押さえると、上からメッタ刺しにしてようやく討ち取った。
その後は伝承によって異なる。ねだり狸は松永弾正のものとなり、弾正小弼が信貴山城で敗死する際、平蜘蛛茶釜とともに爆破されたという説。あるいは織田信長上洛の折に、松永弾正が帰順の証に九十九茄子茶釜とともに信長に献上されたという説。後者の説では信長に献上されたねだり狸は大いに気に入られ、最後は本能寺で信長と運命をともにしたということになる。以上の説は後の世の講談師たちが客受けするようにと創作したものであることが証明されている。
実際にはどうやらしばらく庶民の手を渡り歩き、そして、またもや刀十郎の腰に差されたらしい。ねだり狸の伝承に刀十郎の名が初めて登場してから百三十年、刀十郎の気色容貌は初めて会ったときと同様、わずかな老いも衰えもなかった。
「旦那はいったい何者なんだい?」
「何だと思う?」
「狸かい?」
「違うな」
「だめだ、わかんねえ」
「刀が侍に姿を変じたものだと言ったら、お前、信じるか?」
「狸が刀に化けるんだから、刀が侍に化けたところで不思議はないわな」
いつものことだが、刀十郎の登場は研究をややこしくする。この時期の刀十郎とねだり狸に関する伝承は忍び絡みのものが多い。いノ一七、はノ二一、ふノ一一など無味乾燥な符号で名づけられた忍びたちの、いずれも里を抜けるための助太刀を行ったというものである。基本的に抜け忍には必ず死をもって償わせるのが忍びの習いではあるが、現実には国境を越えてしまえば発見は非常に困難となる。極端な話、南蛮船に乗せて西班牙なり葡萄牙なり和蘭なりに逃がしてしまえば忍びたちはどうしようもない。いや隣国との国境さえ越えてしまえば逃亡先でよほど派手なことをしない限り見つかることはまずない。ゆえに抜け忍への追撃は里から国境までの、行程にして三、四日が最も厳しい。たいていの抜け忍はここでやられる。刀十郎はその最も生存が難しい三、四日に助太刀をするのだ。刀十郎に関する伝承のうち、この時期が最も解釈が難しい。抜け忍を助けても報酬が期待できるわけでもなし、仕官してもないのだから里の秘密を知ったところで役立てるわけでもなし、忍びを斬ることに生きがいを感じているわけでもなし。抜け忍を助けたところで何の得にもならず、むしろ危険と損のほうが大きいのであるが、それでも刀十郎はねだり狸と自らの剣の腕をもってして、忍び相手に大立ち回りをし、手を貸した抜け忍を必ず逃がしている。(ねだり狸は語る。旦那、酔狂も大概にしないと死んじまうぜ)刀十郎には抜け忍の境遇に共感を覚える背景があったのかもしれないが――ただの酔狂かもしれないが――それについてはまだこれという判断を下せるほど研究が進んでいないのが現状である。
室町末期から安土桃山にかけての所謂戦国時代、ねだり狸の様々な伝承が人口に膾炙し、ねだり狸が天下の銘刀の一つとして数え上げられるようになると同時に、多くの贋物がつくられるようになった。贋物が贋の伝承を生み、さらなる贋物のねだり狸がつくりだされるという悪循環により、ひどいときでは三百本のねだり狸が同時期に存在したこともあった。《ねだり狸正宗》と出鱈目な銘が打ってあったり、そもそも刀身に狸の姿がのっていないといった低級の贋物であればすぐに見破れるが、そうでないものも多く、そうなると贋物を本物と区別することは非常に困難となる。これに輪をかけて考証を難しくするのが、贋の刀十郎の存在である。この摩訶不思議な侍にまつわる伝承もこのころから伝え聞こえるようになり、贋のねだり狸を差した贋の刀十郎があちこちに現れるようになった。さらに、贋のねだり狸が本物の刀十郎の手に渡ることもあれば、贋の刀十郎のもとに、めぐりめぐって本物のねだり狸が流れ着くこともあり研究はより一層困難となる。本物のねだり狸を手に入れた刀匠がこの名刀に挑むつもりで贋のねだり狸をつくったという伝承があるかと思えば、かつて刀十郎に助けられた抜け忍が本物のねだり狸を手に入れ、刀十郎を名乗って本物と同じように抜け忍を助けたという伝承もあるので、贋物が絡んだからといって、十把ひとからげに無視することは出来ないのである。
さて、多くの贋物が生まれてからしばらくして、本物のねだり狸の伝承が聞かれなくなる。戦国時代に生み出された伝承のどれもが胡散臭いものとなり、真の伝承が拭い去られたように消え去ってしまった。それには理由があった。ねだり狸はなんと国外に持ち出されていたのだ。オランダ人貿易商のヘンリク・レンメルスエールが日本を離れる際に納入した半カノン砲、つまり二四ポンド砲の代金としてねだり狸を持ち出したことがバタヴィアのオランダ領東インド総督への書簡に残っている。ねだり狸はインドネシアの胡椒や香料、明の青磁器とともにそのままオランダまで持ち去られたのだ。当時のオランダ、つまりネーデルランド北部七州からなる連邦共和国はスペインとの長きにわたる独立戦争の最中にあった。芸術に理解のあったヘンリク・レンメルスエールは帰国すると、ねだり狸を何人かの画家に貸し出した。画家たちは異国の刀身が映し出す美しい波紋や光の魅了するような反射を油絵の具で再現すべくキャンバスと向かい合った。こうして当時のねだり狸の姿はスナイデル作の「異国の剣と金管楽器、梨の静物」やファン・ホントホルスト作「レンメルスエール家の宝物庫」のなかに写実的に描き残された。これを伝承のなかに含めてよいかは判断に迷うが、かのベラスケスが「ブレダの開城」に下書きの段階でねだり狸を描き入れたという逸話が残っている。それが真実であるかは非常に怪しいが、しかし、包囲戦の時期、ねだり狸がブレダ市内にあったことは事実である。冷たく霧のような雨が降る市街。建物はみな冷たい石で出来ていた。空は泥のようであった。ネーデルランドの泥は暗く青い色をしている。それは死人の顔の色であり、人々はその泥を四角く切って乾かして燃料に使った。異国の人々はパンという餡なしまんじゅうを食べて暮らしていた。町を囲うようにつくられた方形の砦。兵士たち。みな一様に青い顔をし襤褸を纏っている。槍や鉄砲。そして大砲。オランダ兵もスペイン兵も砦のあいだに塹壕を掘り底にへばりつくように頭を下げて、陣地から陣地へと移動していた。時おり騎馬武者たちが短筒を手にして陣地の外へ馬を駆けさせる――冷たい泥のおり敷かれた平原へと。ああ、異国の戦とはなんと辛いものか。国一揆の撫で斬りとはまた違った苦しさ。攻め手のスペイン兵も守り手のオランダ兵も泥の冷たさと戦っているようなものだ。時おり飛び込む砲弾がなければ、自分たちが戦をしていることすら忘れてしまうこの倦怠感はなんだ? 石垣のなかに閉じ込められたような圧迫感はなんだ? ねだり狸は自らに問うた。ここでおいらは何の役に立つのか。なんの役にも立てまい。もう刀十郎の旦那と会うこともないだろう。ああ、ここに笹屋次郎三郎の稗蒔が一つでもあれば。あれは見ていて飽きない。あれがあると、心がすうっと涼しくなる。焼き味噌と揚げ蕎麦、白飯の匂いが懐かしい。彼はブレダ市内の錐のごとく尖った屋根の建物にあった。そこは兵士たちの居酒屋であり、日が暮れると、兵士たちは染料のように赤い酒を飲みにやってくる。彼らは店に入ると、剣と鉄砲と弾薬筒をぶらさげた皮の帯を外して席につき、赤い酒と餡なしまんじゅう、それに魚を燻したものを少しずつゆっくりと食べる。餡なしまんじゅうをちぎって口に頬張り、魚を少しかじって、口のなかをいっぱいにすると、ゆっくり噛んで、最後に赤い酒で胃袋に流し込む。兵士たちはうつろな目をして、それを何度も繰り返す。ちぎっては口に運び、かじり、噛み、飲む。ときおり大砲の音が轟くが動ぜずに食う。だが、隊長があらわれると兵士たちは一様に嫌な顔をして素早く食事を平らげる。食べ切れなかったものは途中で食べるよう胸に隠したりした。彼らが話す言葉をねだり狸は理解できない。だが、塹壕にまつわる面倒な出来事が発生したことは空気でつかめた。兵士たちは剣と鉄砲をかついで、人のいない街路をいそぐ。ぼやけた空に砲火が浮かび、消えていく。町外れの塹壕に入り、迷路のような道を一列に並んで歩いていく。時おり置かれる油皿の明かりが兵士たちの彫りの深い疲れきった顔を照らす。兵士たちは六門の大砲が別々の方向を向いた小さな砦へ入っていく。人の背丈ほどの深さの堀と削った棒を刺した落とし穴に囲まれた砦はスペイン軍の包囲線から最も近い位置にあり、ブレダの味方から最も遠い位置にある。これは橋頭堡と呼ぶべき防御陣地であった。堀と落とし穴の向こうには水びたしの平原が広がり、そしてスペイン軍の砦とそれを結ぶ塹壕、そして前進のためにジグザグに掘られた塹壕が見えた。兵士たちに下された命令はジグザグに進んでくる塹壕を銃撃と砲撃と可能であれば夜討ちもしかけて阻止することにあった。楯車とともに穴を掘りながら前進してくるスペイン兵に対して、オランダ兵は焼夷弾をつがえた弩砲で対した。焼夷弾はちょうどいい距離で飛び、最前線のスペイン兵を焼き殺した。火のまわった塹壕から飛び出したものはみな鉄砲と大砲で討ちとられた。だが、スペイン軍は実は地下にも坑道を掘っており、それがオランダ側の砦のすぐ真下までつながっていたことをオランダ兵は知らなかった。スペイン兵は火薬樽を爆発させ、オランダ側の砦を粉みじんに吹き飛ばした。ねだり狸はたまたま居酒屋に置き去りにされたので難を逃れたのだったが、爆発の様子はそこからでも十分に知れた。火柱が人や建物を分厚い雲のかかった空に放り投げると、こげた土くれや肉片がパラパラと雨のごとく町全体に降る。その光景はねだり狸の肝を十分寒からしめるものだった。公方さまと初めて《あるけぶす》を見たとき、巻き藁の穴のむこうに剣の時代の終焉を見たものだが、こうして異国の地にあって異国の戦を眺めていると、なるほど自分と公方さまの予想は的中であったのだな。この戦ではなるほど兵は剣を佩びているが、お国の侍ほど剣に執着してはおらず、実際は鉄砲と大砲で戦われている。ましてやあのような地中からの大爆発で攻められては刀では到底敵わない。今頃、お国では兵法の大改革が行われているに違いない。いまや戦は武芸達者な弓取りのものにあらず、鉄砲を備えた足軽の一団こそが戦を牛耳るのだ。
ねだり狸はブレダ包囲が終了した十数年後に日本へ戻ってきた。当時、日本での貿易の独占をめぐってポルトガルと対立していたオランダが競争国より通商上優位な立場に立とうと企んで江戸幕府に献上した品々――陶器、眼鏡、ガラス細工、瑠璃石を散りばめた三十の人形と動物が動く仕掛け時計、火打ち石式鉄砲、南蛮琵琶(注・ギターのことか?)、婆娑婆娑なる名の巨鳥(注・ヒクイドリのことか?)――のなかにねだり狸もまた混じっていたのだ。愚かなことに幕府の検分役は真のねだり狸を見分ける目を持たず、ねだり狸のごとき名刀が日ノ本から南蛮へ持ち出されたなどあるはずがないという狭量な思い込みから、これを島原の乱で功のあった三宅壱岐なる旗本に下げ渡してしまった。ねだり狸は三宅壱岐のもとに長居しなかった。
江戸期には諸国に散らばったねだり狸の伝承を編纂する試みがなされている。多くの学者がこの幾多の時代を乗り越えた名刀にまつわる伝承に魅せられたのだ。時家新左衛門盛遠もその一人で諸国を渡り歩き、生涯を通じて九十九あまりの伝承を《ねだり狸九十九話・真伝》にまとめている(また九十九の贋伝承を《ねだり狸九十九話・贋伝》にまとめてもいる)。編纂を始めて三十余年、時家新左衛門はついにねだり狸を佩びた刀十郎と出会った。時に新左衛門は齢七十。初夏の昼であったという。左右は青田で、鳶が頭上をひーひょろろろと舞っている。木陰がかかった小川の傍らで少し休もうと足を向けたところ、大樹のむこうから話し声が聞こえてきた。
「旦那、また釣りそこなった」
「お前が話しかけるからだ」
「もし、おいらが釣竿に化けてればねえ、旦那にたくさん釣らせてやれるんだけど」
「お前の助けはいらんさ」
「旦那、合わせが早すぎるんだよ」
「合わせはこれであっている。鮒の口が柔すぎるんだ」
「旦那ときたら、剣と女のことにかけちゃすごいのに釣りとなると下手の横好きで」
旅装の侍が逆さにした水甕に腰かけて、六尺ほどの竹釣り竿を振り出していた。恐ろしく美男で、顔は刃のごとく白く、髪は地金のごとく青みがかった黒、涼しげに切れた目をしていた。傍らには黒塗りの鞘におさまった刀と小さな漆の箱。新左衛門はたずねた。釣れますかな。侍は、ええ、と答えると竿を脇に置き、漆の箱を開けた。二段重ねの上段に浮きと糸と糸切りが仕切りごとに几帳面に並べてあり、下段には浮き草が一つ浮かんだ水のなかに豆のように小粒な鮒が数尾泳いでいる。晩のおかずにするつもりなら心細いが、甕に泳がして一夏を楽しむつもりならば十分な釣果だった。
「きれいですな」
「ええ、魚の背とはみなきれいなものです」
「この漆の箱は?」
「魚釣りの道具にしては贅沢が過ぎますかね」
「いえ、美品ですよ」
「魚籠のほうが手軽なのですが、昔、人よりお礼にと受け取ったものですもので、使わねば悪いかと」
この釣具箱についても伝承がある。田部ヶ浜で牛鬼を斬ったおり、牛鬼に父親を殺された娘がせめてもの礼にとくれたものだ。新左衛門は、今、目の前にいる人物こそあの刀十郎に違いなく、そしてその佩刀こそ自分が生涯をかけて追ってきたねだり狸に相違ないと確信した。だが、新左衛門はしばらく刀十郎らしき侍と気のおけない会話をして別れたという。紅葉山の鬼は斬ったのか見逃したのか、なぜ抜け忍たちを助けることにこだわったのか、牛鬼を真二つにしたというのは真のことなりや、訊きたいことはいくらでもあった。しかし、無粋な調べ物の話を持ち出して質問攻めにし、この伝承の雰囲気を壊すことがどうしても許せなかった。新左衛門は葛藤の末、あえて何も訊ねなかった。それが全ての伝承を守るためにとるべき行動だったと新左衛門は述懐する。伝承はあくまで物語であるべきなのだ、と。
幕末から明治初期にかけて、ねだり狸は多くの銃と語り合ったと云われる。ねだり狸はあの蘭国で見た戦の風景が忘れられず、これから何がおこるのか、機会あるたびにたずねた。かつて《あるけぶす》と意思の疎通をできた経験から、きっとゲベール銃やミニエ銃のなかにも話のわかる武器があるに相違ないと自信を持っていた。蛤御門の変の折に知り合ったゲベール銃のピーテルはあまり物を知らなかった。彼は日本に来るまで火薬をつめられたことすらなかったのだ。かつてブレダで見た光景について話してみても、ゲベール銃のピーテルは知らぬ存ぜぬの一点張りで、初めて銃弾を発射した際には熱くて苦いからやってられぬとこぼしたくらいだ。だが、戊辰戦争で知り合ったエンフィールド銃は戦をよく知っていた。彼はアメリカで南北戦争を戦ったのだ。当時、アメリカでは南北戦争が終結してエンフィールド銃のようなミニエ式弾丸を採用した施条銃が市場に溢れていた。その大半はメキシコか日本に流れていった。エンフィールド銃が話す言葉は分からなかったが、《あるけぶす》のときと同様、話そうとしている事柄について、まるで心に直接訴えかけられ、目の前に絵巻物をひろげられたように理解できた。彼の訛りすら分かったほどだった。エンフィールド銃は言った。おらァ樹海で地獄を見ただ。北軍の鉄砲も南軍の鉄砲もあちこちで火を吹いてなあ、前から撃ってくると思ったら後ろからも弾が飛んできて、右から飛んできたと思ったら左からも飛んできて。草が人の背の丈くらいの高さに生えちまってるもんだで、敵と味方がどこにいるのか分からなくなって入り乱れちまったんだよう。おらのご主人はよう、樹海で死んじまっただ。焼け死んだのよ。あんまり鉄砲撃ちくさるもんだから、森がめらめら燃え出してよう、ご主人は両足を撃たれてたもんだで、走って逃げることができなくてなあ。そいで焼け死んだんだで。怪我をしたやつはみんなそうやって死んだんだで。おめぇ想像できっか、火がごうごう燃える夜の森に置いてきぼりにされる恐ろしさを。怪我をしたら北軍も南軍も置き去りだよ。煙が壁みたいに分厚くて、炎がその上の木までぐんぐん伸びて、なんもかんも焼いちまう。火のついた枝がリンゴみたいに落っこってくる。怪我して寝たきりの連中は泣き叫んでよう、運んでくれ、後生だから運んでくれって泣いて頼むんだが、無事手足の動くやつはてめえが逃げるので精一杯だ。堪忍してくれ、堪忍してくれっていいながら、みんな逃げちまうんだ。おらのご主人はよう、足が燃え出すまで必死に地べたを這っていったんだが、胸までめらめら燃え出すと、ついに、祟ってくれるぞ、てめえら祟ってくれるぞってわめきながら焼け死んだんだ。おらはたまたま草の生えてないところに投げ出されてたから無事だった。それで拾われてまた戦よ。おらは祟られちまったんだな。おらァコールド・ハーパーでも地獄を見ただ。おらのご主人はコールド・ハーパーでまた死んだ。南軍どもがめちゃめちゃに弾をあびせてきたのに、北軍どもはきちんと横に整列して突っ込んでいったのよ。どうぞブッ倒してくださいとお願いしてるようなもんだっただ。弾がいっせいにぱぱぱぱんと飛んでくるたんびにおら肝が縮んだだ。おらのご主人はいつ死ぬか、いつ死ぬかとハラハラしたもんだ。おらたちがぶっぱなすミニエ式弾丸は、おっそろしいぞ。人も馬も建物もみんな薙いじまうんだ。ぱぱぱぱぱぱん! 全部だど。ばっさばっさと倒れていくだ。おらのご主人はよう、いい人でよう、銃身が熱を持ちすぎて冷やさなきゃならなくなったときは必ず水をかけてくれただ、自分の飲み水をかけてくれただ。他のやつみたいにきったねえ小便かけて冷やすなんて横着なことはしねえでよう、丁寧に扱ってくれただ。小リスみたいにくりっくりっした目の持ち主でよう。優しいご主人だったんだがなあ、コールド・ハーパーで死んじまった。あんまり弾を食らっちまったもんだから、裂けちまったのよ。縦に裂けちまったのよ。まったく業の深え戦だよう。おらァピーターズバーグでも地獄を見ただ。おらのご主人はピーターズバーグでやっぱり死んだ。ひでえ戦でよ。南軍どもはどこもかしこも砦だらけにして、あちこちにとがった木を仕掛けて立て篭もっただ。北軍どもは突っ込んじゃ死んで突っ込んじゃ死んでの繰り返しでよう、このままじゃ埒があかねえってんで、自分たちも砦をつくって敵さんとにらめっことしゃれたわけよ。このままじゃやっぱり埒があかねえってんで北軍どもはこっそり坑道を掘ったんだ。南軍の砦を一つ、人も馬も大砲もまるごとぶっ飛ばしちまおうって考えただよ。火柱があがったときはおらほんとにびっくりしてな。人が天使みたいに空へ飛んでくのを見たよ。やつらの防衛線に大穴が開いた。なんもかんも吹っ飛んだから、北軍はこりゃあもうわしらの勝ちだと勇んで突撃かけたのよ。自分たちの墓穴めがけてな。爆発が大きすぎて落ちるように降りたはいいが、登れなかったのよ。すると南軍が、ぼろぼろの服を纏った悪鬼みたいな南軍が穴の縁から現れて、インディアンみたいな叫びをあげて、おらたち目がけて銃を撃つんだよ。きーいやややや! ふぁうふぁうふぁう! ちぃえええええい! おらたち北軍は穴にぎゅう詰めで動きが取れないなか、猿の喚きと弾丸が飛んでくるだ。そりゃ並大抵のことじゃねえ。おら武器に化けたことを後悔しただ。血が膝ぐらいまでたまりだして、硫黄と血煙が臭いのなんの。おらのご主人は一発ぶっぱなして敵の将校をやっつけただ。でもそこで大砲の弾がご主人の胴体を持っていっちまって。それで一巻の終わりだよ。
戊辰戦争が終わり、文明開化の世の中がやってくると街並みや人の姿かたちががらりと変わった。下駄屋は靴屋に、茶屋が牛鍋屋に、鉄道が敷かれ、電線があちこちに言葉を伝えて走っている。これはむかし忍びのものが受け持っていた仕事だ。大切な書状を懐に忍ばせて、一日百里を走り抜けていく。鍛錬と生まれつきの才がなせる技を今では電信柱が行っている。瓦版は新聞に変わり、人力車が走り、渡り舟はみな焼玉船になって製氷工場から氷を切り出す。真夏の氷! 本当に地位のある人間にしか味わえなかった贅沢が庶民の味となりつつある。行商人は笠をかぶって氷車を引きながら。「冷たい氷水はいらんかね。檸檬と蜜柑の風味がついた氷水」その昔、唐の皇帝ですら味わえなかった真夏の贅沢が庶民層の口へ運ばれるのを見て、ねだり狸は悟った。ああ、本当に世界は変わっちまったんだな。まるで自分が化かされているような気分になった。同時に終焉を感じた。この一見便利な世界にはあそびがない。つまり物の怪とか忍者とか刀十郎のような侍とかが動き回れるあそびが文明開化したこの日本にはなくなっているのだ。
それを証明するかのように明治から大正、そして昭和にかけてねだり狸に関わる伝承の数が大きく減少する。その数少ない伝承もたいていが戦争絡みのもので函館戦争や西南戦役、明治三十七八年戦役(日露戦争)を舞台とした彩に欠けるものだった。明治の世、ねだり狸は石田男爵のものとなっていた。頭が大きくて足が短く生真面目だが若く豪胆で人好きのする陸軍少尉だった。男爵は城山の戦いにあって堡塁の一つを防備する際、このねだり狸を佩びていた。激しい戦闘ののち多くの将兵が倒れ、担架兵が死者の収容にあたっていた。昨夜、美男の抜刀隊員が銃撃されて行方知れずになっていると聞き、担架兵たちは隊員が撃たれたとおぼしき場所を探すと、二つに折れた古太刀が見つかった。三尺四分の刀身であろう。刃にミニエ弾がめり込んでいて、舟型の茎には《嘉禄元年 美作国住人藤原刀十郎頼秀》と銘があった。そのことが石田男爵に報告されると、ねだり狸はそれを聞き、涙を刀身に滲ませたと云う。
これを最後に刀十郎はいっさい伝承に出てこない。
日露戦役の伝承は石田男爵の従者によるものだった。奉天会戦前夜、満州の荒野に男爵がたたずんでいると、年嵩の従者が小さな土皿を持ってきた。それは小さな鳥居が立った緑が美しい稗蒔だった。従者は言った。わしゃ内地で稗蒔売りだったんです。実家は笹屋って小さな植木屋ですが、何百年と続いた店で。戦前はよく天秤棒をかついで山の手のほうを売り歩いたもんでした。たまたま土皿と稗の粒が手に入ったんでこっそりつくったんですが、あんまりきれいなんで少佐殿に差し上げようと思いまして。ねだり狸の刀身はこのときも切なげに光っていたと云う。
ねだり狸は昭和二十年五月、山手大空襲の火災によって焼失したと云われている。炎が下町と山手の家々を巻き上げるように破壊しながら石田邸に近づいてくるなか、石田男爵は美津子夫人、甥の斉藤正次郎、女中の伊藤チエに対してこう火事がひどくては防空壕に篭っても焼け死んでしまう、屋敷を捨て避難するよう指示した。男爵邸では空襲避難の折にはぐれた場合は明治神宮に向かうこととあらかじめ言い含めてあった。国民服姿の男爵はねだり狸を右手に持ち、左手で美津子夫人の手をひいて、表通りへ出た。火の粉と黒煙がたちこめる通りは半狂乱になった人々でごったがえしていた。離れ離れにならぬよう帯で体を結んだ親子、水桶の隅に縮こまり必死に念仏を唱える老婆、自分の頭を叩き続ける国民服姿の男。空でバラけた焼夷弾は家屋や防空頭巾をかぶった人々に炎の矢となって突き刺さり、叫び声があがった。ぎいいい! ぎいいい! 喉から炎を吹き出した男はそう叫んだ。火のない場所を求めて人が洪水のように押し寄せると、女中の伊藤チエは男爵夫妻を見失い、さらに斉藤とも離れ離れになってしまった。伊藤チエはその後、命からがら明治神宮まで辿り着いたが、明治神宮も避難者であふれ、怒号と悲鳴が町を燃す音に重なるように発せられていた。炎を映した黒煙が空を覆い尽くし、その空の下にあるもの全てを紅葉色に染めた。その光景に恐怖を覚え、心細くなった伊藤チエは誰か知り合いはいないかと、夜通し探した。彼女は眠らなかった。一人が怖かったのだ。翌朝には本殿近くで手の火傷を治療してもらっている男爵の甥斉藤正次郎を見つけた。互いの無事に安堵の息をおろしていると、ふと斉藤の表情が陰った。男爵夫妻は? 斉藤も男爵夫妻を見ていないのだ。二人は男爵夫妻を探して焼け野原と化した山手をたずね歩いた。だが、男爵夫妻もねだり狸もとうとう見つからなかった。