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四章

いつしか、日付は十月の暦を迎えていた。

奇妙な事に、俺が授業に復帰した後も、クラス委員、鮎川からのコピーの差し入れは続いた。

どうやら鮎川は、俺がうまく板書を書き取れていない事に気が付いているらしく、数日に一度、取り溜めたノートをコピーしては、俺の机にそっと忍ばせてきた。

有難い反面、自分の無能さを見透かされているような気がし、俺は何とも気恥ずかしく、そして、いたたまれない思いを余儀なくされた。

とはいえ、コピーがなくては勉強が進まないのも事実だった。

俺が取ったノートは、後で見返す気にもならない程にまとまりが悪く、一言で言うと酷く不細工だった。そこへいくと、鮎川のノートは、同じ黒板を写し取ったものとは思えないほど、どの教科も非常にまとまりが良く、小奇麗だった。一目で、どこが要点なのかがはっきりと解る。文字も、小振りだがバランスが良く大変読みやすい。

―――そんなわけで、俺は未だに、鮎川からのコピーの差し入れを断れずにいた。

 


十月にも半ばに差し掛かった頃の事だ。

「つーか、マジ? 鮎川さんが岡崎の机に手紙入れてるって」

「マジマジ! だって今朝見たもん。なんか、プリントと一緒に手紙入れてるの」

「うわぁー。あの鮎川さんが……マジ痛いんですけど」

「でもさ、どーせ相手が相手なんだし、似合ってていいんじゃない? 二人とも、ほら、クラいしさ」

「あー、言えてるー」

とある教室移動の際、はるか前方を連れ立って歩くクラスの女子共が、俺に聞こえていないとでも思ったか、こんな会話を交わし合っていた。

ケラケラケラ。下世話な女達は、狭い廊下に、品のない笑い声を憚りなく撒き散らした。

「なぁ死神」

 なんとはなしに俺は、傍らを歩く制服姿の死神に声をかけた。

「なーにぃ?」

「俺って、陰気か?」

死神は目を丸くして答えた。

「え? あんた、今頃気付いたの? うわっ鈍っ!」

 その言葉に俺は、返す言葉を見出す事ができなかった。そもそも、こうして死神と連れ立って歩いている時点で、俺が陰気でないハズがない。



岡崎と鮎川はデキているらしい。

いつの間にか、俺はクラスの連中から、勝手に鮎川の彼氏という事にさせられていた。

女子共は、教室で、あるいは廊下で、俺か鮎川のいずれかを見かけては、背後でクスクスと含み笑いを漏らした。野郎は野郎でこちらもタチが悪く、「B専」だの「ゲテモノ愛好家」だのといった不名誉な称号を用いては、陰ながらに俺を呼称した。まぁ、教師連中の使う「出涸らし」に比べれば、数百万倍はマシなのだが。

とはいえ、陰口さえ気にしなければ、普段の学校生活においては、差し迫った不都合は特に起こる事はなかった。もっとも、小学生じゃあるまいし、連中もそんな事でいちいち囃し立てるほどガキでも暇でもないのだろう。

そんなわけで俺は、連中の声を適当に聞き流し、さして取り合わずにおいた。事実、その噂によって、俺が何らかの不都合を被る事は、直接的には、ついぞなかった。

ところが。たった一人、この噂を適当に聞き流すことができない奴がいたのだ。

それは、他でもない、もう一方の噂の当事者、鮎川だった。



夜の寒さがいよいよ身に堪え始めた、十月末の、とある週末の夜。

死神と共に机に向かい、微分の問題にタッグマッチを仕掛けていると、ふと、手元の携帯が、メールではなく電話の着信を告げた。怪訝に思いつつ、携帯を開く。

番号は、鮎川のものだった。

「ををっ! 巨乳ちゃんから?」

「だな……なんだろ。こんな時間に」

時計を見ると、すでに時刻は十二時を過えている。気心の知れた相手にさえ、電話をかける事を躊躇う時間帯だ。まして、ほとんど会話すら交わした事のない相手にかけるなど、もはや良識を疑わざるを得ない。よっぽど、緊急の用であれば許されようが、生憎、俺と鮎川の間には、緊急の用が生じる関係など存在しない。

「もしもし」

抗議の意味合いも含め、憮然とした声で応じる。

「……」

が、返事がない。

おかしい。電波が遠いのか? ―――と怪訝に思い始めた頃、ようやく電話口から、苦しげな呻き声にも似た、奇怪な音が漏れ始めた。

「うっ、うう……」

真夜中の突然の不気味ボイスに、思わず背筋を凍らせた時、ようやく、ノイズの中から日本語らしき声が聞こえ始めた。

「ご……ごめんなさい……」

上擦ってはいるが、それは確かにあの日、屋上で聞いた鮎川の声に他ならなかった。

「どうしたんだよ」

「ごめんなさい」

「何が?」

「こんな事になって……本当にごめんなさい」

「だから、何がだよ?」

「だって、私なんかと付き合ってるなんて噂、嫌ですよね? 嫌に決まってますよね?」

「いや、別に」

どうでもいい。むしろ、俺にそんな事を訊いて、お前は何を知りたいのか、と、こちらから訊き返してやりたい。 

「いいんです、気を遣って頂かなくて。ぐすっ、嫌に決まってるんです。嫌じゃないはず、ないんです」

「あのさ、こんな時間に電話してまで、わざわざ伝えたい用件って、何?」

「ご、ごめんなさい! そうですよね、こんな夜遅くに……ごめんなさい」

「あのさ、さっきからごめんばっかりで、ぜんぜん話が進んでないんだけど」

「ごめんなさい……」

「あの、もう電話切っていい?」

うんざりし、携帯を耳から離しかけた時、追いすがるような声が電話口から漏れた。

「あ、ごめんなさい! き、切らないで下さい……あの、正直に言ってください。い、嫌ですよね? あんな噂」

はぁ。溜息をつきつつ、先程と同じ答えを繰り返す。

「まぁ、いい気分はしないけど、ぶっちゃけ、どうでもいいし」

「……そうですか」

電話口から、安堵とも落胆とも取れる声が漏れる。どうやら向こうの方では、今の俺の返答によって、何らかの納得を得たものらしい。が、一方の俺は、未だに相手の意図を掴む事が出来ていない。こんな非常識な時間に寄越された電話に、わざわざ応じてやったというのに。

「あのさ、嫌がってんのはそっちじゃねーの? だからわざわざ電話して来たんだろ?」

「ち、違います。私はただ、謝りたかっただけ……。私の不注意のせいで、私なんかと付き合ってるって噂されてる岡崎君が、気の毒で……」

「なんで、それで俺の事を、気の毒だって思うんだよ?」

「だって私、その、ブサイクだし、キモいし暗いし……。知ってるんです。本当はみんな、私の事をそんな風に思ってるって。だから、」

その言葉に、いつしか俺は、ペンを持つ手を硬く握り締めていた。

腹が立った。どういう訳か、無性に腹が立った。それは、深夜の電話の件とは全く違った所からくる苛立ちだった。いや、苛立ちと言うより、これは怒りだった。純粋な怒り。

俺は、鮎川に対し、全身全霊で怒りを覚えていた。

「お前……そんな事を話したくて、わざわざこんな時間に電話してきたのか?」

「え?」

「お前が、どういうつもりで俺にそんな事を話すのかは知らねぇけど、俺の耳には、どうして自分はこんなにダメなんだろって、ひたすら弱音を吐いてるだけにしか聞こえない」

「え……?」

「そんなに自分の事が嫌なら、何で自分を変える努力をしないんだ? え?」

「……え、えと」

「そんなみっともない泣き言並べる暇があったら、まずは自分で変える努力をしろ! グチなら、その後で言いやがれ!」

ブチッ。

「クソが!」

バン!

苛立ちに任せて携帯を机に叩きつける。しかしながら、みぞおちの辺りの不愉快な泡立ちは収まる様子を見せない。

「うわ、こわーい」

傍らで会話に聞き耳を立てていた死神が、肩をすくめつつおどけて言った。

「うるせーよ! ちくしょう、何なんだよあのアマ! 格好だけじゃなしに、言動までキモいんだよ! ったく!」

「あんたも、自分の事を棚に上げてよく言うよ。あんなセリフ」

「……るせー」

 すると死神は、すぅ、と目を細め、からかうような、射抜くような眼差しで言った。

「ひょっとして、今の言葉、自分自身に言い聞かせてたとか?」

「は? ……どういう事だよ」

 にやり、と口元に皮肉な笑みを浮かべ、さらに死神は返した。

「さあね。自分の胸に訊いてみたら?」



翌週、教室に行くと、件のクラス委員の姿ははどこにも見当たらなかった。

「いないねー。巨乳ちゃん」

「しらねー」

とりあえずいつものように、朝のホームルームに担任が現れるのを待つ。

 ややあって俺は、クラスの雰囲気がいつもより浮き足立っている事に気が付いた。顕著なのは男共で、教室の後ろに吹き溜まり、熱を帯びた声で、何やらしきりに囁き合っている。話題のアイドルがついに脱ぎ、その裸体について熱い議論でも交わし合っているのだろう、などと踏みつつ、なんとはなしに会話に耳を傾けてみるが、そういう訳でもないらしい。

 男達の視線は、教室の隅の、とある座席に集中していた。つられて俺も、その視線を目で追いかける。すると、その座席には、一人の女子生徒が、白い膝を行儀よく揃えて腰掛けていた。

だが。

「誰だ……あれ?」

さも当然のごとく席を占めるその女子生徒の姿は、俺にはまるで見覚のないものだった。時期外れの転校生だろうか? それとも、今まで授業をサボり倒していた俺が、単に彼女の存在を認識していなかっただけなのか。

肩口で切り揃えられた艶やかな黒髪の隙間からは、形の良いなだらかな鼻筋と、目尻の切れ上がった涼やかな双眸が垣間見える。美麗な目を飾る三日月型のなだらかな眉や、締りの良い小振りの口元からは、文学小説が似合いそうな上品さと知性が漂っている。緩く羽織った白のカーディガンの下には、適度に丈を詰めたスカートが覗き、その裾から延びる白い足には、上品な紺のハイソックスがあてがわれている。全体としてシンプルにまとまりつつも、決して野暮ったくはない、絶妙なバランスがそこには存在した。

「あれぇ? あんな子、クラスにいたかなぁ?」

机の脇にちょこんと腰を預けた死神は、しばし、不思議そうに女子生徒を見つめていたが、ほどなくして「なんと!」と、素っ頓狂な声を上げた。

「なんだよ。いちいちうるせーな」

「あの子……すっごい巨乳!」

「は?」

 マジか?

「ううむ……鮎川ちゃんといい、あの子といい、いつから日本の女子は、こんなに発育がよくなっちゃったのかしら……」

 死神の言葉に誘われるように、俺も女子生徒の胸元に目を凝らす。カーディガンの緩やかなシルエットに覆い隠されてはいるものの、その胸は確かに、見事な張りとボリュームを誇っている。

「た、確かに」

なおも彼女の胸を凝視していると、俺の視線に気がついた彼女が、ふと、こちらを振り返った。すかさず目を逸らし、気のない素振りを装うも、時すでに遅く、彼女はすぐさま席を立つと、おもむろにこちらへ歩み寄ってきた。

男共のざわめきがいやましにボリュームを増す中、やがて彼女は、俺の目の前で立ち止まり、はにかみつつ切り出した。

「一昨日は……その、ありがとうございました」

「あ、あれ?」

その声には、確かに俺は聞き覚えがあった。

そうだ。確か、土曜日の夜、俺に電話をかけてきた―――。

「あ、鮎川?」

まさかと思いつつ訊ねると、彼女は色白の頬を真っ赤に染め、丈の詰まったスカートをいじらしく押さえながら答えた。

「は、はい……昨日、髪を切って、コンタクトを誂えて来たんですけど……あ、あと、制服も裾を詰めたりして……。ひょっとして、変ですか? この格好……」

「……あ、いや、似合うと思う」

すると鮎川は、真っ赤な顔のまま嬉しそうな笑みを浮かべて言った。

「よ、よかったです。もう、岡崎君に恥をかかせられないから……」

「ま、まさかお前、そのために、わざわざ?」

鮎川は、こくりと頷いて答えた。

「は、はい……」



「最近は、ちゃんと授業に出ているそうじゃないか」

ある夜、キッチンのレンジで死神用に牛乳を温めていると、リビングのソファに身を沈めた親父が、膝に抱いたニャン助を撫でつけながら言った。

「まぁ、うん」

「そうか」

「母さんから聞いたの?」

「ああ。おかげで最近は、母さんも機嫌が良くてね」

母さんは、今夜は学生時代の友人らと一緒に市街地へディナーに出かけている。今、この時、家にいるのは俺と親父の二人、それに死神が一人と、あとはネコが一匹だけだ。

時計を見る。すでに短針は十一の文字を回っている。

「兄貴は、今日も遅いんだな」

「……みたいだな」

「そういえば、この間、やけに兄貴の調子が悪そうな時があって……親父は、兄貴から何か聞いてるか?」

 俺の質問に、親父は呆けた顔のまま、はたと口を閉ざした。何か知っているのか? と訝りかけた時、ようやく親父はぽつりと口にした。

「……いや」

「あ、そう」

 なんだ、知らないのか。

その時、ニャン助が顔を上げ、撫でてくれと言わんばかりに親父の手に擦り付いた。

 一方の親父は、漫然とニャン助の背中に手を滑らせつつも、虚ろな目をテレビに向けたまま呆然としている。テレビ画面には、昔の親父であれば絶対に目にもくれなかったであろう、三下芸能人が互いに罵詈雑言を浴びせ合うだけのバラエティ番組が映っている。

「なんだよ親父、そんなもん見てんのか」

「ああ……案外、面白いもんだな。こういうのも」

画面の向こうでは、すでに旬を過ぎた芸人が、同じく賞味期限の過ぎた女性芸能人に、酷い罵声を浴びせられ、涙目になりながらも汚い言葉を打ち返している。

テレビからの笑い声につられてか、親父もだらしなく笑う。

その声が、いやに俺の神経に障る。

「ハハハ……なぁ浩二、この芸人さんは、なんていう名前だったかな」

「しらねぇ。興味ねぇし」

「なんだ、お前ぐらいの歳なら、知ってるんじゃないのか?」

「しらねーよ。つーか、忘れた」

「なんだ、そうか」

画面に目を戻した親父は、またしてもだらしない笑い声を上げ始めた。

 ハハハハハ……ハハハ……。

「親父」

 小さな背中に呼びかけると、親父は締まりのない顔で振り返った。

「どうした?」

「俺が昔、こういう番組を見てた時、親父は言ったよな? こんな下らないもん、見るんじゃない、って。……言って、そして殴ったよな?」

「ああ……言ったかな? そんな事」

「言ったさ!」

 気が付くと、俺は激昂していた。

 俺の声に驚いたニャン助が、びりりと髭を立て、慌てて親父の膝から滑り降りる。

「言ったよ! 覚えてないのか? 俺、その頃どうしても『エンタ』が見たくってさ、見せてくれってあんたにせがんだんだよ! 番組のネタがクラスで流行ってて、見なきゃ友達との会話について行けなくって、ハブられちまうもんだから、どうしても、見せて欲しかったんだ。……なのに、あんたは『くだらない』の一言で、後は聞く耳も持たなくて……その頃の俺が、どんだけクラスで浮く羽目になったか、あんた、想像できるか!?」

「……そう、だったのか?」

「そ、そうだよ! だから、あ、あんたみたいな堅物は、一生、ディスカバリーチャンネルでも見て過ごしゃいいんだよ! くそったれ!」

 すると親父は、リモコンを取り上げ、何も言わずに電源ボタンを押した。

 まがい物の笑い声が消え失せると共に、リビングが、冷たく静かな水底へと沈む。

「それは……済まなかったな」

 ぽつりと、親父は呟いた。

違う。

謝って欲しいんじゃない。

「父さんのせいで、お前が不便な思いをしていたのなら……謝る」

 そうじゃない―――そうじゃない!

 心の中で何度も「そうじゃない」と叫びながら、俺は、今の自分の感情に当てはまる言葉を必死で探し続けた。そして見つかった言葉、それは、俺自身にも思いがけない言葉だった。――――恐怖。

 恐怖? ……恐れているのか? 俺は? 何を?

「思えば、お前達兄弟には、随分と厳しく接し過ぎていたのかもしれんな」

 ヤンキーに囲まれるなどの、分かりやすい恐怖とはまるで質が違う。骨の髄にじわりと染み込んで来るような、得体の知れない――――けれども確かにそこに存在する恐怖。拒む事を止めた途端、確実に飲み込まれる、そんな恐怖。

「すまなかった……」

「やめてくれよ、親父」

「ん?」

「マジでやめてくれ、そういうの、マジで」

「どうした、顔色が悪いぞ、浩二」

「やめろって言ってんだろ!? もう、俺に構わないでくれ!」

もはや、その場に立ち尽くす事すら耐えられなくなった俺は、リビングのドアを飛び出すと、階段を駆け上がり、二階の自室へと飛び込んだ。

「おっつー! ねぇねぇ、持ってきてくれた?」

部屋に戻るなり、“巨乳になる薬”を待ちわびていた死神が、すかさず俺を出迎えた。だが、その手が空であると知り、途端に不満げな表情を浮かべてぶうたれる。

「ちょっと! ないじゃん、薬っ!」

「黙れ……」

「あれ? どうしたの? 真っ青な顔して」

 死神の問いには応じず、俺は黙って机につくと、鞄からノートを引っ張り出し、今日の授業で習った内容の復習に取りかかった。

 だが、いかに集中するべく努めようとも、その日に限って、目の前の文字が頭に入って来る様子はいっこうになかった。水を一杯に蓄えたスポンジが、これ以上、水を含む事のできない様に似て。

「……大丈夫?」

 珍しく、労わるような声色で死神が声をかけてくる。だが、俺はそれでも、何も答える事ができず、ただただ、目の前のノートにかじりついていた。

 頼む。今は、黙っていてくれ!

 心の中で、俺は叫んだ。

 すると、俺の念が通じたのだろうか、ほどなくして死神は、棚からマンガを取り出すと、ベッドに横たわり、一人静かに読み始めた。それきり、死神はマンガに耽ったまま、一言も発する事はなかった。


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