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六章

「なぁ、このWHATってさ、疑問文のWHATだっけ?」

つい半月ほど前まで、女子のスカートを気まぐれに攫うぐらいしか能のなかった木枯らしも、今やすっかり本格的な冬の北風へと変貌していた。

すでに街は、クリスマスシーズンならではの独特の高揚感に冒されている。

繁華街の街路樹には、樹木が望もうと望むまいともれなく電飾が巻きつけられ、センター街には見上げんばかりの巨大なクリスマスツリーがお目見えし、おでんを買いにコンビニに行けば、ほぼ間違いなくクリスマスケーキの予約受付のお知らせを目にする事になる。

街全体が時節柄のパーティー気分に浮かれる一方、寒さは日々刻々と、確実に厳しさを増しつつあった。道行く人のダウンジャケット率も、日々、順調に増加しつつある。モノトーンのコートに身を包み、マフラーに深く顔を埋め、人々は、肌も切り裂く猛烈な寒風の中を、それぞれの目的のために黙々と歩く。

冬用の装備で身を固めた通行人達を、窓際のカウンター席から見下ろしつつ、俺は今、学校近くのファストフード店にて、鮎川と二人で今日の授業についての復習を行っていた。

屋上での一件から、早くも一ヶ月が過ぎ去ろうとしている。あの日以来、俺達は、放課後に二人でファストフード店に立ち寄っては、ポテトなどをつまみつつ、その日の授業内容を確認し合う事を日課にしていた。

「ううん違うよ。それは関係代名詞のWHAT。ほら、この部分の文章を、WHATに代入するの。その方が、文全体の意味がわかりやすくなるよ」

 丁寧な解説と共に、鮎川は、色とりどりのマルや矢印を俺のノートに書き加えてゆく。

解説が熱心になればなるほど、その上体は自然とテーブルの上に乗り上がり、腕から溢れた豊満な双丘が、たぷんとノートに押し付けられて……って、おいっ! 何考えてんだ俺っ! 今は勉強に集中しろっての!

 さもないと、あのふくらみが、あのふくらみがいずれ俺ではなく誰かの手に……ッッ! 

「どう、かな? 私なんかの説明で、わかった……かな?」

 鮎川の呼びかけに、俺は慌てて意識を未来形から現在形に引き戻し、答える。

「あ、ああ、うん! いや、さすが―――」

「さっすが、鮎川ちゃんは、あんたと違って頭のデキが違うねぇ」

「うるさいっ! 静かにしろ!」

「え?」

 俺の怒声に、鮎川が小さく驚きの声を上げる。―――しまった。またやっちまった。

「どうしたの? 岡崎君」

不安げな表情で、鮎川が俺の顔を覗き込む。そう。鮎川の目には、俺を挟んで鮎川と反対側の席に居座り、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる死神の姿は全く見えていない。

「あ、いや、ちょっと、耳元に蚊が……」

「蚊? ……もう十二月なのに?」

「あ……いや、でも今、地球がすげぇ勢いで温暖化してるだろ? だから、」

俺の苦し紛れのボケに、鮎川は困ったような笑みを返すと、ノートの傍らに置かれたフライトポテトを摘み上げ、控えめな唇でそっとついばんだ。

屋上でのあの一件以来、鮎川はさらに綺麗になった―――ように俺には見える。実際、鮎川に付き合いを申し出る不届きな野郎の数は、今もなお、インフルエンザウイルスよりも高いペースで増殖を続けている。

だが鮎川は、それらの申し出をことごとく断り続けていた。なぜなら―――

あの日、鮎川は、俺とこんな約束を交わしていた。


「―――そういえば、お前が目指してる大学」

 屋上の金網にもたれ、空を睨みながら、俺は、意を決して切り出した。 

「俺も、目指してみる」

同じく、俺の隣で金網にもたれていた鮎川が、こちらを振り返る。その顔は、こころなしか嬉しそうに見えた。

「本当……ですか?」

「ああ……。だからさ、もし、お前と一緒に合格したら」

「はい」

「……俺と、付き合ってくれないか?」

その瞬間、鮎川はその長い睫毛を大きくしばたかせた。

「え……?」

 鮎川の顔が、傍目にもそれとわかるほどにフリーズするのが見て取れた。顔を赤らめるでも青褪めさせるでもなく、ただ真っ白な顔で、鮎川は、ひたすらまっすぐに俺を見つめ返していた。

 やばい、この反応は、もう―――

「あ、いや、ムリだったらマジごめん。……つか、なに本気にしてんだよ、冗談に決まってるだろ、そんなの、ば、バカじゃねーの? ほんとによ……」

貧相な誤魔化しのボキャブラリーを吐き散らしつつ、俺は、横目でそっと鮎川の表情を伺った。怒っているだろうか、それとも、誰がお前なんか、と、軽蔑の眼差しで俺を見据えているのだろうか―――?

だが。俺の予想は、いずれも大きく的を外していた。

鮎川は、泣いていたのだ。

黒く大きな瞳から、ぽろぽろと真珠のような雫をこぼしながら。

「え? は? 何で、」

 この時の俺は、自分でも情けないほどにうろたえ、途方に暮れていた。よもや、泣かれるほどに嫌がられてしまうなんて。ひょっとすると脈があるかもなどと思っていた相手に、まさか、こんなかたちでカウンターを食らっちまうなんて。

「ご、ごめん、いや、ウソウソ! 付き合ってくれだなんて、そんな事、い、言う訳、」

「違うんです!」

 鮎川の唐突な大声に、今度は俺が固まる番だった。

「……へ?」

 すると鮎川は、涙で詰まった鼻声を搾り出すように言った。その細い肩を、嗚咽で小刻みに震わせながら。

「す……すみません。うぐっ。なんかよくわからなくって、こういうの、初めてじゃないはずなんですけど、えぐっ、岡崎君に言われたら、他の人と全然違ってて、その、何て答えたらいいのか、よくわかんなくなっちゃって……でも、」

「でも……?」

「でも……すごく嬉しい」

 泣き腫らした鮎川の、それでも溢れる柔らかな笑みに、俺は再び、目頭が熱くなるのを感じた。―――と同時に、俺は自分自身に強く誓った。

絶対に、絶対に鮎川との約束を果たしてやる。

 そして、今度こそまっすぐに、「好きだ」と―――。


勉強と少々の雑談を終え、店を出ると、通りのそこかしこにはすでに色鮮やかなイルミネーションが燦燦と輝いていた。

肌を刺す冷たい風に、暖房で緩んだ身体の緊張が一気に引き絞られる。

 両手で口元を覆い、はぁ、と白い息を吐きかける。しかし、指先が温もりに癒えるのはほんの一瞬のみで、すぐさま冷たい外気が手の平を襲い、細い指先を再び凍てつかせる。

「きゃ、寒い」

俺の背後に続いて店を出た鮎川が、寒さに身を縮こませながら小さな悲鳴を上げる。

 か細い、小動物のようなその声に、俺は思わず、その細い肩を抱きしめたくなる衝動に駆られた。―――ああ、やっぱり可愛いな、鮎川は。

一方、死神は、というと―――

「さむーいっ! ったく何よ、冬のバカ! こんなに寒いんじゃ、死神だって凍え死んじゃうわっ! あーもうやってらんない。ねぇ浩二、そのコートとマフラー貸して」

 ご覧のとおり、可愛げのカケラもありゃしない。

「アホぉっ、俺が凍死するわ!」

「凍死……なるほど、そういう殺し方もあったか」

「納得するな!」

秋が過ぎようと冬が来ようと、死神は相も変わらず、例のティム・バートン仕様のミニスカワンピを着用し続けていた。その季節感度外視ぶりは頭の悪い小学生並みで、見ているこちらが凍傷になってしまいそうである。そんな死神が、寒いだのコートを貸せだのほざいても、俺としては「自己責任だ、バカ」と答えるより他はない。

「どうしたの? 岡崎君」

 鮎川の怪訝な声に、思わず振り返る。どうやら鮎川は、またもや俺の“独り言”に不安を覚えてしまったらしい。

「あ、いや、なんつーか、あんまり寒いんで、文句言ってやったんだよ、冬に」

「冬に?」

「そ、そう。冬に」

途端、鮎川はくすくすと軽やかな笑い声を漏らし始めた。

「え? 俺、何か可笑しな事でも言ったか?」

「うん……面白いんだね、岡崎君って」

「へ?」

「正直に言うとね、本当はずっと、岡崎君ってちょっと怖い人かなって思ってたから……その、意外な一面が、見えたっていうか」

「は? 俺が怖い? ど、どこが? 俺なんかぜんっぜん、」

「そうだよ鮎川ちゃん、騙されちゃ駄目っ! こいつってばバカだしケンカは弱いし、いっつもオッパイの事しか考えてない変態なんだから!」

「オッパイオッパイうるせーのは、そっちだろうがぁ!」

「えっ?」

またしても、鮎川の表情が怪訝とも奇怪ともつかない表情で凍りつく。ま、まずい。このままでは、彼氏になるよりも先に、変態電波などという男として最低最悪の烙印を押されかねない。

「え、ええと、違うんだ鮎川。今のは、なんていうか、ただの独り言で、」

恐る恐る、鮎川の方を振り返る。きっとそこには、蔑むように俺を見上げる黒い瞳が、俺を待ち構えているはず……。

だが、俺の痛い予想は、あまりにも思いがけないかたちで裏切られた。そこで俺を待ち受けていたのは、事もあろうにほんのりと赤らんだ鮎川の頬であり、潤んだ黒い瞳であり、そして、何やら物を問いたげな、艶やかな唇であった。

「う、うん……ええと、でもしょうがないよね。お、男の子なんだし、その」

「いや、でも、鮎川とは、大学入るまで、そういうつもりは……」

「じゃ、入学したら……?」

 鮎川の上目遣いに促されるように、俺はそっと視線を彼女の胸元に移した。

 大きい。厚手のコート越しでさえ、その豊満さが手に取るように分かるほど、大きい。本来、女の胸というものは、厚着をすればするほど服に押し潰され、目立たなくなってしまう悲しい有機体なのであるが、こと鮎川の胸に至ってはいくら厚着をしても、服の重みに負ける気配をまるで感じさせなかった。さながら“前に習え”を思わせるほど勢いよく前に張り出したその双丘は、生まれながらのオッパイ星人にして稀代のオッパイ評論家を自認する俺の目から見ても、稀に見る逸材であるのは間違いない。

「浩二、鼻の下伸びてる」

「うぉっ!」

 死神の言葉に、俺はとっさに鮎川(の胸)から目を逸らした。と同時に、今回に限っては死神の声が鮎川に聞こえなくて本当に良かったと思う。

「そ、そうだ、ええと、マフラー貸してやるよ、寒いだろ?」

「え、それじゃ岡崎君が風邪引いちゃう……」

「えーっ、それじゃあ、あたしが風邪ひいちゃうぅぅ!」

異質な二つの声色が、同時に俺の耳に響く。ったく、相変わらず自分勝手な奴……。

 まぁ、所詮は死神といったところか。こんな時、一体どのような物言いをした方が相手の心を動かしやすいか、そんな基本的な人間の心理さえ、こいつは何も分かってない。

「いいから、黙って使え」

 なおも傍でぶうたれる死神を捨て置くと、俺は、兄貴のお下がりのバーバリーを鮎川の首に巻きつけた。マフラーに半分ほど顔を埋めた鮎川は、微かに頬を赤らめ、またしても例の反則的上目遣いで囁いた。

「ありがと……」

 うん。やっぱり鮎川に譲って正解だったな。



「最近、楽しそうじゃない?」

その夜、自室で机に向かい、明日の予習に勤しむ俺の背後で、ふと死神が言った。

「そうか?」

 机に広げたノートの上に数式を展開させながら、俺は背中で死神に応じる。

「うん。毎日が充実してるって感じ。死ぬのがどうでもいい、だなんて言ってた頃が、ほんとウソみたい」

「あー……そういや、そんな事を言ってた時期もあったなぁ」

「ねぇねぇ、こういうのってさ、リアみつるって言うんだっけ?」

「それを言うなら、リア(じゅう)だろうが。つか、誰がリア(じゅう)だ」

シャーペンを机に置き、そっと振り返る。そこには、Tシャツから伸びる小枝のような手足をベッドに投げ出し、仰向けのままぼんやりと天井を眺める死神の姿があった。

「ねぇ、もう死にたくなくなった?」

 ふと、死神は寝言のように虚ろな声で言った。

「……は?」

「だから、もう死にたくなくなったか、って聞いてんの」

 やおら死神は白い足を振り上げ、反動でくるりと身を起こすと、ぐいと顔を突き出し、俺の顔を覗き込んだ。ガーネット色の真っ赤な瞳が、俺の内奥を探るように鋭く光る。

「死にたくないか……だって?」

「そう」

 あくまでも真面目な顔で、死神はこくと頷いた。

死にたいか、死にたくないか―――今の俺にとって、もはやそれは取るに足らない、過去の問題と化していた。辛うじて、そんな禅問答で真面目に悩みあぐねていた頃の自分を、記憶の隅にようやく思い出す事ができるのみである。

要するに、それは今の俺にとって、この上なく馬鹿馬鹿しい問いかけに過ぎなかったという事だ。なぜなら今の俺には、叶えなきゃならない約束がある。鮎川と同じ大学に進学するという、大きな大きな大きな約束が。

「当たり前だ」

一も二もなく、俺は即答した。

すると死神は、すうっと眼を細め、「そう」と一言、静かに呟くと、ベッドに身を横たえ、再び、染み一つない天井をぼんやりと眺め始めた。


英文の和訳を終え、ノートから顔を上げると、卓上時計は間もなく夜中の二時を指そうとしていた。振り返ると、すでに死神は、俺のベッドで気持ち良さそうにくうくうと寝息を立てていた。

白磁の肌に、(まろ)やかな頬。エッジの効いた鼻筋に、涼やかに切れ上がった眉目。時々、思い出したようにもごつく唇は、薄く、ほんのりと桜色に染まり、全体的にモノトーンで占められがちな彼女の外見に貴重な彩りを添えている。今更ながら俺は、ぞっとするような彼女の美しさに見入った。

まるで……大理石の彫像みたいだ。いや、本当に大理石で出来てたりして。

ふと俺は、これまでほとんどと言って良いほど、死神の肌に直接触れた覚えがないという事に気付いた。一応、触れた事はあるにはある。けれども、大抵の場合それは衣類越しであったり、よしんば肌と肌が触れ合ったとしても、そのほとんどは何らかの弾みである場合が多く、じっくりと触れ合い、その感触を確かめ合う機会は残念ながら皆無だったと言っても過言ではなかった。

温かいのかな……それとも、死神だからやっぱり冷たいのかな……。

俺は、死神に気取られないようそっと手を伸ばすと、その指先で、彼女の頬をそっと突ついた。

肌は、思ったよりもひんやりしていた。けれども、驚くほどの冷たさとは言えない。今の寒い時期ならば、帰宅した直後の俺の頬の方がよほど冷えているぐらいだ。

続けて、白く細い首筋に指を沿わせる。とりあえず、首筋からは脈拍を感じられない。そもそも脈自体を打っていないのか、俺の測り方がまずいのか、その原因はわからない。ただ、一つだけはっきりと言えた事は―――

こいつの肌、めちゃくちゃ肌触りがいい。

さらに俺は、指先で死神の肌を撫で続けた。細い鎖骨から、再び白い首筋へ戻って、耳の辺りまで。今度は二の腕に指先を移し、その柔らかな感触を確かめた後で、肘、それから手首までをそっと撫でる。その、肌に吸い付くような瑞々しい感触に、次第に俺は、自分の中に、これまで覚えた事のない不思議な感動が生まれるのを感じた。

気持ちいい……。女の子の身体って、こんなに気持ちがいいんだ……。

 誰かに触れているだけで、その感触を確かめるだけで、こんなに幸せになれるなんて。

「ン……ッ」

「っっ!」

 途端、死神が微かな呻き声を上げ、俺は弾かれたように手を引いた。

 ば、バレた、か?

 しかし、その後しばらく死神の様子を見守ったが、彼女が目を覚ました事を示す兆候は、結局何も見出す事ができなかった。どうやら先程の呻き声は、単なる寝息の類であるらしかった。

 唇が、再び何かを言いたげにもぞもぞと蠢く。その時、不意に俺は思った。

 こいつの唇……きっと、すごく柔らかいんだろうな……。

吸い寄せられるように、俺は死神の寝顔にそっと顔を寄せた。僅かな唇の隙間から漏れ出るひやりとした息が、俺の鼻先を軽くくすぐる。

 なんか……キス、してみたい。 

いや、ちょっと待て俺。もし、このままコイツとキスなぞしようものなら、俺の貴重なファーストキスは、鮎川ではなく死神なんぞに捧げられる羽目になっちまう。それってつまり、重大な浮気って事になりはしないのか?

―――いや、むしろ男であれば、いついかなる状況でも女性を優しくリードできるような、心の余裕を備えておくべきだ。だからこそ、むしろここは、場数を踏むという意味でもコイツの唇で試しておく必要がある。そもそも、女子のものならいざ知らず、野郎なんぞの“初めてのキス”ごときに、一体何の希少価値があろうものか。

そうこうするうちに、今や俺の唇は、死神の唇まで残り数センチという距離に迫ろうとしていた。どうする、どうする俺、どうする……。

ええい! 男なら、ここまで来たらもう踏み出すしかない!

ままよ、と、俺はひときわ大きく息を吸うと、人生初の衝撃に対し心身共に身構えた。

ごめん、鮎川。一足お先に、大人になってきます―――

と、その時だった。

ゴドドッ!

階下から突如、不穏な物音が轟いた。

それは、何とも不可解な物音だった。家具が倒れたと見なすには、いやに音がくぐもっており、そのため最初は、りんごか何かがテーブルから転げ落ちたものと俺は思った。が、一方で、その程度の小さな物音では、こうもはっきりと二階まで届く事はありえない。

 両親はすでに隣の寝室で眠りについている。物音の主として最も可能性が高いのは、やはり先程帰宅した兄貴だろう。だとしても―――。

いや、だからこそ、何かが引っかかる。

俺は死神を起こさないようそっと息を殺して立ち上がると、そっと部屋を抜け出し、一階への階段を抜き足で降りて行った。

暖房を切られた一階の空気は、思った以上にひやりとしていた。寒さに身を縮めつつ、暗闇をかきわけなおも階段を降りる。一階廊下には、特にこれといった異常は見られなかった。が、肝試しの本番はむしろここからだ。

なおも周囲の様子に気を配りつつ、俺はリビングのドアを押し開いた。

リビングに入るや電気を付け、部屋を見回す。しかし、俺以外の人の気配など、微塵も感じられはしなかった

やっぱり、気のせいか……。

ふう、と俺は安堵の息をついた―――その時だ

「う、うう……」

突如、背後から聞こえた奇妙な呻き声に、俺はたちどころに身を凍らせた。

誰だ? 泥棒? 幽霊? ……いや、違う。

振り返り、今一度リビングを見回す。だが、いくら見渡しても、やはり、人影と呼べるものは誰も見当たらない。

続いて俺は、キッチンへと向かった―――と。

「……え?」

 そこに俺は、いっそ幽霊が手招きしながら待ってくれていた方がまだマシだったと思うほどの、思いがけない光景を目にする事となった。

「兄貴?」

そこで俺が目にしたもの、それは、シンクの縁にとりつき、真っ青な顔を力なく俯かせる、スーツ姿の兄貴だった。

「ど……どうしたんだよ、兄貴。こんな所で……」

「こ……こう、じ?」

振り返った兄貴の顔を目にするや、俺は安堵どころか、恐怖で思わず叫びたくなる衝動に駆られた。兄貴の顔は、すでに生気という生気が抜け落ち、まるで葬儀場の棺桶からこっそり抜け出して来たかのような、そんな様相を呈していた。その顔色がひどく青褪めて見えるのは、恐らく、蛍光灯の光のせいだけではあるまい。

シンクの傍らには、見覚えのある白い紙袋が捨て置かれている。確か、兄貴が就寝前にいつも飲んでいた睡眠薬の袋だ。さらにその傍では、空の錠剤プレートが幾枚も折り重なり、不気味な山を形作っている。

まさか―――兄貴は……?

ふと脳裏に浮かんだおぞましい可能性に、俺の心臓は一拍、ひときわ大きく脈打った。

ウソだろ? なんで……なんで兄貴が?

「どうしたの?」

振り返ると、キッチンの入口に、ぼうっと蜃気楼のように佇む死神の姿があった。

「そ、そうだ! おい死神! 何とかしてくれよ!」

「何を?」

「何を、ってお前、死神なんだろ!? 人の生死をコントロールできるんだろ!?」

だが、体全体が心臓と化したかのように脈打つ俺とは対照的に、あくまで死神は、いつもと変わらない、人を食った調子でケロリと言い放った。

「えームリ。あんた以外の人間の生死なんて、あたしにはどうしようもないもーん」

「けどお前、兄貴の事が好きだって言ってただろうが!」

「うん」

「このままじゃ、兄貴が死んじまうんだぞ!」

俺の絶叫に、しかし、死神は、なおも平然と答えた。

「そんなの、ただの自然の摂理じゃない」

いつもと変わらない、だからこそ、どこか達観したようにも見える彼女の赤い眼差しに、俺は今更ながら、得体の知れない空恐ろしさを覚えずにはいられなかった。

やっぱり、こいつは人間じゃない。単なる命の傍観者、そう、こいつは死神なんだ。

俺はすぐさまリビングに駆け出すと、電話機にとびつき、一一九番を押した。呼び出し音が受話器から響く間も、震えと動悸が収まらない。

『一一九番、消防署です。火事ですか? 救きゅ、』

「す、すぐに来てください! 兄貴が、兄貴が倒れてるんです!」



すぐさま兄貴は、駆けつけた救急車に乗せられ病院へと運ばれた。

すぐに当直医による診断が行われ、その結果、兄貴は、睡眠薬を大量に服用した事によるショック症状を起こしているとの診察結果を下された。

幸い、兄貴が服用している種類の睡眠薬は、この程度の量では服用者を死に至らしめる事はないらしく、医者からは、兄貴の命に別状はないと告げられた。

胃の洗浄などの緊急処置が行われている間、俺と親父、そして母さんは、処置室外(そと)の廊下に置かれた長椅子に腰掛け、医者の処方が終わるのをじっと待ち続けた。

椅子に腰掛けた母さんは、うずくまるように頭を抱え、時々思い出したように乱暴に頭をかきむしっては、栗色の髪をばさばさと床に散らした。母さんの足元では、すでに、無残に千切られた毛がこんもりと玉を形作っている。

「なんで……どうして……」

またしても母さんは、引きちぎるように髪をかきむしりながら呻いた。

「やめなよ、母さん」

その手を、俺は横合いからそっと引き剥がす。すると母さんは、溺れゆく者が必死で命綱にすがるかのような形相で、俺の手にひしとしがみついてきた。

尋常ではない握力が、俺の手をひき潰さんばかりに握り締める。だが、母さんの手から直に伝わる震えが、俺に離さないでくれと訴えているような気がし、どうしても、俺はその手を引き剥がす事ができなかった。

「大丈夫だよ母さん。とりあえず、お医者さんは助かるって言ってるんだし」

「どうして……ねぇ、浩二、どうして……こんな事に?」

母さんの震えは、なかなか止まる気配を見せなかった。

そんな母さんに、俺はただ、その肩をきつく抱きしめる事しかできなかった。


それから、どれほどの沈黙が過ぎただろう。

ふと、親父がぽつりと切り出した。

「実は……前に何回か、仕事の事で、あいつから相談を受けた事があってな。――クビを切られたような父親に話しても、仕方がないと言うのに」

 その言葉に、俺はもちろん母さんも顔を上げ、親父の方を振り返った。

「どうして……?」

「どうしてと言われてもな。それは父さんにも、」

すると突然、母さんはあれほど強く握っていた俺の手をばっと離すと、今度は親父の懐に掴みかかり、鬼のような形相で怒鳴った。

「どうして!? どうしてそういう大事な事を私に黙っていたの? もし私に話してくれていたら、私も、もっとあの子の気持ちを慰めてあげられたのに!」

「しょうがないだろう! あ、あいつがそう望んでいたんだから……この事は、母さんにだけは絶対に言ってほしくない、とな」

「光一が? ―――どうして?」

「さぁ、あいつの考えはよくわからんが……きっと、失望させたくなかったんだろう。あいつは、仕事で母さんの期待に添えない事を、いつも気にしていたようだったから」

 親父が言い辛そうに口にした言葉に、母さんはまたも喰らいつく。

「じゃ……じゃあ何? 私があの子を追い詰めたっていうの? ねぇ?」

「そうは言ってないだろ?」

「いいえ、言ってるわ! あなたはいつもそう! 心の底で私を軽蔑してるの。小ばかにしてるのよ! うるさい女なんだって……口うるさいだけの愚かな女なんだって!」

「落ち着くんだ! とにかくここは落ち着け!」

「落ち着けですって!? 落ち着けるわけないわよ! あたしがお腹を痛めて産んだ息子が、自分で命を断とうとしたのよ!? 大体、どうしてあんたは、相談を受けてたくせに、あの子の自殺を防げなかったの? どうしてあの子の気持ちを汲んであげられなかったの? ねぇ、どうしてよ!?」

「し、仕方ないだろう! まさか、父さんもこんな事になるとは……」

「どうしてあなたは、そういつもいつも勘が鈍いの? だから仕事も、クビになるんじゃないの!」

「い、今はその話は関係ないだろ!」

「関係あるわよ!」

「どう関係あるってんだ! 説明してみろ! えぇ!?」

ここが病院であるという事実は、すでに二人の頭からは完全に忘れ去られてしまっていた。不毛な水掛け論は留まる気配を見せず、静寂に包まれるべき夜の病院に、剣のある二人の怒鳴り声がいつ終わるともなく響き渡った。

「やめろよ……」

俺は、両手で耳を塞ぎながら、懇願するように呟いた。けれども、激昂した二人の耳には、まるで防音壁を隔てたかのように、俺の声は届かない。

「あんたのせいよ!」

「お前のせいだろ!」

「やめろおおおおお!」

 ぴた……。

 俺の渾身の怒声に、ようやく二人は醜い言い争いを止めた。

 静寂を取り戻した病院の廊下で、俺は今一度、二人に懇願した。

「……やめろよ。意味ないだろ……? 今、そんな話、したって……」

「浩二、あんたって一体どこまで薄情なの、」

「やめろ! 母さん!」

なおも額に青筋を立てる母さんを、今度は、横から諌めたのは親父だった。

「やめるんだ……」

親父の声に促され、矛を収めた母さんは、ソファに崩れ落ちるなり手のひらで顔を覆うと、夜の闇に、重い嗚咽を響かせ始めた。

「とにかく、兄貴は助かるんだ。大事なのは、これからなんだよ。俺達は兄貴を―――兄貴の心を支えなきゃいけないんだ。なのに、支えなきゃいけない俺達が、こんな調子じゃあ……とてもじゃないけど、兄貴を救えるわけ、ないだろ?」

母さんは、肩を激しく震わせつつ、何度も何度も首を縦に振った。

親父は、下唇を噛み締め、床の一点を睨み始めた。

処置室から漏れ聞こえる、緊張感を帯びた医師らの会話は、なおも息つく様子を見せなかった。



翌朝、兄貴が勤める会社から電話があり、今朝方、兄貴の辞表が郵送にて会社に届けられた旨を俺達に知らせてきた。兄貴は、自殺を図る数日前にはすでに、一人で辞表をしたため、誰にも知らせずにポストへ差し出していたのだ。

辞表はすぐに受理された。本来であれば、辞表の提出後一ヶ月は、業務の引継ぎに支障を来たさぬよう会社の方へ出勤しなければならない、というのが社会のルールであるらしい。けれども、今の兄貴にそれを求めるのは、会社にとっても、そして兄にとっても、どだい無理な話だった。

その日、俺は学校が終わると、すぐさま兄貴が入院する市民病院へと向かった。

ナースセンターで兄貴の部屋番号を訊き、看護師や寝巻き姿の患者が行き交うベージュ色の廊下を進む。先程教わった番号の部屋を訪ねると、入口には確かに、『岡崎光一』と書き記されたネームプレートが掲げられていた。

 昨夜の一連の出来事は、やはり現実だったのだ、と、今更ながら思い知らされる。

部屋の引き戸を開く。すると、ベッド脇の椅子には、すでに先客が腰を預けていた。

「親父、兄貴の調子は?」

親父は、リンゴを剥く手をはたと止めると、呆けたような顔で俺を見上げて言った。

「学校は終わったのか」

「まぁね、もう四時だし」

「もう、そんな時間か……」

 呟きながら、親父は窓の景色に目を移した。西の空にもったりと立ち込めた分厚い雲の切れ間からは、不気味なほどに真っ赤な夕焼けが、ちらちらと見え隠れしている。

白いベッドの上では、点滴のチューブに繋がれた兄貴が、安らかな顔をしてすやすやと寝息を立てている。

「医者の話だと、命に別状はないようだから、数日もすれば退院できるらしい」

「そう」

無様に削れて小さくなったリンゴの切り身が、親父の膝に載った小皿にコロコロと転がっている。それらの一つを取り上げ、眺める。見れば見るほど、カレーに入れるジャガイモに見えてくるのが可笑しく、そして、どこか哀しい。

「はは……ひどいね、これ」

「母さんの言うとおり、料理教室に通っておけばよかった」

“ジャガイモ”を口に放る。思いがけず、その味はしょっぱかった。

「そういえば……兄貴って、仕事うまくいってなかたんだって?」

「ああ」

「なんで? こんな頭のいい兄貴が」

しばらく押し黙った親父は、やがてぽつりと口を開いた。

「社会人ってのはな、それまでの学校の勉強とは、全く違う能力を要求される事も多いんだ。コミュニケーションの方法、礼儀、状況判断力、カンの鋭さ、負けん気の強さ……けど、こいつは昔から、ほら、性格的に、いまいち押しが弱かっただろう? そのせいか、会社ではなかなか思うような成績を上げる事ができなかったみたいでなぁ。ついには、その、学校で言うところの、まぁ、虐めみたいなもんを受けるまでになって」

「虐め? なんだよ、いい歳した大人がそんな事で」

「そんな事、か」

ふと親父は、薄い笑いを顔に貼り付けた。

「最初の頃は、それでも耐えていたんだ。だが、」

「?」

「父さんがクビを切られた時から、光一の様子はどんどん酷くなっていった」

「え?」

いつしか親父の顔から、さっきの薄い笑みは消えていた。

「父さんのリストラについては、光一は何も言わなかった。だが……その頃から、こいつの体調が変化をきたし始めたのも、事実だ。睡眠障害で心療内科に通い始めたのも、確か、その頃だったと覚えている」

俺は何故か、その時の兄貴の気持ちが、少しだがわかるような気がした。俺が授業をサボり始めたのも、まさに同じ頃だったのだ。

てっきり、俺一人の青臭い反応だとばかり思っていたのが、まさか、兄貴までも。

「すまない」

見ると、親父はすでに大きく肩を震わせていた。

「すまない、……父さんが、父さんがもっと……しっかりしていれば」

膝元のリンゴの切り身に、ボタリ、ボタリと雫が落ちた。いくつも――いくつも。

あの親父が、泣いている。

厳格で、岩よりも硬い存在だったはずの親父が、今や、触れるそばから崩れる砂像のような背中を、惜しげもなく息子の俺に晒している。

いつのまに、あんたの背中は、そんなに小さくなっちまったんだ。 

「わりぃ、俺、もう行くわ」

その言葉に、不意に親父は顔を上げた。だが、俺は咄嗟に顔を逸らすと、親父には一瞥もくれる事なく、踵を返し、病室を後にした。

見たくなかった。親父の涙を。

怖かった。目にすれば最後、俺はいよいよ、“父”を失ってしまう。

足元で、何かが崩れ去るような恐怖が、俺を苛んでいた。今まで疑う事なく踏みしめていた地平が、ある日、忽然と姿を消す恐怖。確かなものだと信じていた何かが、音も立てず、砂浜の砂城のようにさらさらと崩れ去る恐怖。

俺はひどい眩暈を覚えた。もはや、この一歩すら、踏み出す事が恐ろしい。

廊下に出るなり、外で待っていた死神が、病院という場所には不謹慎なほど陽気な表情を浮かべながら、俺の背中に飛びついてきた。

「どうしたんだよ、何か面白い事でもあったのか」

「うん。まさか、あのカタブツだったお父さんが、息子の前でポロポロ涙溢して泣いちゃうなんてねぇ」

その言葉に、俺は思わず足を止めた。

「は? お前、今何て」

「だぁからぁ。あの厳格なお父さんが、フヌケになるだけじゃ飽き足らず、とうとう息子に涙を見せるまで落ちぶれちゃったもんだから、それが可笑しくてたまんない、って言ってんの」

「……で?」

「笑っちゃうよねぇ。今までさんざん真面目に生きてきた結果がさぁ。コレなんだもん。だから人間って、いくら見てても飽きないのよね。ほら、上れない段差を必死で登ろうとしてる哀れな蟻、みたいな?」

「お前……」

「最初は全然つまんなくって、こりゃハズレかなって心配したけど、いやー、あんたに取り付いて、ほんと正解だったわ」

「てめぇえええ!」

気が付くと、俺は死神の肩を掴み、傍の壁に力一杯叩きつけていた。

ガンッ!

「きゃ!」

柄にもなく、死神は、見た目相応に可愛らしい悲鳴を上げた。けれども俺は、この手を緩める気にだけは、どうしてもなれなかった。

こいつは……こいつだけは、絶対に許せない!

背後で、冷気を帯びた耳打ちが交わされる。無理もない。連中にとって今の俺は、突然廊下で独り言を叫びながら、壁を思い切り殴りつけるアブナイ高校生でしかないのだ。

だが今は、生憎だが世間の目とやらを気にしている場合じゃない。

「てめぇ、言って良い事と悪い事ってのがあるだろうが」

「あれぇ? そう? でもあたし、何か間違った事を言った?」

「間違ってるとか、そういう問題じゃねぇ! 親父はなぁ、」

「でも、あんただって、同じような事を思ってたんじゃない」

「―――は?」

思わぬ言葉に、俺は冷水を浴びせられたような心地を覚えた。

「だから、授業をサボってた。そうでしょ? 事あるごとに、昔お父さんに怒鳴られたのと同じ理由で、お父さんを怒鳴り返しているのも、そう」

「な、なんだって?」

「すました顔しながら、心の底では、散々お父さんを軽蔑して、罵倒して……あんたの方が、よっぽどタチ悪いわよ――あたし今、何か間違った事を言った?」

「……」

いつしか、俺の手からはすっかり握力が失せていた。死神は、勝手に俺の手を振り払うと、やれやれと肩をほぐし、何事もなかったかのような足取りで出口へと歩いてゆく。

「ほら、早く行かないと、鮎川ちゃんが待ちくたびれてるよ」

死神の声は、まるで遠くの町から聞こえる鐘の音のように、虚しく俺の耳に響いた。



「岡崎君?」

「なに?」

いつものファストフード店のいつものカウンター席で、テーブルに広げた教科書をなんとはなしに眺めていると、隣に座っていた鮎川が、怪訝そうに俺の顔を覗きこんできた。

「どうしたの? 今日の岡崎君、何だか変」

「そう」

「大丈夫? 顔色も悪いし、体調が悪いなら、今日はもうやめよ」

 なおも鮎川は、心配そうに俺の顔を見つめている。そんな鮎川に構わず、俺は、テーブルに広げたまっさらなノートに黙って目を戻す。

 その時、ふと俺は思った。

 一体俺達は、何のために、誰のためにこんな面倒くさい事をやっているんだろう。

 未来のため? 将来就くべき会社のため? 社会のため? 老後の安心のため? 自分の懐を肥やすため? それとも、誰かの懐を肥やすため?

 けど、もし、それらの目的が、ただの幻想、すなわち俺達みたいなガキを都合良くだまくらかすために、大人達が張ったブラフだったとして――――

 だとしたら俺達は、一体何のために、誰のために頑張ればいい?

 わからない。

 ―――わからない。

 ――――――わからない。

「なぁ、鮎川」

「なに?」

「俺……もう、大学行くの、やめるわ」

「え?」

瞬間、視界の隅で、鮎川の顔が音を立てて硬直するのが見て取れた。

驚きと、そして悲しみが入り混じった、悲痛な顔。だが、今の俺には、そんな鮎川の気持ちを察してやろうという発想は、微塵も起こりはしなかった。

「なんつーか、意味ない……っていうか」

「ど、どうして、急にそんな事を?」

「とにかく、意味がないんだよ。大学も、約束も、何もかも―――生きてる事も、頑張るのも、もう、ほんとに、何の意味もないんだ」

「岡崎君……?」

「だって、そうだろ? 大学に入って何するんだよ? 勉強? 部活? バイト? 就活? それが何だってんだ? どれもこれもみんな、ただの暇つぶしじゃないか! 無駄に長い人生のさぁ、暇つぶし、暇つぶしなんだよ!」

「暇つぶしだなんて、そんな事言わないで。悲しくなる」

「―――で、何とか会社に就職して、今度は仕事だろ? 休みも関係なく仕事して、仕事して、仕事して、燃えカスになるまでとにかく仕事して……そんで、最後はどうなっちまうと思う? ゴミくずみたいに捨てられて、ポイだぜポイ! 俺も、それに、お前も!」

「もう、やめてよ、そういうの」

「なぁ鮎川、知ってるか? どんなに懸命に生きたって、行き付く先はみんなクズカゴだ。クズカゴだぜ? クズカゴ。それ以外には、何にもない。何にもないんだ! 必死こいて、這いずるように生きたって、なんにもない! なんにも! なんにもだ!」

「岡崎君」

「何だよ」

「そういう事を言う岡崎君って、好きじゃない」

「は?」

「ごめん……わたし、先に帰る……」

言うなり鮎川は、早々にテーブルの教材を鞄にしまい込むと、弾かれるように席を立ち、振り返る事もなく店を飛び出していった。



 家に帰りついたのは、すでに時刻は八時を回った頃だった。

玄関のドアを開けると、いつになく閑散とした雰囲気が俺を出向かえた。廊下にもリビングにも、人の体温と呼べる気配がまるで感じられない。唯一、ダイニングの白熱灯だけが、暖色の灯りをぼんやりと廊下に漏らしている。

ダイニングでは、すでにテーブルについた母さんが、深くうなだれながら、悪魔祓いの呪文のように、同じ言葉を口の中で反芻させていた。

「私のせいよ……私のせい、私のせいで……」

「ただいま」

母さんの祈りを邪魔せぬよう、そっと声をかける。すると母さんは、まるで弾かれたバネのようにようにハッと顔を上げた。白熱灯の光に浮かび上がったその顔は、亡霊か般若の面を思わせる不気味な表情を浮かべていた。

虚ろな瞳が、俺をまっすぐ捉えて離さない。けれども俺はどうしても、その眼差しから目をそらす事ができなかった。

得体の知れない何かに足が竦み、逃げる事すらままならない。

「―――浩二」

 不意に、母さんは口を開いた。

「な、なに?」

「キッチンに肉じゃがを作ってあるから、温めて食べて」

「え……う、うん」

言われた通り、キッチンへ行き、鍋から食べる分だけの肉じゃがを小皿に取り分け、レンジで温める。白飯と共に、それを箸で黙々とついばむ。時々顔を上げ、母さんを見る。母さんは、相変らず虚ろな目で、じっと俺の手元を見つめている。

 そこで俺は、ふと自分が「いただきます」を口にしていなかった事に気がついた。

「あ、ごめん、いただきます」

 挨拶にうるさいはずの母さんは、俺の非礼を咎める事なく、ぽつりと訊ねた。

「おいしい?」

「う……うん」

美味しい、というか、いつもと同じ味。

「そう、よかった」

引き続き黙々と肉じゃがを片付けていると、またしても母さんは切り出した。

「お母さん、間違ってたのかしら」

顔を上げる。相変らず母さんは、ぼんやりとテーブルの天板を見つめている。

「何が?」

「間違ってたのよね。だから光一は、自殺を図ったのよね」

「……さぁ」

「ねぇ、そうでしょう? あなたも本当は、そう思っているのよね?」

「別に、思ってなんかないよ」

「思ってるんでしょう? お母さんの教育が間違っていたとか、躾が間違っていたとか、育て方が間違っていたとか……」

「誰も、そんな事、一言も言ってないじゃないか」

「いいえ、でも、あなたは思っているのよ。だってあなた、お母さんの事が嫌いなんでしょう?」

「そんな事、訊いてどうすんだよ」

「言いなさいよ!」

思いがけず鋭い声に、俺は思わず身を竦めた。

 母さんはさらに詰問を続けた。だが、その目はやはり虚無を湛えている。

「本当は思ってるんでしょう? 光一の自殺未遂は、私の育て方のせいなんだって! ねぇ、誤魔化してもムダなのよ! 言いなさい! 言いなさいよ!」

「だから、そんなこと思ってるわけねーっってんだろうがよ!」

 俺も負けじと吼えた。何か―――おぞましい何かが、俺の眼前に迫っている。こいつを弾き返さなければ、俺もまた、母さんと同じ、虚無の深淵に叩き落される。―――そんな恐怖が、俺の声を、知らず知らずのうちに荒げさせていた。

 すると、母さんはふっと激昂を止めた。それが、俺に気圧されたためではない事は、相変らず幽霊のようなその表情から一目瞭然だった。

「……そう。あんた、また親に嘘つくのね」

ふと母さんは、糸に釣られた人形のように、すくっと椅子から立ち上がると、音もなくテーブルを周り、俺の席に歩み寄った。不穏な気配に、俺もまた椅子から腰を浮かせ、母さんの次の動きに身構える。

「どうして、逃げるの……?」

「わ、わからない。つーか、まずは母さんが席に戻れよ」

「知ってるわよ。あんた、私の事が嫌いだから逃げてるんでしょ? 私さえいなければ、光一は自殺未遂なんか図らずに済んだ、そう思ってるんでしょ?」

「だから、思ってないって何度も……」

「答えなさい!」

 その刹那。

母さんはその細い腕を伸ばし、鉤爪のような指で俺の首筋に掴みかかってきた。女の力とは思えない握力がギリギリと喉元を締め上げ、か細い指が、みるみる皮膚に食い込んでくる。

「や、やめ……」

出ない声をどうにか絞り出す。痛く、そして苦しかった。が、それ以上に、俺は悲しくて仕方がなかった。どうして母さんは、俺の言葉を信じてくれないんだ? どうして母さんは、それほど執拗に自分自身を傷つける……?

「かあさん……や、やめ……」

俺の懇願に、しかし母さんは、なおも変わらぬ虚ろな瞳と声で答えた。この間も、母さんの握力は刻一刻と増してゆく。

「本当のことを、いいなさい。家族でしょう?」

「おもって、ない……ない」

「いいなさい! 家族なのに、どうして? どうしてあんたは、そう隠し事ばかり!」

「こ、これが、か、かぞくな、わけ……」

その時、俺はようやく、母さんの手を引き剥がす事に成功した。と同時に、母さんのみぞおちを力一杯蹴り飛ばす。俺の一蹴を食らった母さんは、壊れたマネキンのように、いともあっさりとフローリングに転がった。

「ごぼっ、ごほ……」

濁った咳を吐きつつも、俺はどうにか息を整えるべく努めた。一方の母さんは、立ち上がる様子も見せず、フローリングに小さくうずくまり、全身を小刻みに震わせ始めている。

 やがて母さんは、人のものとは思えぬ声で、むせび泣き始めた。

「あああああああっ! あたしのせいよ! 全部、ぜんぶあたしのせいよぉぉぉっ!」

「か、母さん……」

「ぜんぶ、全部間違ってたのぉぉ! うおぁああああああああっ!」

 その声は、リビングルームの静寂を、ただただ虚しく切り裂いた。

「母さん、違うんだよ……違うんだ」

 俺は必死に訴えた。だが、俺の声は、そんな母さんの耳に届く事は、ついぞなかった。



 嫌だ。

何もかもが嫌になった。

 コンビニに行って、立ち読みでもしながら時間を潰そう。

 もう、こんな家には居たくない。 

玄関を出ると、夜の深まりと共にいよいよ冷気を増した空気が、一挙に俺の体温を奪い去った。

空を仰ぐ。空気が澄み、晴れてさえいれば星が綺麗に見えるはずの冬の空には、今日に限って星は一つも浮かんでいない。夕刻に、病院の窓から西の空に見た分厚い雲が、時間が経ち、いよいよこの街の上空をも覆い尽くしたものらしい。

俺の背後からは、夕方の病院での口論などすっかり忘れてしまったかのごとく、いつもと変わらぬ調子で死神がついて来る。けれども今の俺は、あいつの言動に腹を立てる気にはどうしてもなれなかった。そうとも、死神は何も間違っちゃいない。

「やだなぁ……雨降りそう」

「だな」

「あたし、冬の雨って嫌いなのよね。冷たいし、それに、ザーッと降る夏の雨と違って、なんか辛気臭いじゃない?」

「だな」

「あーっ、ひどいっ! 浩二ったら、あたしの渾身のボケをスルーしたぁ! そこは、死神が辛気臭いの嫌いってどないやねーん! って、突っ込むトコでしょ? ねぇ?」

「なぁ、死神」

「なによっ」

「お前さ、死神なんだろ?」

「そ、そうよ。何よ、今更」

「まだ、俺を殺さないのか」

 立ち止まり、振り返ると、死神はきょとんと見開いた目で俺を見上げていた。

「どうしたの? 藪から棒に」

「嫌なんだよ。もう、生きてるのが……」

「あれ? 昨日は死にたくないって、」

「あんなの……どうかしてた。―――忘れてたんだよ。恋愛だとか夢だとか目標だとか、いかにも楽しげなイベントに目くらまし食らってさ、見失っていたんだ、本質ってやつを―――どんなに頑張って生きても……何かを信じても……何も報われない。何も……」

「あ、雨だ」

「だって、そうだろ? 努力は報われない。信じれば裏切られる。親父は……何十年も会社のために休みなく働いてきた親父は、結局あっさりクビを切られちまって、今じゃ、リンゴ一つロクに剥けやしない、ただの役立たずさ。 ―――母さんは……ははっ。今まで散々、自分の正論を俺らに押し付けて疑わなかったくせして、今になって、全部間違ってた、だと。何言ってんだよマジで。目茶苦茶じゃねーか、もう……」

「早くコンビニ行こ? ひどくなるよ、この雨」

「兄貴は……兄貴は、俺にとって、この世でたった一人の目標だった。ほんとに、心の底から憧れてたんだ。頭が良くて、優しくて、そのくせ、ちっとも鼻にかけなくて―――俺の理想そのものだった。憧れてたんだ、ほんとに……。その兄貴が、自分で自分を消そうとするってどういう事だよ? え? ……って事は、俺が憧れてた兄貴は、ただの作り物、虚像だったって事かよ? ふっざけんなよ! どういう裏切りだよソレ!」

「ねぇ、浩二ぃ」

「……殺せ」

「ほえ?」

「早く殺せよ! お前、俺の死神なんだろ!? 仕事もしねぇでいつまでもヘラヘラ笑ってんじゃねーよ! 俺はもううんざりなんだよ! そもそもお前があの時、俺を助けてさえいなけりゃ、こんな胸糞の悪いモン見ずに済んでたんだよ! ……見たくなかった。親父や母さんの、それに兄貴の、あんな……あんな情けない姿なんか」

「いいよ」

「?」

思いがけない返答に、俺は振り返った。

そして、俺の目に映ったもの。

「―――え?」

それは、死神の手に握られた、一振りの巨大な鎌だった。

ともすれば死神の身長よりもなお長い、三日月のように緩やかな反りを見せるその銀の刃は、二メートルほどの長い柄によって、夜空に高々と掲げられていた。

折りしも、季節はずれの大雨がアスファルトを急速に濡らし始めていた。が、厚い雨幕の中にあってもなお、その鎌は、鮮明な一条の輝きを闇の中に保ち続けていた。

「やっぱ、持ってたんだ……鎌」

「うん。重いから、普段は“あっち”の世界に置いてあるの。こうして、人間を殺す時だけ、“あっち”から呼び出すんだよ」

“あっち”とは、あの世を意味する言葉なのだろうか? それとも、四次元空間のような未知の世界? 

よくわからない。わからないが、とにかく―――綺麗だ。

「綺麗でしょ」

「ああ」

俺が頷くと、死神は、いつもと変わらない無邪気な笑みを浮かべて見せた。

「そいつで、俺を?」

「そ」

「……痛いか?」

刹那、俺の耳元を、銀色の軌跡が切り裂いた。

と同時に、路傍に立てられた標識のポールが、中ほどで袈裟に切られ、音もなく摺り落ちる。

駐車禁止を示す丸い看板がアスファルトの路面に転がり、ガランガランと思いがけず大きな音を立てるも、その音は俄かに強まり始めた雨音に、すぐさま掻き消されてしまった。

一方の死神は、今し方振り下ろした鎌を、まるでマーチングの旗使いのようにくるりと繰りながら、再び頭上に高く掲げた。

「あたし、これでも殺しの腕は確かなの。痛覚が脳に届く頃には死んでるから、心配しないで♪」

得意気な口ぶりと共に、死神は、親指を立てた拳を派手に突き出してみせた。

よくよく見ると、彼女の頬や髪の毛には、散々浴びているはずの雨粒が一粒も伝っていない。無理もないか。だってお前は、死神なんだから。

「つまり、楽に死ねるって事か」

「そ」

「そうか。それ聞いて安心した。俺、痛いの嫌いだし」

「うん、知ってる」

死神は頷くと、銀鎌を漆黒の夜空へといやましに高く突き上げた。

恐らく、次の一振りで、俺を一瞬にして肉塊へと変えてくれるのだろう。

「最後に一つ、訊いていいか?」

「なに?」

「どうして今回は、俺を殺す気になったんだ?」

俺の問いに、死神はケロリと答えた。

「そんなの決まってんじゃん。気分よ。き、ぶ、ん♪」

「気分?」

「そ。あたしは浩二の死そのものなんだもん。死が気まぐれで人間を殺すのは、自然の摂理、そうでしょ?」

「自然の摂理―――そう。そうだな」

なんだ。

いくら思い悩んだり、迷いあぐねたところで、結局、こんな貧乳のチビに気分で殺される軽い存在だったわけだ、俺は。

「……わかった。もういいよ」

「うん。痛くしないから、安心してね」

「ああ。任せた」

そして死神は、いよいよ俺の首元めがけ、その大鎌を一気に振り下ろした。

銀の光が、鋭利な軌道を虚空に描く。

やっと、楽になれる―――


   しにたくない


カァーー……ン!

星のない夜空に、鋭く硬質な音が響いた。

「あれ?」

同時に死神が、ガーネットの目を見開き、素っ頓狂な声を上げる。

「―――え?」

俺、生きてる?

目を落とすと、足元のアスファルトに、巨大な鎌の先端が深々と突き刺さっていた。

何故? まさか外した、とか?

「な、なん……で?」

途端、俺の全身が、小刻みな震えを訴え始めた。体中の血管という血管が、その位置をはっきりと感ぜられるかのごとく脈打つ。加えて、顎までもが激しく震え、上下の歯がうまく噛み合わない。

どうして、息が……こんなに上がっているんだ?

「ねぇ、浩二」

「なな、なんだ」

「避けちゃダメだよ。うまく切れないでしょ? それとも、中途半端に切られて、痛い思いしたいの?」

は? 避けた? 俺が?

「じっとしてた方が、苦しまずに死ねるんだから。動かないでよぉ」

「う、うう動いた?」

「気付いてないの? 避けたでしょ? 今」

「そ、そんなはず、俺が避けたなんて―――」

ヒュ。

耳元を、鋭い風切り音が再び掠める。

と共に、俺の身体は無意識に身をよじっていた。

つい今し方まで俺の半身が占めていた空間を、一寸遅れで銀の軌跡が薙ぎ、同時に、アスファルトを穿つ硬質な音が夜空に響き渡る。

大鎌を軽やかに頭上へ戻しながら、死神はなおもぶちた。

「ほらぁ。やっぱ避けてる」

「……な、なんで?」

気が付くと俺は、踵を返し、雨に濡れたアスファルトを強く蹴り出していた。

心臓が早鐘を打つ。耳の後ろがジンジンと熱い。

―――俺が、死を拒んでいる!?

背後から、死神の声が追いすがる。

「ねぇ浩二ぃ、なんで逃げるの?」

「し……知るかぁ!」

ああ、知るもんか。だが、現に俺は逃げている。死神から逃げている!

 あんなに、生きる事にうんざりしていた俺が、今更、死神の鎌を避けている? せっかく楽に死ねるチャンスが、目の前に転がってるってのに!

 どうして―――どうして?

「助けてくれぇええ!」

 助けて? どうして、助けを求めるんだ? 死ぬんじゃなかったのかよ? 俺!

「助けてェ、誰か、助けてェェえ!」

一体、誰に助けてもらおうってんだよ?

 親父? 母さん? 兄貴?

鮎川?

「嫌だぁぁ! 死にたくない、死にたくないぃぃ!」

 何なんだよ、俺は! この期に及んで、死にたくないとか、助けてくれだとか……

 カッコ悪い。

 マジでカッコ悪い―――。

「そうだよ、今のあんた、すっごくカッコ悪い!」

背後で、なおも死神が声を荒げる。

「死にたいとか、人生に意味なんてない、だとか、今まで散々したり顔で嘯いちゃってさ。

それが、いざ死ぬ段になって、やっぱり死にたくないだなんて、そんな都合のいい理屈、通らないんだから!」

「うるせぇえ! んな事知るか! お、俺は、」

 ヒュッ。

「それでも・・・それでも生きるんだぁああっ!」

カァーーーーンン!

 またしても、アスファルトに鎌の先端が突き刺さる。

 同時に、右の二の腕に、焼けるような熱が宿る。

 見ると、コートの袖が、下に重ねた学ランも含め、繊維の一本まで綺麗に寸断されていた。さらに、その切れ目の奥には、うっすらと赤いものが滲み始めている。

 それは紛れもなく、俺自身が流した血に他ならなかった。

痛い……それに熱い。

けれど―――これが、これこそが生きているということ。

 生きている、俺はまだ、生きている。

「どうして?」

死神が叫ぶ。

どうして?

決まってる。

俺には、迎えたい明日がある!

今すぐ、という訳にはいかないかもしれない。けれど、いつかまた、親父と母さんと、そして兄貴と過ごす家族の時間を、取り戻す事ができたら。

―――いや、取り戻すんだ。俺が、この手で。

もう、親父の背中にも、母さんの言葉にも、兄貴の影にもすがらない。

 俺は、俺自身の手で、みんなの明日を―――

 摑み取ってやる!



それからの俺は、とにかくでたらめに走り続けた。

角という角を曲がり、抜け道があれば必ず抜け……幾度となく不吉な風切り音が耳元を掠める中、それでも俺は、振り返る事なくひたすら走り続けた。

―――だが、運命はついに、無情な結末を俺に突きつけた。

俺が逃げ込んだ先、そこは、新興住宅地の道路にはありがちな、小さな袋小路だった。

突き当たりにはガードレールが敷設されており、その向こうでは、先程からの大雨で俄かに増水した川が、闇の底で不気味な轟音を立てている。

いよいよ、死神の鎌を逃れるには、この濁流に飛び込むより他に方法はない。

様々な不安が脳裏を掠める。飛び込んだはいいものの、結局溺れてしまったら……。

いや、その前に、泳げるのか? こんな濁流の中を。おまけに今は夏ではない。酷寒の十二月、真冬の只中だ。

「浩二君♪」

振り返ると、すでに死神は、あと数歩で鎌のリーチに俺を捉える距離まで迫っていた。

薄暗い街灯に浮かぶその顔は、やはり、いつもと変わらぬ無邪気な笑顔。

その、狂気のカケラも見えない無邪気な笑みは、むしろ見る者に、より深い狂気を感じさせずにはいられない。

やはり、こいつはどこまでも、人間とは決して相容れる事のない、異質な存在なのだ。

「そろそろ観念した方が身のためだよ。溺死の方が、うんと辛いんだから」

 やっぱり。川に逃げる企みも、すでにお見通しってワケか。

「そ。あんたの考えなんて全部お見通し。だから何度も言ってるじゃない、あたしはあんたの死神なんだからって」

言いながら、死神はその証である銀の鎌を、大上段に構え直した。

「最後になっちゃったけどさ、あんたと一緒に過ごした十六年間は、はっきり言って、ほんとにツマンナイ時間だった。毎日が退屈で退屈で。正直、なんでこんなヤツに取り付いちゃったんだろうって、後悔しない日はなかったわ」

「な、なんだよ、勝手に話を締めくくってんじゃねーよ」

「だから、最後にこうして、浩二と話が出来るなんて思ってもみなかった。実はね、あたし達死神にとって、人間と会話できる機会なんて、千年に一度、出会えるか出会えないか、それぐらい貴重なのね」

「そりゃ、よ、良かったな……」

「そうしたら、意外に面白いヤツだって事がわかって。ああ、人間って面白いんだなって、あんたのお陰で初めて知ることができたの」

「あ……そう、だったら、」

「だからあたし、少なくとも千年は、浩二の事、忘れない」

 すでに思い出と化したかのような物言い。やはり、見逃すつもりはないという事か。

「あんたは嘘だって思うかもしれないけど、あたし、これでもあんたの事、結構気に入ってたんだから。世話は焼けるけど、意外と良いヤツだし、それに、よぉぉーく見ると、結構男前だしさ。お兄さんに似て」

 後退りを続けていた背中が、ついにガードレールを捉える。

 もはや、これまでか。

「だから、本当は、もう少しあんたと一緒に過ごしたかったんだけど――――残念」

 死神の瞳が、俄かに捕食者の残忍さを帯びる。

「じゃあね」

 その瞬間、目の前に、銀の軌道が舞い降りた。

「……っ!」

 迫り来る死の恐怖に、たまらず俺は瞼を閉じ―――


 それは、思いがけない感触だった。

 冷ややかな、それでいて柔らかな“何か”が、突如、俺の唇を包んだのだった。

 雨ではない。もっと、有機的で、優しい“何か”が。

「―――?」

 そっと瞼を開き、“何か”の正体を確かめる。すると―――。

 そこには、満面の、それでいて、どこか寂しげな色を浮かべた、死神の笑顔があった。

 次の瞬間。

 俺は、死神の腕に突き飛ばされ、後ろ様にガードレールへ乗り上げると、そのままバランスを崩し、足元の川へと真っ逆様に放り込まれてしまった。

川面へ飲まれる間際、ガードレールから身を乗り出した死神が、俺に向けて、何か言葉を口にした、ように見えた。

だが、轟音に掻き消されたその言葉を、俺は、ついぞ推し量る事はできなかった。

気付いた時には、すでに俺の視界は完全に濁流の中へと飲み込まれていた。


苦しかった。どうしようもなく苦しかった。

足掻いても足掻いても、この暗闇の中では、浮かんでいるのか、沈んでいるのかさえ把握するのもままならない。

一つ、確かな事といえば、俺がまだ生きている、という事実、それだけだった。

頭が水面に引きずり込まれるたび、泥水を飲んでは酷い臭いに吐き気を催した。

実際、何度も吐いた。

その間も、冷酷な水温が確実に俺の体温を奪ってゆく。指先や顔のみならず、全身から、感覚という感覚が消えうせてゆく。

そんな中、俺はひたすら足掻き続けた。

もがく事をやめた時、濁流の奥に潜む死が、いよいよその昏く深い口を開き、俺を呑み込みにかかるのだと、理性ではなく身体が訴えていた。

だから俺は、ひたすら足掻いた。

生きるために。まだ見ぬ明日を手にするために。


気が付くと俺は、浅瀬となった流れの中程、水面から大きく突き出た岩間に、引っかかるように身を打ち上げていた。

もはや体温はないに等しく、流れに浸かったままの下半身からは、辛うじて残った生気さえも、刻一刻と奪われつつあった。

このままでは、確実に凍死してしまう。

俺は、僅かに残った気力と体力を総動員し、浅瀬の中を、川岸の草むらへと這い進んだ。

 身体のあちこちが、ひどい痛みを訴えている。とりわけ、右腕の切り傷の痛みが酷い。

 あれ? この傷……?

それは、どう見ても、木の枝や岩の角に引っ掛かって切れたものとは違う。まるで、恐ろしく鋭い刃物で切りつけられたかのような切り傷だった。

 そもそも、俺はどうして川に流れていたのだろう。冬の只中の十二月に、コート着用のまま、こんな濁流で水泳に興じる趣味は、俺にはない。

 自殺を図った……? 俺が? まさか。

 家族を、それに、鮎川との約束を守らなきゃならない俺が、そんな無責任な行為に、軽々に及ぶはずがない。

やがて、ようやっと岸辺に辿り着いた俺は、やわらかな草が生い茂る草地に、疲れた身体をごろりと横たえた。

指先を見ると、いずれの指も皮がひどく擦り剥け、その爪は無残に割れている。

墨を流したような空からは、なおも冷たい雨が石つぶてのように降り注ぎ、仰向けに空を仰ぐ俺の顔を容赦なく叩いた。

「いきてる……」

 不意に、白い息と共に、言葉が漏れた。

「おれ、いきてる……いきてる」

「岡崎君!」

その時、ふと遠く闇の中から、俺を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

声の方に顔を向けると、草っ原に覆われた土手の上に、傘を差した見覚えのある人影が、こちらを見下ろしつつぽつんと立ち尽くす姿が見えた。

「あ……鮎川?」

 それは、まぎれもない、鮎川の姿に他ならなかった。

鮎川は、すぐさま土手を駆け下り、河川敷へ飛び降りると、雨で濡れる草地に何度も足を滑らせつつ、一目散に俺の所へと駆け寄ってきた。

やがて鮎川は、雨でタイツが濡れるのも構わず俺の傍らに膝を付くと、ずぶぬれの俺の体を、そっと抱き起こしながら言った。

「岡崎君・・・どうして、こんな所に……?」

「お前こそ、なんで・・・?」

「探してたの。岡崎君のこと」

「え? ・・・探してた?」

 鮎川は、こくりと小さく頷いた。

「さっきの事、謝ろうと思って、メールを送ろうと思ったんだけど……でも、何て打てばいいかわからなくて、それで直接謝りたくて、家に行ったの……でも、お母さんは、岡崎君は出かけたって。だから……」

そこで鮎川は、ぐっと言葉を詰まらせると、今度は言葉の代わりに、その黒い瞳から、ぼろぼろと大粒の涙を零し始めた。

「ど、どうしたんだよ」

「ごめんなさい……私が、もっと岡崎君の事をわかってあげてたら……岡崎君のお家が、大変な事になってるって知っていたら……ごめん、ごめんね」

 鮎川の流す涙の粒が、俺の頬に次々と降り注ぐ。その温かな涙が俺の頬を濡らすたび、俺は、からっぽだった俺の中に、優しい何かが満ちてゆくのを感じた。

「……俺の方こそ、ごめん」

「え?」

 俺の言葉に、鮎川の黒い瞳が軽く見開いた。

「俺、お前のこと・・・裏切ろうとした」

「大学の事? そんなの、もう、どうでも……」

「違う。それもあるけど・・・それだけじゃない」

 轟音と共に闇の底を這う濁流に、ふと目を遣る。

 やっぱり、俺は自ら川に身を投げたのかもしれない。今となっては、はっきりとは思い出せないのだけど。

「なぁ、鮎川」

「な、なに?」

「俺、生きてるか?」

「え?」

「生きてるのかな?」

「……う、うん」

「そうか。生きてるんだな」

「うん。生きてる。岡崎君、生きてるよ」

「そう、か」

「どうしたの?」

「いや……ただ」

「ただ?」

「嬉しいんだ……そんな、どうでもいい事が、ものすごく……」

なおも目に涙を浮べたまま、鮎川はきょとんと目を見開いた。その端正な顔が、次第にはっきりとした輪郭を失うに従い、それまで俺の身体を引き裂いていた痛みも、そして寒ささえも、何もかもがうすぼんやりとした闇の中に溶け、そして静かに消えていった。


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