五章
すでに日付は、十一月も半ばを過ぎようとしていた。
窓の外では、肌を刺す寒風が鋭く吹きすさび、教室の暖房使用許可が下りるのを、クラスの誰もが今日か明日かと待ちわびる日々が続いている。
鮎川からのコピーの差し入れは、今もなお続いていた。ただし、その差し入れ方法には、以前に比べ、大きな違いが生じていた。
「これ……先週の分です」
「あ、ありがとう」
「読みにくい文字があったら、いつでも言って下さい」
「あ……あのさ、前から訊きたかったんだけど」
「は、はい」
「なんで、直接渡すんだ?」
「え?」
「べ、別にその、最初の頃と同じように、引き出しに入れておいてくれたらいいんだけど」
「なんで、って……」
鮎川が口ごもった、その時だった。
「あーゆ!」
教室の外から、クラスメイトの女子が鮎川を呼んだ。呼びかけに応じ、振り返った鮎川は、しばし俺とそのクラスメイトを見比べた後、結局、何も答えないまま、教室の外へと駆け出して行った。
「なーに? メグちゃん?」
「一緒にお弁当食べようよ」
「あ、うん」
「何してたの?」
「え、うん、ちょっと」
会話を交わしつつ、二人の女子は廊下の向こうへと消えて行った。
ほどなく、俺の背後で野郎連中がさざめき始める。
「鮎川、マジ変わったよな」
「くそ、あれならもっと早く目ぇつけときゃよかった」
「ってかさ、岡崎と付き合ってるって話、あれ、ウソらしいぜ」
「じゃあさっきのアレは何なんだ」
「さぁ、鮎川ってホラ、クラス委員だし」
「ああそうか、大変だよなぁ鮎川も。あんな面倒くせぇ仕事やらされて」
「じゃ、オレ鮎川に付き合ってくれって言っちゃおうかな」
いずれも、つい一ヶ月ほど前まで、鮎川の事をゲテモノだのBマニア専用だのと上げつらっていた連中である。それが、何を今更、勝手な事を。
とはいえ、鮎川の変身には、クラスの誰もが度肝を抜かれたのも事実だった。
そんな突然のモデルチェンジから早一ヶ月、すでに鮎川は、クラス中の人気を集める存在となっていた。
元々、性格は良い方だった。優しく、そして誠実で、密かにクラスでの人望は厚かった。彼女は、元より人気を得る要素を充分に備えていたのだ。
ただ、これまでは例の野暮な見た目が、その素養を台無しにさせていた。迂闊に野暮な人間とつるめば、下手をすると自分までもが野暮と見なされてしまう。そんな、学校社会の残酷な階級制度において、鮎川と交友関係を結ぶ事は、わざわざボロ布を羽織い、最下層カーストに身を落とす錯乱行為そのものだったのだ。
それが今や、周囲の人間も、憚りなく彼女と接する事ができる。女子はもちろん、男も、そうだ。
風の噂によると、すでに何人もの男が、禁猟区を解かれた狩人よろしく、鮎川に男女の付き合いを申し出たそうだ。が、連中の策はことごとく失敗に終わったとの事。
当たり前だ。これまで散々、丸太妖怪だのジャミラ―――いや、これは俺が喩えたのか―――だのと呼んでおいて、あいつが可愛くなった途端、手のひらを返したように声を掛けたところで、並みの神経を持った人間ならフるに決まっている。
つーか、目を覚ませよおまいら。相手はあの鮎川だぜ? 元々が、あのジャミラ女だぜ? あんな女が、付け焼刃で可愛く装ったところで、それが何だってんだ。
どいつもこいつも、馬鹿みたいに浮かれやがって。
「嘘ばっかり!」
屋上で、女子向けファッション雑誌を眺めながら、死神が、ふとぼやいた。
「何が」
購買部で仕入れたヤキソバパンを頬張りつつ俺は返す。鮎川と違い、今日も今日とて俺は一人で飯を食っている。少しずつ授業の中身が分かり始めたという点以外、俺の学校生活に、以前と変わるところは何一つない。
「本当はあんただって、鮎川ちゃんの事、好きなくせに」
死神は、なおも雑誌の写真を見つめたまま続けた。
「はぁ? 適当な事を言ってんじゃねーよ」
「適当じゃないもーん。本当の事だもん。あたし知ってるもん」
「ったく、何を言い出すかと思えば。俺が、鮎川を?」
スイーツの恋愛記事でも読みすぎて、頭でも沸いちまったのだろうか。
「どうして素直に事実を認めないかなぁ?」
「バカ言ってんじゃねーよ、誰があんなネクラのブス、好きになるかよ」
「今はネクラでもブスでもないじゃん」
「ふん。ただ髪切ってメガネ外したってだけで、ブスが直るわけないだろ?」
会話の中身が馬鹿馬鹿しくなった俺は、教室から持参した英語のノートを広げ、五限目の授業で読む英文の和訳の確認を始めた。
と、その時だ。突如背後から、俺の首に白く細い腕が回されたかと思うと、思いもよらない剛力によって、首を締め上げられた。
「本当の事を吐け! 吐かなきゃぶっ殺すよ!」
耳元で、死神が喚く。
「うげげげげげ! ちょ、入ってる、マジ入ってるって!」
たまらず俺は、死神の腕をタップする。
「殺す気か!」
「死神が人を殺して何が悪いのさ!」
や、やばい、このままじゃあマジで殺される! ここは嘘でも―――。
「うげげぇ、わかったわかった、好きだ! 好きだから離してくれぇ!」
「誰を、どんな風に好きなんだ、はっきり言えぇ!」
「鮎川が好きだ! 大好きだ! 一瞬も忘れられないぐらい好きだ! 机に座っていても、マンガを読んでいても、こうやって屋上でメシを食ってても……つい思い出してしまうぐらい好きだ。苦しくて、声を聞きたくて、早く授業時間になってほしい……早く会いたい、会いたくて……それぐらい好きだ!」
「よしっ! よく言った!」
納得したのか、ようやく死神は首の縛めを解いた。どうやら俺の嘘を、素直にも信じてくれたものらしい。
嘘―――そう。嘘だ。嘘に決まっている。俺が、あんな気持ち悪い寸胴女を、好きになるはずがないんだ。
その日の放課後、俺は先日の模擬テストの件で、突如、谷垣に職員室への呼び出しを食らった。
「いやぁ、驚いたよ、岡崎君」
安物の事務用椅子に背中を預けた谷垣は、手元に広げた判定表を眺めながら、弾んだ声色で言った。
「まさか、こんな短期間にこれだけ成績を上げるなんてねぇ」
「はぁ、どうも」
「鮎川さんに、感謝しないとねぇ」
「へ?」
谷垣の口から思いがけない名前が飛び出し、俺は、心臓が一瞬どきりと大きく脈打つのを感じた。意図しない上擦った声が、口から漏れ出る。
「ど、どうして鮎川が……?」
「彼女ねぇ、随分と悩んでいたんだよ。どうすれば、君を授業に呼び戻す事ができるかとねぇ。クラス委員として、何としても君を授業に連れ戻したいってね。それで僕が、ノートのコピーを君に渡してはどうだろうって、彼女に提案したんだ」
「え? じゃあ、あれは先生の……?」
「そうだよ。いやぁ、僕が提案した方法が、ここまで当たるとは思っていなかったけどねぇ。うん、僕の提案がねぇ。うん」
しつこいほど“僕の提案”をアピールしながら、谷垣は、生え際の後退した前髪を、ぐいと後ろになでつけた。
「って事はその……やっぱり、鮎川はただ、単にクラス委員として……」
「そうだよ。責任感が強いからねぇ、あの子は」
その夜、死神は、俺の部屋でカラカラと耳障りな笑い声を上げつつ言った。
「残念だったねぇ。ただの責任感だって。あんた、鮎川ちゃんから男として見られてなかったんだねぇ、ああ残念」
「う、うるせぇ! だから何だってんだよ! あんな奴に男扱いされなくても、ちっとも構いゃしねーよ! ……くそ、鮎川のくせに」
ぐりぐりぐり。なんとはなしに、シャーペンの軸をノートに走らせる。
目の前のノートには、自分でも意味の理解できない謎の魔法陣が形成されつつある。一体何の魔法を発動させるつもりなのか、自分でもよくわからない。先程から俺は、延々と同じ積分の問題に取り組んでいるわけだが、一向に式の展開を進める事が出来ずにいる。一方で、魔法陣の方は、時間を追うごとにその面妖さを増してゆく。
「あはははは! いやぁ、失恋直後の人間ほど、見ていて愉快な見世物もないねぇ」
ちくり。
「な、なんで俺が、失恋した事なっちまってんだよ!」
「でも、本当は期待していたんでしょ? 鮎川ちゃんが、自分の事を好きでコピーを渡していたんじゃないかって」
ちくり。またしても、何かが俺の胸に刺さる。
「んなワケないだろ! 知ってたよ! どうせクラス委員の仕事なんだってな! あんまり勝手な事言うと、襲うぞ、マジで!」
振り返りつつ怒鳴ると、死神は挑発するような目で言った。
「へぇ、あたしは構わないよ?」
「は?」
「どう? 死神でもよければ」
言いながら、死神は短いワンピースの裾をすすすと上げ始めた。と共に、陶器のような足が次第に露わになってゆく。
「ふ、ふふ、ふざけるな!」
机に向き直り、死神の白い足を視界から締め出す。
「バーカ! 冗談を真に受けてやんの!」
またしても死神は、俺の背後でカラカラと笑った。
「くそっ、……だと思ったよ!」
どうも先程から虫の居所が悪い。俺は、気分転換のためにコーヒーを飲むべく死神を差し置くと、一人、階下へと降りた。
時刻はすでに夜中の一時を回っていた。ダイニングの扉から漏れた白熱灯の光が、暗い廊下に金色の一本線を細く長く引いている。ダイニングに入ると、そこに立っていたのは、スゥエット姿の兄貴だった。風呂から上がったばかりなのだろう。微かに石鹸の匂いがする。
「いつ帰ったんだ?」
兄貴は、戸棚の隅から白い紙袋を取り出しつつ答えた。
「あ……うん、さっき」
「へぇ、今日も忙しかったんだ」
「まぁ、ね。近く新企画のプレゼンを控えていて、その準備で追われてるんだ」
「ふぅん」
見ると、その顔はひどくやつれているようだった。眼鏡越しにも、目の下に浮き出た隈がはっきりと見て取れる。
「そういえば、浩二」
「何?」
「最近、頑張っているみたいだね。母さんから聞いたよ。成績も、随分と上がったって」
正直、今は、その件にはあまり触れて欲しくない。
「ま、まぁ」
適当に茶を濁す。すると兄貴は、
「コピーをくれた子に感謝しないとね」
「――――えっ」
と、俺の牽制のサインに気付きもしないまま、ストライクゾーンのど真ん中に、亜音速のストレートを投げ込んだ。
「な……な、なんで、兄貴がコピーの事を?」
「なんで、って……。随分前、ノートと一緒に僕の所へ持って来ただろう?」
「え……? あっ!」
そういえば、以前、三角関数の問題を訊いた際、自分のノートと共に、兄貴に見せてしまったような。
「その時にコピーを見て、随分といいノートだなって思ったんだよ。―――ひょっとして、浩二の彼女かい?」
「ちげぇーよ! ぜんっぜん違ぇ!」
ははは、と兄貴は軽く笑い飛ばした。
「ところで、ちゃんとお礼はしておいたかい?」
「いいんだよ。どうせあいつ、クラス委員だから、役目で仕方なくやってただけなんだ。ほ、本当は、俺の事なんかどうでもよくて……」
「あれ? 拗ねてるのかい?」
「何で俺が拗ねるんだよ! ったく、どいつもこいつも……」
「まぁ、なんにせよ、お礼はきちんとしておいた方がいいよ。相手が委員としての役目を果たすためにやってくれていたのなら、なおのこと、だよ」
「……わ、わかったよ」
菩薩の笑みを浮かべた兄貴によって、散々傷に粗塩を塗り込まれた俺は、もはや立っているのがやっとの体で答えた。
一方の兄貴は、手元の紙袋から銀色のプレートを取り出すと、白い粒をポロポロと取り出し、それらを口に放り込んだ。
「なんだよ、その薬」
「ああ、睡眠薬だよ。最近、どうも寝つきが悪くて」
「ふぅん、飲みすぎて自殺とかするんじゃねーぞ」
からかうと、兄貴はこれを笑っていなした。
「ハハハ……さぁね」
翌日の夕方。
俺は、クラスの女子数人と共に教室を出て行く鮎川の背中を、苦々しい気分で見送った。
―――お礼をしなきゃ駄目だよ。
昨夜の兄貴の言葉が脳裏に浮かぶ。
馬鹿な。相手はあの鮎川だぜ? つい一ヶ月前まで、友達なんか誰もいなくて、教室の隅で背中を丸めている事しかできない、ただのネクラなメガネ女だったってのに……。
「ねぇ、お礼言わなきゃヤバくない?」
机に腰掛けた死神は、自分の爪を適当に弄りながら、気のない様子でつぶやいた。
「はぁ? いらねーよ、あんな奴に……」
窓の外へ目を向ける。ガラス一枚を隔てた向こうには、見るだに寒々しい、白く濁った冬空が広がっている。
「いくじなし」
またしても、死神はぼそりと呟いた。
鮎川の事なんか、もう、どうでもいい。どうせあいつは、仕事のために仕方なく俺にコピーを渡していたに過ぎないんだ。
帰り支度をまとめ、鞄をさらい、教室を出る。
ところが、昇降口へ向かう渡り廊下で俺は、思いがけない場面に遭遇する羽目となった。
あの鮎川が、先程の女子数人と共に、一人の男を囲んで立ち話に興じていたのだ。
学年ごとに違う色の使用が定められた上履きの色から判断するに、男は間違いなく三年生だ。着崩した制服に、色を抜いた髪。有り体な言い方をすると、全体的にチャラい。
傍を過ぎ去りつつ、連中の会話を全身ダンボにして傍受する。そうして聞こえたもの、それは、こんな他愛もない会話文だった。
「なぁ、鮎川ちゃん。次の日曜、俺と二人で街に遊びに行こうぜ」
「え……でも」
渋る鮎川を、周囲の女子がせき立てる。
「えー、行きなよ」
「先輩、ずっとアユの事、気になってたんだって」
どうやら、周囲の女連中が、鮎川と男の仲を取り持とうと図っているらしい。
―――ずっと?
ふざけんな。ここ一ヶ月程度で垢抜けた鮎川を、ずっと前から気になっていた訳がねーだろ。じゃあ何か? あいつがジャミラだった頃から、お前は鮎川の事が好きだったっていうのか? だったら証拠を見せろ! 証拠を!
つーか鮎川も、そんな軽い男のオファーになんか……。
「わかりました」
え?
今、なんつった? 鮎川さん?
「よし、じゃあ、あさって昼十二時に、パルコ前で待ち合わせな!」
「は、はい……」
ちょっと待て! 一体どういう事だ? 今まで、いろんな野郎からの付き合いの申し出を切り捨てて来たんだろ? お前は? どうして今更、そんな奴に?
背後で死神が囁く。
「どうする? 鮎川ちゃん、あの男とデートに行っちゃうよ?」
俺は振り返りもせずに答える。そうとも、意地でも振り返ってやるものか。
「知るか。休日をどう過ごすかなんて、日本国憲法でも保障された個人の自由だ」
そうとも。誰がどこで何をして過ごそうと、俺には関係ない。何一つ関係ないんだ。
そして、次の日曜日がやって来た。
「あんたさぁ」
「何だよ」
「そういうの、逆に目立つし」
傍らの死神が、ジト目でこちらを見つめる。
時刻は午前十一時五〇分を過ぎようとしていた。俺と死神は、繁華街のとあるビルの物陰に身を潜めつつ、華やかなショーウィンドウが並ぶビルの入口をじっと睨み据えていた。
「そうやってコソコソしてたら、余計目立つよ。不審者っぽくて」
「お、お前に言われたかねーよ!」
俺達の視線の先では、紫色のワンピースに白いコートを羽織ったオカッパ女が、日曜独特の賑やかな往来の中で、所在なげにぽつんと佇んでいる。
今まで、誰とのデートも受け付けなかったあいつが、なんで―――?
そして、貴重な休日を割いてまで、こんな物影からコソコソとあいつを覗き見ている俺って……。
「はぁ……何やってるかなぁ、マジで」
あまりの自己嫌悪に思わず溜息をつくと、横の死神がパンと手を叩き、ガーネットの目をキラリと耀かせて言った。
「そうだ! ねぇ、今からあんたが、あの子をデートに連れ出したらどう?」
「む、無理だよ! つか、何で俺が!」
すると死神は、またもジト目で俺を睨んだ。
「……いくじなし」
そして、待ち合わせ時刻に遅れること一〇分。
往来の中から、ようやく相手の男が姿を現した。自分から誘っておいて、随分とフザケた了見だなと、俺の拳が思わず硬くなる。私服だから当然なのだが、男は、学校で見かけた時よりも、随分と派手な出で立ちをしていた。だが、腹立たしい事に、その格好は派手でありつつも決して下品ではなく、服のチョイスには確固たるセンスと理論を感じさせる、いわゆるオシャレな奴の着こなしだった。
男は挨拶を交わすなり、すぐさま鮎川の腰に手を回した。
「うわー。いい感じ」
「う、うう、うるせぇ! なんなんだあの男、受験生のくせに、こんなトコで何やってんだよ! ったく! アホじゃねぇの!?」
「ひょっとして、あの二人、もう付き合っちゃってたりして」
「なっ……そ、そんなわけないだろ!」
「でも、鮎川ちゃんもまんざらじゃないみたい」
「……くそっ、あの尻軽女!」
やがて二人は、仲良く並んでビルの中へと消えて行った。
「追いかけるぞ!」
「はいはーい」
二人は、ビル内のアパレルショップを巡っては、終始、何とも楽しげに服を見て歩いた。やがて、人でごった返すアーケード街へ出ると、雑貨屋やペットショップなんぞを、これまた睦まじげに覗いて回った。
その間、男の手はというと、終始、鮎川の腰に回されたままだった。一方の鮎川も、嫌がる素振りすら見せず、男の手に収まるに任せている。
あっという間に、数時間が過ぎた。
いよいよ俺は、身も心も鉛のような虚脱感に苛まれていった。せっかくの休日に、一体、俺はこんな所で何をやっているんだろう。
やがて、二人は歩き疲れたのだろうか、連れ立ったまま通り沿いのカフェへと入っていった。
「……もう、帰ろうかな」
もはや今の俺に、カフェの中にまで追いすがる程の気力と勇気は、完走後のマラソンランナーのスタミナ程も残ってはいなかった。
「何言ってんの! せっかくここまで頑張ったんだから、あと少し粘ってみなさいよ!」
俺の背後で死神が喚く。
「もういいよ……。あの二人、完全にデキてるじゃねーか。今更俺が出て行って、何になるってんだよ。せいぜい体のいいピエロだろうが」
「なにさ、いくじなし! ほら、弱音はいいからさっさと店に入るよ! あたし、豆乳ココアフラペチーノってやつ飲んでみたい!」
「つーかお前、ぶっちゃけそれが飲みたいだけなんじゃねーの?」
仕方なく、死神たっての願いにより、俺はしぶしぶカフェの入口をくぐった。
自動扉が開くと共に、上品なコーヒーの香りがむわりと鼻をくすぐる。
俺は早速、茶色を基調とした大人びた内装の店内をざっと見渡した。すると。
「おっ、鮎川ちゃん発見っ! 隊長! あちらでマルタイが、イケメン男子と仲良くコーヒーをすすりながら楽しげに語らっているであります!」
俺よりも先に鮎川を見つけたと思しき死神が、やおら嬉しそうな声を上げた。
赤い瞳の視線を追う。すると、まさに視線の先、店の奥に、今まさに楽しげに歓談に耽る男と鮎川の姿があった。紺のビロードが張られた二人がけソファに、リラックスした様子で深々と並んで座る二人の睦まじい様子に、いよいよ俺は、自分が今ここにいる意義を疑い始めるより他なかった。
最悪にヘコみつつ、カウンターにて飲み物を注文する。
「ホットコーヒーのSと、ええと……豆乳ココアフラペチーノってやつを一つ……」
「サイズはいかがなさいますか?」
「え? サイズ?」
「もっちろん、一番大きいやつに決まってんじゃん!」
横から、死神が元気よくメニュー表を指差す。本当に、図々しい奴……。
「い、一番大きいやつで」
「かしこまりました」
注文の品を受け取ると、俺は二人に背を向けるように、窓際のカウンター席に着いた。
「なんで、あっちが見える席を取らないのぉ?」
「ふん。出入り口さえ見えれば、不足はないだろうが」
すると死神は、またもジト目で俺を見つめてきた。
「そんな事言って。本当は見たくないんでしょ、あの二人が仲良くしてるトコ」
「んだとぉ!? もいっぺん言ってみろ! このクソ死神め!」
「わぁ、これ、うんまーい!」
「人の話を聞けぇ!」
死神は、秋も深まりしこのクソ寒い中、氷を砕いた冷たい飲み物をストローでちうちうやりながら、満足げに鼻歌を奏でた。その曲に、俺は確かに聞き覚えがあった。俺が幼稚園の頃、好きでよく歌っていた子供向けアニメの主題歌だ。
「よく知ってるな。そんな古い歌」
「あんたが子供の頃、よく歌ってたじゃない。知らないわけないわよ」
「なんだよ、お前、俺がそんなガキの頃からいたのか?」
「ていうか、あんたが生まれた瞬間からずうっといたし。当然でしょ?」
「当然でしょ? とか言われても」
すると死神は、俺に向き直り、少し改まった口調で語り始めた。
「人間ってのは誰しも、生まれた瞬間から死ぬ事が宿命づけられるワケ。これは解る?」
「そ、そりゃそうだろ、ガキだってわかるぜ、そんな事」
「つまり、あんた達人間は、常に死と一緒に生きてるって事。んで、あたしはあんたの死そのもの。だからあたし、今までもずっとあんたの傍にいたし、これからもずっと一緒にいるの。あんたが死ぬまでね」
「俺が死ぬまで? ……じゃ、例えば寿命で死ぬとしたら、爺さんになるまで、ずっと?」
「そう!」
「事故に遭って死ぬとしたら、死ぬ間際まで?」
「そう!」
「病気に罹ったとしたら、病気で事切れるまで?」
「そう! だ、か、ら、これからも仲良くしよ♪ 浩二♪」
「えー……マジかよ」
「なによ、死にたくないなんてワガママ、許されないんだからね!」
「いや、そうじゃなくて……ええと、俺ってば、これからもずっとお前と、死ぬまでこんな漫才みたいなコトやらなきゃいけないのかよ? 他人から見れば、こうしてお前と話してる俺は、完全に、独り言を垂れ流してるだけのアブナイ電波野郎だし。ぶっちゃけ、その、不便なんだよな。格好悪いし」
すると死神は、こともなげにサラリと言ってのけた。
「まぁ、大丈夫なんじゃない?」
「は? な、何が大丈夫なんだよ?」
死神は、なおもしゃあしゃあと続けた。
「とりあえず、大丈夫なんだって。こういうのは、時が解決してくれるモンなんだから」
時が解決?
つまりそれって、電波であるオレを受け入れろって事なのか? 冗談じゃないっ!
「つか、全然解決してねーじゃねーかよっ!」
「ほえ?」
なおも豆乳ココアフラペチーノをちうちう吸いながら、死神は「?」と小首をかしげた。
男と鮎川は、それから延々と、ソファでまったりと歓談に耽って過ごした。
「疲れた。帰る」
とうとう俺は席を立った。もはや、こんな不愉快な空間に居続ける気にはなれない。
すでに俺の心身は、やり場のない重量感によって満たされていた。そもそも、コーヒー一杯でここまで頑固に席を占領し続けるのも、店にとっては迷惑以外の何でもないだろう。
「えー、諦めちゃ駄目だよ」
「いや……マジでもう帰るわ。笑点始まるし」
「ちょっとぉ! 大喜利と鮎川ちゃん、どっちが大事なの!?」
「大喜利」
すでに、目の前のトレイには、個展でも開けそうな量のナプキンアートやストローアートが所狭しと転がっている。それらを紙カップと共に運び、ゴミ箱へあける。
すると、偶然にも、別の客のトレイとかち合わせとなってしまった。
軽く頭を下げつつ振り返る。と―――。
「え?」
「お……岡崎君?」
何と、そこに立っていたのは鮎川だった。デート仕様なのか、ほんのりと薄化粧を施している。
「あ、あの……こんにちは」
「お、おう。今日は、その、か、彼氏と?」
「彼氏?」
怪訝そうに首を傾げる鮎川の向こうでは、今まさにソファから立ち上がったばかりの男が、腕を伸ばし、軽い伸びと決め込んでいる。つか、女にトレイの返却とかさせてんじゃねぇよ。
「う、ううん、そういうわけじゃ……」
鮎川は、俯きながら首を横に振った。艶やかな黒髪が揺れるたび、白熱灯の光を浴びてさらさらと涼しげな光を放つ。
「岡崎君は、どうしてここに……?」
再び男の動向を伺う。こちらに歩み寄るのかと思いきや、男は、店の奥にあるトイレへと入って行った。
「いや、た、ただ適当に、街に遊びに来ただけだよ……。新しい参考書も欲しかったし」
もちろん、参考書を買うつもりなど、さらさらない。
「そういえば、最近、すごく勉強頑張ってますね。岡崎君」
「いや、まぁ、親がうるさくってさぁ」
それもある、だが―――
「そう、なんですか」
「うん。留年なんかしたら勘当だぞ、なんて言われて」
「き、厳しいですね」
「まーね。そういうわけだから、今日も早く帰って勉強しないと……」
「そう、ですか」
「そ、そうなんだよ。じゃあ、そっちは引き続き、デート楽しめよ」
「……はい」
そうして俺は、踵を返し、店の出口へと向かった。
駄目だ、もう。情けなくて、いよいよ泣けてくる。
「バカバカ! 何やってんの! こんなトコで引き下がって、情けない、それでも男!?」
「……黙れよ」
背後で死神がわぁわぁ喚く。だが、もはやその声は、俺の胸に開いた穴を虚しく吹き抜けるに過ぎなかった。
ほんと、何やってるんだろ、俺……。
「岡崎君」
ふと、背後で鮎川の声がした。それは、声の小さい鮎川にしては珍しく、大きく張りのある声だった。
「あの……岡崎君には、今、好きな人とか、付き合ってる人って、いるんですか?」
意外な言葉に思わず振り返ると、そこには、俺をまっすぐに見上げる鮎川の眼差しがあった。
「い……いない。どっちも。そういうの、全然興味ねーし」
ああ、そうだ。誰が……誰がお前の事なんか!
「……そうですか」
その時、男が用を済ませ、奥のトイレから再び姿を現した。よう、お待たせ、などと間の抜けた声をかけつつ、のんびりとした足取りでこちらに歩み寄る。
一方の鮎川は、男の方を振り返る事もなく、ただ、じっとこちらを見つめている。
「じゃ、じゃあ俺、もう行くわ―――」
今度こそ本当に店を出よう、と、俺が店の外へ振り向きかけた、その時だ。
彼女の唇が、思いもよらない言葉を口にした。
「つれてって、下さい」
気が付くと俺は、鮎川の手を取り、店の外へと駆け出していた。
彼女の腕は、一切の抵抗もためらいも見せないまま、すんなりと俺の腕に付き従った。
まるで、最初から俺と共に駆け出すつもりであったかのように。
「あ……おい!」
ほどなく、男の放つ間の抜けた声が、背後から俺達に追撃をかけてきた。が、俺は脇目も振らず、鮎川の腕を掴んだまま夕暮れの街を一目散に走り続けた。
俺の横を、ケラケラと笑いながら死神が走る。
「あはははは、なに? さっきの男の顔! マジうけるっ!」
しかしながら、その時の俺には、後ろを振り返る余裕など露ほどもありはしなかった。追い付かれた日にゃ最後、俺は間違いなくボコボコにされ、挙句にブッ殺される! 別に誇る事でもないが、俺は、腕力に訴えられる事がことのほか苦手だった。親父のお陰で、殴られる事には慣れているが、殴る方にはどうも自信がない。
そんな訳で俺は、鮎川の細い手首を掴んだまま、ひたすら走った。
―――どれぐらい走っただろう。気が付くと、すでに背後から男の声は消えていた。
赤提灯と古びた看板が並ぶ、うらぶれた裏通りに飛び込んだところで、ようやく俺は、走るのをやめて立ち止まった。荒れた息を整えつつ、背後を振り返る。
そこには、俺と同じく肩を大きく上下させながら、乱れた髪を手櫛で整える鮎川の顔があった。紅潮した頬、潤んだ唇、長い睫毛が覆う、黒くて大きな瞳―――。
く、くそ、鮎川のくせに……!
とりあえず、何と言って声をかけようか? 時候の挨拶? 勉強の進展? いや、まずはコピーのお礼だろう―――いや違う! それも何かが違う。
「もう、何やってんの! さっさと切り出しなさいよバカ!」
傍らの死神が、やかましく騒ぐ。
「うるせぇ!」
そこで、つい俺は傍の死神に怒鳴りつけてしまった。そんな俺を、鮎川は「?」と怪訝な顔で見上げる。そう。鮎川に、死神の姿は見えないのだ。
「あの、どうしたんですか?」
「あ、いや、何でもない」
慌てて取り繕う俺の横で、なおも死神が喚く。
「もう! 鮎川ちゃんに言いたい事があるんでしょ?」
そうだ。癪だが、確かに死神の言うとおりだ。
俺は今日、こいつに、言いたい事があって来たんだ。
そう。俺は、こいつの事が……こいつの事を……
「な、な、なぁ、鮎川、お前さ……」
「は、はい」
い、言うぞ、言うぞ言うぞ言うぞ―――!!
「―――どこの大学、目指してんの?」
「え」
「え?」
その時、鮎川と死神の、それぞれ異質な「え」が、見事な不協和音を奏でた。
お前らの言いたい事ぐらい分かってるよ! こんな時に、そんな事を訊いてどーするんだよ、って言いたいんだろ? だが、ここはハッキリと言い訳をさせてもらう。俺だって訊きてぇよ!
「大学?」
「そ、そそ、そう! 大学だよ! ど、どこ目指してんだよ、お前」
ダメだ。もう、軌道修正できない……。
「え、えと……」
そして鮎川が口にした大学名、それは、学年でも高順位に付けていなければ、通る事はおろか、センターで足切りを食らって二次試験を受けさせてもらう事すらできない、難関国立大学の名前だった。言うまでもなく今の俺の学力では、E判定にかじりつくのがやっとの大学名だ。
「へ、へぇ、すげーな」
そもそも訊くつもりはなかったんだが……訊くんじゃなかった。
「頑張れよ。お、お前なら……行けるから」
そうだよ。お前は、俺と違って優秀だから。
「今日はごめんな。デートの邪魔しちまって」
悪かった。俺みたいに馬鹿でネクラで、どこを挙げても良い所のない男が、お前みたいに優秀な人気者の眼中に収まろうと思った時点で、すでにアウトだったんだ。
―――いくじなし。
死神に言われるより先に、俺は内心、自分をなじった。
と、その時。ふと、鮎川が呟いた。
「デートなんかじゃありません」
「え?」
気付くと、鮎川の細い肩が、ふるふると小刻みに震え始めている。
「さ、さっきのは、水島さんに頼まれただけなんです。さっきの人、水島さんの部活の先輩らしくて。それで……水島さん、先輩の頼みを断れなかった、って言って……だから……私はその、別に……」
鮎川の肩の震えが、さらに強まる。
「その、初めは嘘だと思いました。目の前に、岡崎君がいて……きっと幻なんじゃないかって、その……」
「幻? 俺が?」
「……ここに岡崎君がいてくれたら、って、ずっと思っていましたから」
ドクン。
俺の心臓が一瞬、ひときわ大きく脈打った。
それって、どういう事だ? 鮎川が、俺の事を思っていたって?
それって、つまり……。
「私……本当はまだ怖いんです。外見を変えて、みんなが私を受け入れてくれるようになって……嬉しいんですけど、でも本当の私は―――」
「は?」
本当の私? 何だ、それ?
「中身の私は、あの夜、岡崎君に叱られた日のまま……何も変わってなくて。でも、周りの空気だけがすごいスピードで変わってしまって、それがどうしても、怖くて……」
「な、何の話だよ、いきなり」
「そんな時はいつも、つい心の中の岡崎君に頼っちゃうんです。でも、本物の岡崎君からすれば、こんなの、困りますよね」
本物? 心の中? だから、こいつは何を言ってるんだ?
すると鮎川は、やおら、がばと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! ほんと、私ってば何言ってるんだろ……こんな話、いきなり振られても迷惑ですよね」
「迷惑? だから、なんで?」
「ごめんなさい……岡崎君から見たら、気持ち悪いですよね、こんな話」
「い、いや、気持ち悪い以前に、全然話が見えないんだけど」
なんだ、この既視感。これじゃあ、あの夜の電話とまるで変わらない。
「どんなに外見を変えても、結局私は何も変わらないんです。暗くて、臆病で」
「だから、なんでいちいち、そんな事言うんだよ、お前は!」
「ごめんなさい……でも本当なんです。私は……自分を変えられない」
鮎川の消え入りそうな言葉に、俺は、あの夜に覚えた激しい怒気が、久々にみぞおちの辺りに湧き立つのを感じた。
「お前、本当に何も変わってないんだな」
「え?」
顔を上げた鮎川の頬には、すでに幾筋もの涙の筋が走っていた。けれども俺の苛立ちは、まるで収まる事を知らなかった。
「お、岡崎……君?」
「お前の、そういうところ……。俺、すんげーイラつくんだよォ!」
気が付くと俺は、夕暮れ時の街を一人で駆け出していた。今度は誰に追われているでもない。にも関わらず、その足は止まる様子を見せなかった。
「ばかやろぉぉぉぉ!」
怪しげな色のネオンが灯り始めた街の中を、俺はどこまでも走った。
何度も、何度も馬鹿と叫びながら。
「はぁ……何やってんだろ、俺……」
その日の深夜。
ベッドの枕に顔をうずめながら、俺は完全に再起不能に陥っていた。
――すんげーイラつくんだよ!
「ああああああ! くそぉぉ! なんで、なんで俺はあんな事を!!」
「あんたも、ほんっとバカねぇ」
椅子に腰掛け、くるくるとスピンしながら、死神は呆れたように洩らした。
「なんだと!?」
「だってさ、本当はあんた、鮎川ちゃんの事が――」
「それ以上言ったら、俺がお前を殺すぞ」
言葉を遮りつつ睨み付けると、死神は肩をすくめ、「ああ、怖い怖い」とおどけてみせた。
「あははっ、人間に殺されるようじゃあ死神稼業もあがったりね。そんな事よりさぁ、どうすんの? このままじゃマズイんじゃない?」
言われなくとも分かっている。だからこそ俺の手には、先程からずっと、携帯が握り締められているんじゃないか。
「ほら、電話でもメールでもいいからさぁ、スキって言えばいいじゃん。スキって。たった二文字よ? あんた。なんでこの二文字がさっさと言えないかなぁ?」
「う、うるせーよ! それこそ、死神なんかに分かってたまるかよ!」
「へいへい。分かりたくもないですけどねー。そんなまどろっこしい事……あ、そうだ」
ふと、何かを思いついたのか、死神は頭上にポカンと電球を灯らせた。
嫌な予感につい身構えていると、死神は、良くも悪くも思いがけない提案を述べた。
「お兄様に相談してみるのはどう?」
「はぁ? なんで兄貴なんかに!?」
「だってさぁ、お兄さんってホラ、すっごくモテるんでしょ? 女ゴコロを手玉に取るなんて、お手のものなんじゃない?」
「て、手玉に取る、って……そこはもっと、言葉を選べよ」
「ああー。あたしのココロも手玉に取られてみたいわぁ」
キラキラと、死神の目に星が浮かぶ。つーか、お前の心はとっくに手玉に取られているだろうがよ。
だが、今回ばかりは珍しく、死神の言う事には一理がある。
ふと、時計に目をやる。すでに時刻は午前一時を回ろうとしている。今日も今日とて帰りが日付を越えていた兄貴だが、いくら何でも、もう眠りに就いている頃合だろう。
しかし、このまま俺一人で悩んでいても、埒が明かないのは確かだ。
「ちょっと、部屋を覗いてくる」
俺は意を決すると、重だるい身体を叱咤しつつベッドから起き上がった。
「あたしも行くぅー♪ んで、お兄様とラブラブするぅ♪」
「つか、そっちが目的だろうがよ、お前は」
廊下の奥のドアを、そっとノックする。
しばし耳を澄まし、ドア向こうの反応を伺うも、中からは物音一つ、聞こえることはなかった。やはり兄貴は、すでに眠りに就いてしまっているのだろう。
「寝てるみたいだな」
「じゃ、寝顔の方を拝見」
「するな」
引き返し、兄貴の部屋の前から退散しかけた、その時だった。不意に背後で、ドアノブの回る音がした。
「何だ……こんな時間に」
振り返ると、そこには、いかにも寝入りばなを起こされたと思しき、朦朧とした表情の兄貴が立っていた。
「あ、わり、寝てたのか」
ところが、兄貴からの返事はない。代わりに、焦点の定まらない目で、ぼんやりと俺を見つめている。
「いや、別にこれといった用事じゃないんだ。起こしたんなら、謝る」
なおも答えず、兄貴はふらふらとおぼつかない足取りで、こちらに歩み寄る。
「今、何時だと思ってる」
「……え」
ふと俺は、兄貴の口調が、いつもの柔和なそれとは違う事に気がついた。低く唸るようなその口ぶりは、まるで、そう……退職前の親父を、つい髣髴とさせた。
と思った瞬間。
ドガッ!
スイカが潰れるような鈍い音が、すぐ耳元で響いた。
一瞬、視界が反転し、と同時に俺は、廊下の壁に後頭部をひどく打ちつけていた。
床に腰を落としつつ、何が起こったのか分からないまま兄貴の顔を見上げると、兄貴は、その眉根に深い皺を刻みながら憤然と俺を見下ろしていた。
次第に、左頬が鈍い痛みと共に熱を帯び始める。その段になってようやく俺は、自分が兄貴の拳によって殴られた事に思い至った。
けれど、より堪えたのは、殴られた痛みそのものよりも、兄貴が俺を殴ったという事実そのものだった。何があろうと声を荒げた事のなかった兄貴が、どうして……?
「な、なんだよ、そりゃ、夜遅くに声をかけたのは悪かったけど、な、何も、殴るまで……」
「……わかってない」
「え?」
「どうせお前には、兄ちゃんの事なんて何も、何もわからないんだ!」
悲痛さを帯びた怒鳴り声を上げると、兄貴は、ようやく我に帰ったようにはっと目を見開いた。そして、慌てて踵を返すと、逃げるように自室へ飛び込んでしまった。
「兄……貴?」
廊下に染み入るような沈黙が戻った後も、俺はなかなか立ち上がる事ができなかった。
わかってない……? 何が?
「戻ろう、浩二」
死神の言葉に、ようやく俺は我に帰り、身を起こした。知らずに打ち付けていた節々が、思いがけず、ひどく痛んだ。
ふらふらと部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
「……なんなんだよ、いきなり」
「あれ? ヘコんでる?」
いつしか俺の隣に腰掛けていた死神が、からかうように俺の顔を覗き込みながら言った。
「……別に」
「あ、そう」
そして死神は、まるで何事もなかったかのように、誰に断るでもなくさっさとベッドに潜り込んでしまった。
翌日。
久々に授業をサボった俺は、いつぞやのように屋上に寝転がり、小春日和に霞む青空をぼんやりと眺めていた。
なぜか、授業を受ける気になれなかった。教室の机に大人しく座り続ける事ができなかったのだ。油断すると、つい鮎川の背中を視界の隅に捉えてしまう。辛くなると分かっていて、つい視線が奴の方へ向けられてしまうのだ。そんな事を何度も繰り返すうち、ついに、席に座っている事自体が辛くなってしまったのだった。
―――すんげーイラつくんだよォ!
「あああああもう、俺ってば、マジで何言ってんだよぉぉ!」
「十四回目」
傍に腰を下ろす死神が、正の文字が書き込まれたメモを俺の鼻先に突き出す。
「は? 何のカウントだよ、それ」
「今のセリフ、今日で十四回目」
「んな下らねーもん、数えてんじゃねーよ!」
ごろりと寝返り、死神に背を向ける。すると死神は、背を向けていてもそれと分かる重たい溜息をついて言った。
「あーあ。またサボり魔に逆戻り」
そんな死神の愚痴に、背を向けたまま俺は応じる。
「悪いかよ。ゼロがゼロに戻っただけだ、文句はねーだろうがよ」
「あるよぉ。サボってたら巨乳ちゃんの暗号が解けないじゃない」
「だったら、お前一人で授業受けて来いよ。俺はここで寝とくから」
「やだ」
「なんで?」
「だって、楠田の板書、読みにくいんだもん」
「そんなの、俺だって嫌だよ」
その時だ。
屋上の扉が、ガンと音を立てて開き、と同時に、思いもよらない声が青空に響いた。
「岡崎君!」
「!?」
途端、俺は心臓が口から飛び出る心地がした。たまらず、弾かれたように振り返る。
そう。扉の向こうから飛び出してきた声の主、それは他でもない―――
「鮎……川?」
「や、やっぱり、ここにいたんですね」
随分と焦って走って来たのだろう。必死で息を整えながら鮎川は言った。裾を詰めた制服のせいで強調された豊かな胸が、ふるふると惜しげもなく上下している。
「な……何か、用かよ」
収まらない動悸を気取られないよう、俺は、努めて抑えた声を鮎川に投げつけた。
こんな気持ちを……気付かれたら、俺は……。
「……」
だが、一方の鮎川は、うつむき、唇を引き結んだまま何も答えようとしない。
時々思い出したように吹く風が、すっかり短くなった鮎川のスカートと、艶やかな髪をふわりと撫で上げる。
「ま、また、授業に連れ戻しに来たのかよ」
けれども鮎川は、なおも押し黙ったまま、何も答えようとしない。
「よ、用がないんなら、さ、さっさと帰ってくれよ……め、目障りなんだよ」
と、そんな俺の肩を、つんと突くものがあった。振り返ると、またしても死神が、正の文字が書かれたメモ紙を俺に突き出している。
「ほら、早く謝りなさいよ」
傲然と俺を見下ろしながら、死神が言う。
「な、なんで俺が」
「じゃなきゃ、昨日の事、ずーっと後悔したまんまだよ?」
「だ、誰が、昨日の事を後悔してんだよ!」
「え?」
俺の怒声に反応したのは、死神ではなく鮎川の方だった。弾かれたように顔を上げ、呆けたように俺を見る。
「し、しまった」
一方の死神は、文字通り死神のように口角を吊り上げ、顔をニヤつかせている。
「後悔?」
「お、お前には、関係ねーよ……つ、つーか、鮎川! 何しにこんな所に来てやがんだよ! もう、とっくに授業始まってんだろうがよ!」
その時、不意に遠くの空から飛行機のジェット音が響き始めた。やがて銀色の機体は、俺達の街の頭上を何食わぬ顔で過ぎ去り、そして機体が地平の彼方に消えたのに遅れて数拍、空気を切り裂くジェット音もまた、雲ひとつない青空へと溶けるように消えていった。
空に、またしても静寂が戻った。
「き、昨日は、ごめんなさい」
その静寂を最初に破ったのは、鮎川の方だった。
「あ……あんな事、き、急に言われても困りますよね」
「……ま、まぁ」
またしても、会話はあっけなく途切れた。いや、今度は、途絶えさせたのは俺の方だ。一方的に投げつけるだけの文句ならば、それこそ腐るほど持ち合わせているが、生憎、会話については元々不慣れな上に、今日ばかりは、会話を繋げるための語彙がまるで頭に浮かんで来ない。
「ねぇ浩二、いいかげん謝ろうよ。そうすれば鮎川ちゃんだって楽になるし」
死神が横から言葉を挟む。
「楽になるとか、ならねーとか、そんな問題じゃねーだろ」
「楽に、なる?」
またしても、応じたのは死神ではなく鮎川の方だった。
だから、お前に話してんじゃねーんだよ!
ったく、自分にしか見えない存在が近くにいるってのは、つくづく面倒な状況だな。
「つか、お前こそ、なんでそんなにゴメンゴメン言いやがんだよ、何からそんなに楽になりたいんだ!? えぇ!?」
「何、から……?」
俺の言葉に、鮎川の黒い瞳がやにわに見開かれた。
「ああ、そうだよ! 俺はお前が、そんなふうにゴメンばっかり連発するのが、本当にムカつくんだ!」
「……え」
「え、じゃねーよ! つか、なんで、勉強もできて、面倒見も良くて、おまけに可愛くなるためスゲー頑張ってるお前が、いつまでもそうやって俺にペコペコしてんだよ! そんなに俺が怖いのか? 俺に面と向かうのが、苦痛なのか? 俺なんて……お前もよく知ってるだろ? 勉強はできない、授業もサボってばかりいる、そのくせ、お前にエラソーな事ばっか言ってる、つまんねー奴だよ。お前に勝ってるモンなんて、何もない! そんな奴、普通は軽蔑しても、怖がったりなんて絶対しねーよ!」
言いながら、俺は、悲しいぐらい自分の言葉に納得していた。
そうだ。俺はとんでもない勘違いをしていたんだ。もともと鮎川は、俺にとっては到底手の届かない、高嶺の存在だったはずなんだ。俺みたいなアホと違って、勉強もできて、人当たりも良くて……。
それなのに俺は、こいつの劣等感に付け入って、勝手に見下したりなんかして……。
「わかっただろ? だからもう、俺がお前にゴメンなんて言われる筋合いはねーんだよ。だから、もう、頼むから言わないでくれ。―――辛くなるから」
「そんな事……ありません」
「いや、そうなんだよ。俺なんか、どうせ……」
「そんな事、」
「昨日の事は謝る。悪かった。だからもう、俺に話しかけないでくれ。バカがうつるぞ」
「そ、そんな事……ありません!」
「?」
思いがけない大声に、思わず顔を上げると、そこには、今にも泣き出しそうな顔で俺を睨み据える鮎川の姿があった。目の周囲は泣き腫らしたように赤く染まり、桜色の唇は、今にも引きちぎれんばかりに噛み締められている。
肩をいななかせ、震える声で鮎川は続けた。
「お、岡崎君こそ……もっと自分に自信を持って下さい。岡崎君だって、すごく、頑張ってるじゃないですか」
「頑張ってる? 冗談じゃない。俺のやってる事なんて、全然、頑張ってる内に入りゃしねーよ。……全然ダメなんだよ。鮎川にも……、それに兄貴にも、全然かなわない」
「……お兄さん?」
「知ってるんだ。みんな……兄貴を知ってる奴はみんな、こう思ってる。いい所は全部、兄貴に持って行かれた。だから弟は、ただの出涸らしだって……しょうがねぇよな。兄貴は東京の超難関大学も現役ストレートでパスして、今は地元の有名企業で働いてる。―――一方、弟の俺はっつーと、授業もサボり倒してばっかで、大学にだって行けるかどうかも分からねーときたもんだ」
「だ、だからって、出涸らしだなんて、そんな……」
「いいや! どうせ本当は、みんな俺の事をそう思ってるんだ! どうせ俺は、俺は……」
「違います!」
「は?」
またしても、鮎川は憚りのない大声で叫んだ。そして、つかつかとこちらへ歩み寄ると、膝をつき、俺の顔をぐいと覗き込んだ。母さんのように激しく怒鳴りつけるのか、と、俺は、反射的に身構えた―――
と、その時だった。
鮎川は、ふと、その口元を優しく緩めて言った。
「意外でした。岡崎君って、私によく似てるんですね」
「は? ……似てる?」
「はい。だからきっと、岡崎君は、私の気持ちを一番よく解ってくれたんだと思います」
「……え?」
「次は……私が岡崎君の気持ちを、わかってあげたい」
―――わかってあげたい?
なんだよそれ、そんな言葉、生まれて初めて掛けられたぞ。
なんで鮎川が、俺なんかの気持ちを……。
「わ、わからなくていいよ、そんな―――」
そんなつまらないもの、と言葉を続けようとして、俺はある異変に気付いた。
あれ。……声が、出ない。
その時、俺の膝にぽたりと雫のようなものが落ちた。空は相変わらず晴れている。雨粒じゃないとすれば、それは―――
いつしか、目の前にいるはずの鮎川の顔がひどくぼやけていた。ただ、その表情が、柔らかく笑っている事だけは、歪んだ視界の中から辛うじてうかがう事ができた。
やがて鮎川は、スカートのポケットに手を入れると、何やら平べったいものを取り出し、俺に差し出した。
「これ……良かったら、使って?」
「へ?」
受け取ってはじめて、指先の感覚からそれがハンカチなのだと分かった。どうして鮎川は、ハンカチなんかを……と、そこで初めて、俺は気付いた。
ああ、そうか、俺、泣いてるんだ。
「あ、ありがとう」
「うん」
ぼやけた視界の向こうで、鮎川がふたたび柔らかな笑みを浮かべるのが感じられた。
それは、まるで春の木漏れ日のように、柔らかくて、暖かな微笑みだった。
ご意見、ご感想、お待ちしております!!
是非よろしくおねがいします。




