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終章

こちらでラストです。


あの夜、俺が川に落ちた件については、結局、鮎川以外には誰にも明かす事はなかった。ただでさえ、兄貴の自殺未遂で参っている両親に、俺が川で溺れかけたなどという追加の不安要素を語るのは、さすがに気が引けて仕方がなかったのだ。

が、一方で、身体の方はあくまで正直だった。あの後、俺はしっかり風邪をこじらせ、三日三晩、ほとんどベッドから起きられない生活を余儀なくされた。

そもそもあの晩、どうして俺は、普段は通りすがる事さえしないあんな小さな川に落ちてしまったんだろう。熱にうなされつつ、ベッドでもんどりうちながら、俺はずっと、その事ばかりを考えていた。――――いや、正確には思い出そうとしていたのだ。何か、大事な……とても大事な事を、忘れているような気がした。そして、その魚の小骨に似た引っかかりは、三十九度二分の熱とは別に、俺の寝つきを常に邪魔した。

俺は、何か大事な事を忘れている。

何か……あるいは、大切な誰かの事を。



「これは……どういうつもりなのかい? 岡崎君」

風邪から回復して数日後、俺は担任の谷垣から職員室へ久々の呼び出しを食らっていた。

安物の事務用椅子に背を埋めたまま、手元の紙束を見下ろしていた谷垣は、やがて「はぁ」と重たい溜息をつくと、顔油で曇った眼鏡を外し、例によってゾウリムシ柄の眼鏡拭きで、眼鏡のレンズを拭き始めた。最近知ったのだが、あの気色悪いゾウリムシの絵柄は、どうやらペイズリーという名前の文様であるらしい。

「前に言ったよね? 進路希望票は、真面目に書きなさいって」

眼鏡をくいとかけなおしながら、谷垣は例の粘着質な口調で言った。

「はい」

 いつぞやと同じく、機械的に俺は答える。

眼鏡の隙間から、可愛くも何ともない上目遣いが俺を射竦める。しばし、そうしてじっと俺を見上げていた谷垣は、やがて、マウスをチキチキと弄り、パソコン画面に俺の成績推移表を呼び出すと、その小さな画面に顔を突きつけながら言った。

「まぁ確かに君は、最近、随分と成績を上げては来てるけどねぇ。でも、この大学はちょっと……今の偏差値ではねぇ」

 谷垣の言う“この大学”とは、言うまでもなく鮎川と一緒に入ろうと誓った、その大学に他ならない。鮎川の方は、相も変わらず危なげのないA判定をキープし続けている。一方の俺はと言うと、前回の模試でようやく、それまでのE判定がギリギリD判定に上がった、といった所だった。

 今までと同じ推移状況では、たとえ三年次に猛追をかけたとして、その合格率はせいぜい五分五分といったところだろう。何せ、最後の追い上げなんてテは、今、この瞬間にも、俺と同い年の全国の高校生共が考えているに違いない月並みな手段だろうからだ。

皆が同じくラストスパートをかける中、それでもなお群れから一歩抜きん出て目的を果たすには、きっと並大抵の努力ではかなわない。

―――それでも。

俺は即答した。

「行きます」

「え?」

途端、谷垣は埴輪のような呆け顔を浮かべて振り返った。

「それ、本気なの?」

「はい。絶対に……絶対に行きます」

 しばし、ポカンと阿呆の面で俺の顔を見上げていた谷垣は、やがて「あ、そう」とうわごとのように呟くと、再びパソコンの成績推移表にそっと目を移した。

「一応、言っておくけど、相当頑張らなきゃ駄目だよ、君。わかってる?」

「わかってます」

「そう……だったらいいんだけどね」

そこで谷垣は、ハァ、と肩で大きく息をつき、椅子の背もたれに豊満な身体を沈めた。

「まぁ、頑張りなさいね。応援するから」

「え?」

それきり谷垣は何も言わず、ギッと椅子を軋ませ身を起こすと、ブックスタンドからファイルを取り出し、俺の進路希望票を黙々としまい始めた。



「ああ、良かった。お兄さんもすっかり元気になって」

 柔らかな冬の日差しが差し込む暖かなリビングで、ソファにちょこんと腰を預け、ホットミルクなんぞを啜っているのは、今やすっかり我が家の一員と化した鮎川だ。

「ありがとう、亜由美ちゃん」

 その向かいで、鮎川と和やかな会話を交わしつつコーヒーを啜っているのは、髪も髭も伸びるに任せた、只今休職戦線真っ最中のジャージ姿の兄貴だ。

「随分伸びましたね、髭」

「うん。やっとここまで伸びてくれたよ。いや、昔から髭の伸びるのは遅い方かなとは思ってたけど……」

 言いながら兄貴は、その指先で嬉しそうに顎の髭を撫でた。

兄貴は今、会社員時代には不可能だった不精髭とやらを生やす事にちょっとした楽しみを見出していた。俺から見れば何とも下らない趣味だけれども、今の兄貴にとっては、そういう他愛のない喜びこそが何よりも大切なのだった。

 退院した直後の頃の兄貴は、見ているこちらがぞっとするほどの無表情を浮かべ、日がな一日、ぼんやりとソファに身を沈めて過ごしていた。そんな兄貴に、俺達家族は果たしてどう接して良いものやら、ひたすら途方に暮れていた。

 そんな俺達に一条の光を与えてくれたのが、この鮎川だった。

 鮎川は、自分の勉強が忙しいにも関わらず、暇ができれば必ず俺の家に立ち寄ってくれた。そして、抜け殻のようだった父を励まし、忙しい母を手伝い、ともすれば折れそうになる俺の気持ちを陰日向に支えてくれた。―――ってか、何で半年間も同じクラスにいて、こんな神様仏様みたいな女子の存在に気付かずにいたかな、俺。

「良かったら、ちょっと触ってみる?」

「え?」

 突然の兄貴の申し出に、びくりと鮎川の肩が跳ねる。

 ん? ちょっと待て鮎川。何で、そこで赤面んんん!?

「あ、あんまり鮎川を困らせるなよ、兄貴」

 つい、ダイニングから助け舟を出してしまう俺。すると兄貴は、俺と、赤面しうなだれる鮎川の顔を交互に見比べ、何やら一人合点してうんうんと頷いた。

「ああ、ごめんごめん。そういう事か」

 そういう事って、どういう事だよ、おい。

 なおも兄貴は、何かを言いたげな目でニヤニヤとこちらを見つめている。くそっ、何で、事あるごとにこう痛くもない腹を探られなきゃならないんだ。俺と鮎川の間には、何にも後ろめたい事はないってのに―――今のところは。

「そ、そういや兄貴、親父って今日、何時に帰って来るの」

「ええと、四時ぐらい、かなぁ。今日はブリと大根の煮付けらしいよ」

「えー、どうせならハンバーグとかの方がいいなぁ」

 すると兄貴は、やにわにからかうような笑みを浮かべた。

「あのコゲだらけのハンバーグ?」

 そんな兄貴の言葉に、俺は慌てて首を横に振る。

「いや、焦げてないやつ」

 今、親父は週に三回ほど男性向けの料理教室に通っている。そういう日の夜、親父は決まって、その日に習った料理を家族にふるまってくれやがるのだが、残念ながら、そんな親父の手料理が今まで美味かったためしは一度もない。

今日も今日とて親父は、教室の開かれている町の公民館へと出かけている。頑張っている親父には悪いが、やっぱり俺は、今でも母さんの料理の方が好きだ。

教室には、親父と同じような事情を抱えた受講者も多く通っているらしく、おかげで親父にも、馬の合う友人が数多く出来た。今ではその中の数人と、一緒にゴルフへ行くまでの仲になっている。

そんな親父に、俺は、あの川へのダイブ事件以来めっきり腹を立てる事がなくなった。

拳を上げない穏やかな親父も、下らないお笑い番組を見てだらしなく笑う親父も、今は、それはそれでいいと思える。

なぜだろう。今は、本気でそう思う。―――などと、しみじみと物思いに耽っていた、その時だった。

「ちょっと浩二! 何なのよこれは!」

 突如二階から、何かが爆発したかのような怒声が響いた。他でもない、母さんの怒鳴り声だ。どうやら相当にご立腹であるらしい。そういえば、母さんのこんな威勢のいい怒号を聞いたのも、えらく久しぶりな気がする。

ドスドスと階段を駆け下りる足音がドア越しに響き、続けて、バン! と勢いよくドアの開け放たれる音がリビングに満ちる。そうして、騒々しくリビングに現れた母さんが、鬼神のような顔で手にしていたブツ、それは―――

「ちょ、ちょっと母さん、それええっ!?」

 次の瞬間、俺は思わず椅子から立ち上がっていた。

そんな俺を憤然と見据えながら、母さんが軍用犬のような声で唸る。

「やっぱり、あんたのだったのね、浩二」

そう、母さんが手にしていたブツ、それは、俺がベッドの下に秘蔵するエロネタの中でも珠玉の一品である『ロリっ子メイドご奉仕日記・発育良くてゴメンなさい』なるマンガだった。表紙には、アヒル座りを決め込んだメイド服姿の少女が、はだけて露わになった巨乳を手ブラで覆い隠しながら(正確には隠しきれていないが)物欲しそうにこちらへ上目遣いをよこす痛いイラストが載っかっている。

 ってか、よりにもよって鮎川の前で!? どういう公開処刑だよコレ!

「あなた、まだ十七歳でしょ? どうやって、こんないかがわしいものを手に入れたの?」

「え、ええと……と、友達に……置いといてくれって頼まれて……」

 言えない。こっそり兄貴のスーツを借りて、自分で買いに行きましたなんて、とてもじゃないがこの二人の前では言えない。

……ああ。こころなしか背後の視線がやけに痛い。特に、豆鉄砲を食らったハトのような鮎川の視線が。

 しばし、猛犬のような眼差しで俺を睨み据えていた母さんは、しかし唐突に、今までの母さんのイメージからは到底想像できないような言葉をぽつりと口にした。

「……まぁ、仕方がないわね。男の子なんだし」

「え?」

「次はもっと、お母さんの目に触れない場所に隠しなさい。いいわね?」

そして母さんは、手にしていたブツをそっとダイニングテーブルに置くと、そそくさと二階へ戻っていった。やがて二階から、再び掃除機の甲高いモーター音が響き始める。

「岡崎君、それ……」

「うわぉっ!」

 いつの間にやらテーブルを覗き込んでいた鮎川の目の前から、俺は慌てて例のブツをひったくった。こいつにだけは、絶対に、絶対に知られてはいけない。

 俺が、筋金入りの巨乳マニアであるという事を!

「へぇ、これが浩二の趣味かぁ」

と、一体いつ、俺の背後に回っていたのか、今度は兄貴が俺の手から勝手に本を抜き取った。さらに兄貴は、こちらの危機的状況にはまるで構いもせず、あくまでも柔和な笑みを浮かべつつ、アレやソレの描かれた危険なページをパラパラとめくり始める。

あああ、視界の隅で、鮎川がこれ以上ムリってぐらいに赤面してるぅぅ!

「って、鮎川の目の前で、なに平然とめくってんだよ兄貴! さっさとしまってくれよ!」

 ―――その時だった。

 ひらっ。

そんな兄貴の手元から、不意に、一枚のメモが舞い落ちた。

「ん?」

床に落ちたその紙を、なんとはなしに拾い上げる。と、そこに書かれていた言葉に、俺は思わず首を傾げた。


生きろよバカ。  ―――BY死神


「ふふ、変わってる。死神なのに生きろだなんて」

 いつの間にか俺の手元を覗き込んでいた鮎川が、可笑しそうにクスクスと笑う。

 が、一方の俺は、なおもその不可解なメモ書きから目を離せずにいた。

「岡崎君が書いたの? これ」

「え……いや……」

 鮎川の問いに、俺はこれという答えを返す事ができなかった。その文字は、確かに俺の字のようでもあり、けれども同時に、やっぱり俺の字ではないような、妙な塩梅の癖字で殴り書きされていた。少なくとも俺自身には、こんな奇妙なメモ書きを自分のエロ本に挟んだなどという記憶はない。

 そもそも鮎川の言う通り、何で死神なのに「生きろ」なんだ? 「生きろ」なのに、死神なんだ? 一体こいつは、俺を殺したいのか? それとも生かしたいのか?

―――いや。

生きりゃいいんだ。

だって、生きろって言ってんだから、このアホな死神は。

その時だ。ふと俺の脳裏に、雨の降りしきる住宅街で、ガードレールに身を乗り出し俺を見下ろす、大鎌を携えた奇妙な女の子の姿がよぎった。

白い肌。黒い服。銀色の髪に、血のように真っ赤な目―――けれどもその女の子は、死神という不気味な言葉からはにわかにイメージが結びつかないほど、嬉しそうな、それでいて寂しそうな笑みを浮かべ、俺に向かってこう叫んでいた。

生きろよ―――と。

「ありがとな」

「ん? どうしたの? 岡崎君」

不思議そうに俺の顔を覗き込みながら訊ねる鮎川に、咄嗟に俺は首を振る。

「え……あ、いや。何でもない」

何故か、俺は寂しくはなかった。彼女とは、きっとまた会える。そんな気がしたからだ。

恐らくは、数十年後……


ここまでお付き合い頂きありがとうございました。

以前、一度載せたのですがある賞に応募し、見事落選ののち載せ直したものです。

本当に、プロの壁は厚い……


今までとは少し違う死神像を模索してみました。

魂を奪う死神と言うより、命の守り神のような。

そもそも人間にしろ何にしろ、生きている限り、死ってものには常に付きまとわれてしまうわけで。

じゃあこういう死神がいてもいいのかなと。


ご意見、ご感想、ございましたらお待ちしております。

よろしくお願いします。

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