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三章

その日も俺は、いつものように授業をサボり、屋上に横たわりつつ、ぼんやりと空を眺めていた。視界を満たしているのは、遠近感も濃淡もない、ただのまっしろな空だ。

どこに目をやってみても、同じ色、同じ光量の空が眼前を覆う。

変化も見通しもない光景―――それはまるで、目的も方向性もない今の俺の生き様を、暗に代弁してくれているかのようだった。

このまま、漫然と生きていても仕方がない。全くの無意味。酸素と有機化合物の無駄遣い。―――なのに、どうして俺は生きているんだろう。いや、そもそもどうして俺は、この世に生まれてきたんだろう。

わからない。この曇天に雲以外の何ものも見出せないように、何もわからない。

「なんで浩二は授業に出ないの? またお母さんに怒られるよ」

 俺のすぐ脇で、俺と同じく空を眺める死神が、ふと、そんな事を言い出した。

「別に、お前には関係ないだろ」

「まぁ、ないっちゃ、ないけどさぁ」

「つか、お前こそ、死神なら死神らしい仕事をしたらどうなんだよ」

「死神らしい仕事?」

「例えば、俺以外の人間の魂を狩りに行くとかさ」

 すると死神は、困ったように唇を尖らせて言った。

「ダメだよ。そんな事したら、その人間を担当にしてる死神さんに怒られちゃう」

「は? どういう事だよ」

「あたしは浩二専門の死神だから、浩二しか殺せないの」

は? 俺専門の死神?

「死神って、一人につき一匹なのか?」

「匹ぃ!? ちょっと! 死神をゴキブリみたいに言わないでよ」

 むぅとむくれながら、死神はぽかぽかと俺を殴った。

「お、おい、ゴキブリとまでは言ってないだろ……で、要するに、死神と人間は、それぞれ一人づつで一セットって事なんだな?」

「うん。人間だけじゃないよ。命ある者には必ず死神が付いているの。生きている限り、死は必ず迎えなきゃいけないんだから」

「は? じゃあ……例えば……」

 なんとはなしに、俺は空を鋭く横切るツバメを指差した。

「うん。ツバメにも」

「じゃあ……こいつは?」

 今度は、傍のコンクリートを這う蟻を指す。

「うん」

「一匹一匹に?」

「そうだよ。虫も人も、同じように命を持って生きてるじゃない」

虫と人が、こいつの中で同列に扱われている点には取り合わないとして、虫一匹にさえ死神が付いているとすれば、一体、死神って奴はこの世に何人いやがるんだ?

「ふふん、違うんだなぁ。それが」

 すると死神は、したり顔で含み笑いを洩らした。

「正確には、数じゃないのよ私達は。一人ひとりが個体であって、同時に総体なの。ここにいる私はあんたの死という具体であって、同時に死という概念そのものでもあるのよ」

「は? なにそれ。お前の話、難しくてよくわからないんだけど」

「まぁ、あんた頭悪いからね。あたしの説明が分からないのも当然か。だから、サボってないで授業に出ろって言ってんのよっ! ほらっ、さっさと教室に戻れっ! 勉強して頭良くなれっ!」

「お前の説明がヒドいんだろっ!? 断る! 誰があんな面倒くさいもん、」

「なんで?」

「なんでって……だから、面倒くさいって、」

「お父さんみたいになるのが、そんなにイヤ?」

「―――は?」

 思いがけない死神の言葉に、俺は一瞬、拍子を抜かされた。

「はぁ? お、親父が、何だって?」

「真面目に授業に出ても、何も報われない。どうせ頑張ったって何も得られない―――そう思ってるんでしょ?」

「こ、今度は何の話だよ! 親父は関係ないだろ?」

「あたしに隠し事は無駄だよ。あんたの事なら、あたしには全部わかるんだから。仕事だけは、たとえ子供の運動会を振り切ってでも無遅刻無欠勤、文字通り、家族なんて省みずに何十年も仕事一筋で働いてきたお父さんが、結局、スズメの涙みたいな退職金だけで斬り捨てられちゃってさ。バカバカしいって思っちゃったんでしょ? 真面目に頑張るのが」

「な、何言ってんだ、勝手な事をべらべらと! 親父が何だよ! 親父のリストラと、俺が授業サボる事と、どう関係があるってんだよ!」

「それにまぁ、頑張ったところで、憧れてるお兄さんには追いつけないワケだし」

「は?」

「どう足掻いても、お兄さんのスペックには到底追いつけない。何をやってもお兄さんと比較され、失望され、冷笑される。誰も認めてくれない。褒めてくれない」

「今度は何だよ? 兄貴も親父も、か、関係ねえだろっ!」

「仕方ないよね。だって向こうは東大を現役でパスした超エリート。どう転んだって、敵うわけないもん。そんなあんたに残された、自尊心を守る方法はたった一つ。それが、早々にレースから降りて、勝敗から目を逸らしてしまう事だった――――そうでしょ?」

死神の言葉が真実かどうか、それは俺自身にもはっきりとは分からなかった。一つだけ、確かだと言えたのは、それは死神の言葉の一つ一つが、いやに俺の胸を穿った事だった。

「さっきから、ワケのわかんねーコトをベラベラと……」

「そんなに怒らなくたっていいじゃん。たかが図星を食らったぐらいでさ」

「ず、図星ぃ? それのどこが、図星なんだよ!」

「じゃあ、なんでそんなにムキになってんの?」

「……」

 悔しいが、死神の言うとおりだった。いや、正確には、死神によって、今まで形にならなかった何かが、ようやく形を得たかのような、そんな感覚だった。忘れていた物の名前を思い出した、いや、もっと得体の知れない何か―――そう、闇の中に潜んでいた怖ろしい何かに、ようやく光が当てられ、正体が明るみになった、そんな安堵感だった。

「ふん……だからってお前には関係ないだろ」 

再びそっぽを向き、寝返りを打った、その時だった。

「岡崎君?」

ふと、背後で、幽霊のような声が俺を呼んだ。

それは、少しでも風が出ていれば、あっさりと掻き消されていたであろう、季節遅れの蚊よりもはるかに弱々しい声だった。死神の次はゴーストか? いつから日本は、これほど大々的にハロウィンを嗜む国になっちまったんだろう?

「なんだよ」

振り返ると、屋上出口に、見覚えのない一人の女子がぽつんと佇んでいた。

その姿に、俺はとんと見覚えがなかった。俺の名前を知っているという事は、恐らく、何かしらの形で俺と関係がある人物に違いない。だが、当然ながら帰宅部の俺に、部活の知り合いはいない。

自然、知り合いといえばクラスの誰かに絞られる。

「……誰?」

膝下までだらりと伸ばしたスカートに、ウエストを詰めていないセーラー服。髪の毛は染めもせず黒いままで、背中に流して一つに束ねられている。生徒手帳に書いてある注意事項を逐一きちんと守っていたら、きっとこういう外見に落ち着いてしまうんだろう――そんな格好だった。だから皆、校則なんて守りもしないんだが。

生やし放題の眉の上には、これまたパーティグッズでしかお目にかからないような太縁眼鏡。重みのためか、それとも顔の形に合っていないのか、首を上下させるたびに、ガクリと鼻にずり落ちる。

猫背で丸まった背中、俯きがちの顔……とにかく、何もかもが気持ち悪い。

「なんだよ?」

苛立ち紛れに尋ねると、女子はびくりと身じろぎし、所在なげにゆらゆらと身を揺らした。迂闊に眺めていると、見ているこっちが酔いそうになる。

「あの、昨日のメール……」

「昨日の?」

「よ、読んでくれましたか……?」

そういえば、昨夜、クラス委員のナントカという奴からメールが届いていたような気がする。すぐに消してしまったので、今更その送り主の名前を確認する事はできないが。

「ひょっとして、クラス委員の?」

 すると女子は、弾かれたようにはっと顔を上げた。そして、お約束のように眼鏡がずり落ちる。

「は、はい。クラス委員の、鮎川です……」

 ずり落ちた眼鏡を直しながら、女子は再び蚊のような声で答えた。

それは、確かにどこかで聞き覚えのある名前だった。けれども、どこで耳にしたのか、あるいは目にしたのかは俄かには思い出せない。

「その……、メールでも、お伝えしていたと思うんですけど……その、授業に出て頂けませんか? ええと、その……」

そこでようやく俺は、昨夜携帯に届いた奇妙なメールの事を思い出した。かと言って、別に何かが腑に落ちたという訳ではない。むしろ奴の物言いの鈍くささに苛立ちが募っただけだった。蝿が止まるどころか、蟻さえ這い上がりかねない喋り方だ。 

「なんで?」

クラス委員は、再びその顔を上げた。またしても眼鏡がずり落ちる。ネタなのか?

「なんで出なきゃいけないんだ?」

「な、なんでって言われても……」

「なんで、聞いてもわからない授業に、わざわざ出なきゃいけないんだよ。それって時間の無駄なんじゃねーの?」

「む、無駄、ですか? でも……」

 判然としないクラス委員の反論を、押し返すように俺は返す。

「無駄なんだよ。こんだけサボっといて、今更追いつくなんて、できるわけねーし」

「追いつけない……」

いよいよクラス委員は、油が切れた機械のようにぎこちなく固まった。

あまりにも長いポーズ時間に、さては本当に故障しちまったのか? と訝り始めた頃、ようやくクラス委員は、錆びついた口を開いた。

「じゃ、じゃあその、もし、授業に追いつく事ができて、授業を理解できるようになったら……その、授業に出て頂けますか……?」

「さぁ。ま、ムリだろうけど」

「わ、わかりました……」

言うなり、クラス委員はのそのそと階下へ降りていった。

「何だったんだ? あいつ」

 ジャミラのようなその背中を目で追いながら、なんとはなしに傍の死神に声をかけると、死神は、ううむと含蓄を帯びた唸り声で応じた。

「……大きい」

「は? 何が?」

「オッパイ」

 そういえば。思い返すと確かに、先程のクラス委員は随分と胸がデカかった。もっとも、猫背と制服のせいで、その宝は完全に持ち腐れとなっていた。もっとも、あんな痛い風体の女子が、いくら立派な巨乳を誇ったところで、結局は何の価値もありゃしないんだが。



「谷垣先生に電話で聞いたわ。あなた、また授業に出なかったそうじゃない」

食卓で、苛立たしげに白飯を口に運びながら、鋭い口調で母さんは言った。

どうやら今朝の母さんの言葉は、ハッタリではなかったものらしい。学校での俺の様子を猫なで声で尋ねる母さんと、ねば納豆のような声で質問に答える谷垣との粘着質な会話が脳裏に思い浮かび、あまりのおぞましさに、俺はついハンバーグをつつく箸を止めた。

「どうして? 光一の時は、こんなふうに先生から注意を受ける事なんて一度もなかったのに? どうして? あなたはそうやってお母さんを困らせるような事ばかりするの?」

母さんは、なおも穿つような目で俺を睨み据えた。ちなみに今、死神はというと、母さんの小言を嫌がり、俺の部屋に籠もってマンガを読み耽っている。

ちくしょー。俺も死神になりてーなぁ、マジで。

「はい」

「はい、はい、だけじゃあ何もわからないでしょ!」

バン! 怒鳴り声と共に、母さんは持っていた箸をテーブルに叩きつけた。

「ねぇお父さん! 今日こそは、この子に何か言って頂戴! この子ったらもう……」

「うん、母さんの言うとおりだ」

言いながら親父は、箸でハンバーグの端を切り取ると、足元のニャン助にそっと差し出した。

「ほれ、ニャン助」

「お父さん! それ、タマネギが入ってるから、あげちゃ駄目!」

親父は、そうかそうかと呟きながら、その切れ端を自分の口に運んだ。

「お父さんもお父さんよ! あなた、今日もハローワークに行かなかったの? 今朝、あんなに行けって言ったのに……」

「あ、ああ……」

母さんは、それまで俺に向けていた矛先を、今度は親父の方に翻した。一方の俺は、逃げるなら今だとばかりに、残りのハンバーグを一気に口に放り込むと、そそくさと食卓を立ち上がる。このまま家の中に留まっていたら、いつ、また母さんに捕えられ、サンドバッグとされてしまうかわからない。ここはとりあえず、コンビニにでも避難しよう。

玄関で靴を履いていると、二階から「あたしも行くぅ♪」と、跳ねるように死神が降りてきた。ほんと、調子のいい奴め。



貧相な街灯が照らす仄暗い夜道を、死神と二人連れ立ち、とぼとぼ歩く。秋のとば口とはいえ、夜ともなるとそれなりに冷え込む。もう一枚、羽織ってくればよかったと後悔しつつ、ジャージのポケットに手を突っ込む。

「いやぁ、あのお母さんの小言はきついねぇ」

 死神が、うんざりげな溜息と共に洩らした。お前はずっと、俺の部屋に避難してやがっただろうが―――と、喉まで出掛かった苦言を、俺はぐっと飲み込む。母さんの小言を避けたい気持ちは、俺もよくわかる。

「しょーがねーよ。俺は失敗作なんだから」

「失敗作、ねぇ」

「俺が死んだら、きっと諸手を挙げて喜ぶぜ、あのババァ」

すると死神は、いたずらっぽい笑みと共に俺の顔を覗き込んだ。

「じゃあ、―――死んでみる?」

死神の目は、冗談とも本気とも取る事ができなかった。いや、正確には、そのどちらとも言えた。ひたすら楽しげな笑みを浮かべ、じっと俺の目を見据えている。まぁ実際、俺が死んだとして誰も困りゃしないだろう。ものは試しにと、俺は返した。

「なに? やっと殺してくれるの?」

ところが、何が気に食わなかったのか、死神は、やおらツンとそっぽを向き、「やっぱやめた」と、つまらなそうに言った。

「なんで?」

 俺が問いかけると、死神はこともなげに返した。

「今のあんたじゃ、多分、殺してもつまんない」



その翌朝。登校した俺は、机の引き出しに見覚えのない紙の束が突っ込まれている事に気づいた。

「ねぇねぇ浩二。机に何か入ってるよ」

俺の真横で、セーラー服姿の死神がはしゃぐ。

「わかってるよ」

手にとって見ると、それはコピー用紙の束だった。ぱらぱらと捲り、ざっと目を通すと、それらはノートのコピーであるらしかった。ここ数週間の授業で取ったものと思しきノートが、丁寧にも全教科分コピーされ、教科別、時系列順に揃えて重ねられている。誰がこんな余計な世話を? と訝りつつ眺めていると、ふと、それらの紙束の中から、一枚の便箋がはらりと床にこぼれ落ちた。

「なんだろ?」

拾い上げ、便箋を開き、中の手紙を読む。すると、そこには細く淡々とした筆跡で、こんな文面がしたためられていた。

『岡崎君へ

最近一ヶ月分のノートのコピーです。

昨日、岡崎君が、授業に追いつけないので困っていると話していたので、私のノートで良ければと思い、コピーしました。良ければ、お役に立ててください。  鮎川』

「これ、ひょっとしてあの巨乳ちゃんの?」

横から手紙を覗き込んでいた死神が、やおらハイテンションな声を上げた。が、俺は、そんな死神に構わず、再びコピーの束を机に突っ込むと、早々に教室を飛び出し、いつものように屋上へと向かった。



帰宅後、いつものように自室の机に鞄を放ると、鞄の中から、大量の紙束が雪崩れを打って零れ出てきた。

「なんだよ、これ」

机に散らばった紙の中から、適当な一枚を拾い上げる。するとそれは、今朝方、俺の机に突っ込まれていたノートのコピーに他ならなかった。おかしい。こんなものを鞄に入れた覚えなど、俺にはない。―――まさか、俺が屋上に行っている間に、あのクラス委員が勝手にこいつらを俺の鞄に突っ込みやがったのか? 

「ブブー!!」

「は?」

振り返ると、死神はしゃあしゃあと白状した。

「それ、あたしが入れておいたの!」

「お前が?」

「だって、巨乳になれるコツとか秘密を記した暗号なんでしょ? それ」

「ちげーよっ! つーかどこから湧いて出た? その発想!」

その時、階下から母の声が響いた。

「浩二、ごはんよ! さっさと降りて来なさい!」

俺は、舌打ちと共に紙束をゴミ箱へぶち込むと、早々にリビングへと降りていった。



どうにか夕食の席をやり過ごし、部屋に戻ると、死神は、俺の机におびただしい量の紙を広げ、それらを穴の空くほど熱心に見つめていた。見ると、それらの紙は、俺が先程ゴミ箱に突っ込んだはずのコピー用紙に他ならなかった。どうやら死神が、勝手にゴミ箱から紙束を引っ張り出したものらしい。

「おい、何やってんだよ! 勝手に俺の部屋を散らかしやがって」

 苛立ち紛れに詰問すると、死神はいともしゃあしゃあと答えた。

「何って、決まってるじゃん。暗号を解いてんのよ」

「暗号?」

「そ。巨乳暗号」

冗談かと思ったが、死神の声色は至ってマジメだった。気のせいか、背後には炎さえ見える。

「この暗号を解いた時に初めて、巨乳になるための方法が明らかになるの!」

「ない。ないから。絶対」

「黙っててくれない? 気が散るから」

コピー用紙からは目も上げず、死神はぴしゃりと答えた。

「絶対、巨乳になるための方法を暴いてやるんだから」

「へいへい……」

俺は、死神の向学心を邪魔しないよう、早々にマンガを持ってベッドに退散すると、適当なページを開き、黙ってそれを読み始めた。………が。

「ううむ、ないなぁ、こんな単語……」

「あれぇ? おかしいなぁ。うーん」

「えーと、えーと、えーと……」

 間断なく耳に入る呻き声が、どうも神経に障る。

「なぁ、うるさいんだけど」

たまらず、机にかじりつく小さな背中にクレームを入れる。が、死神は振り返りもせず、なおもコピー用紙を睨みながら唸り続けた。

「ううううーん」

「くそっ、聞いちゃいねぇ」

死神への説得を諦め、俺は再びマンガに集中する―――が。

「むむむむ……」

「うほぉぉぉぉ……」

「わからぁぁぁああん……」

「だあああああっ! うるせええええっ!」

たまらず俺は、ベッドから跳ね起き、手に持っていたマンガ本で死神の頭に一撃を食らわせた。もちろん、背表紙の方で。

「やかましーんだよ! このアホ死神!」

「背表紙はひどい! 背表紙はっ!」

「勉強ぐらい静かにやれよ! あと、うぜーんだよ! その、いかにもツッ込んでくれってな雰囲気がよおっ! つーかツッ込んじまったよチクショウ!」

「だってぇ」

頭を押さえつつ、死神は涙目でぼやいた。

「この英文さぁ、AとかBとか、XとかYばっかりで、ちっとも読めないんだよぉ」

「は? 英文?」

見ると、死神が広げていたのは英語ではなく数学のノートのコピーだった。そして、傍らにはまさかの英和辞典が。

「お前さ」

「なに?」

「アホだろ」

「なんでよっ!?」

「いや、だってこれ、英文じゃねーし」

「え?」

途端、死神は、驚きの声と共に目を見開いた。

「ちなみにそれ、英語じゃなくて数学のノートだから。数学の展開式だから。これ」

「そ、そうだったんだぁ……」

同時に俺も驚いていた。ボケじゃなくてマジだったんだ……。



翌日は、ここ数日の曇天とは一変、秋らしい抜けるような青空だった。もちろんその日も俺は、いつものように校舎の屋上で寝そべりつうつ、ぼんやりと空を眺めていた。

俺の傍らでは、死神が必死の形相で“巨乳暗号”の解読に取り組んでいる。今やその手元に英和辞典はない。だが、相変らず主旨を間違えているという点には変わりがない。

まっさらな空に、のんびりとした時間が流れる。

どこかのクラスが、グラウンドで体育の授業でも受けているのだろう。体育教師の鋭い号令に合わせて、不揃いな掛け声が青空に響いては溶けてゆく。

不意に死神が、コピー用紙の一枚を差し出しながら、俺に尋ねた。

「ねぇねぇ、この問題わかんないよ」

死神が指していたのは、どうやら三角関数の問題であるらしかった。sinだとかcosだとかいった英単語が、AやらBやらのアルファベットと共に、紙一面に所狭しとちりばめられている。まあ、このコピーを見る限りでは、死神が英語のノートと見間違えたのも、多少は分かる気がする。

「俺もわかんね。そこやってる時、俺、授業に出てなかったし」

 俺からすれば、その内容はまるでエジプトのロゼッタストーンだ。 

「あ、そう」

軽く流すと、死神は再び、半ば英文にも似た数学の展開式に取り組み始めた。よっぽど巨乳になりたいのか、顔を真っ赤にし、なおも式を睨みつける。どうせ解いたとして、巨乳になれるわきゃないのに。無知ってやつは、つくづく哀れなもんだ。

「どうせ巨乳になんか、なれるわけないって思ってるでしょ?」

「……は!?」

 思いがけず考えを見透かされ、俺は一瞬、不覚にもたじろいだ。一方の死神は、コピー用紙から顔も上げずに続ける。

「でも、わかんないじゃない。解いたら本当に、巨乳になれるかもしれないでしょ?」

「んな事、絶対に、」

「どうせ無駄だからって、高みの見物を決め込んでおいて、そのくせ、自分の立ってる場所が大して高くもない事に気付いてない方が、むしろよっぽど哀れなバカよ」

「……それ、俺の事を言ってんのかよ」

「あんた以外に、誰がいるの」

「くそっ……何かと思ったら今度は説教かよ」

「ああっ、もう難しいなぁ、これ。歴史ならそこそこ自信あるんだけど」

 って、聞いちゃいねぇ。

 再び空に目を向ける。くさくさした俺の気分とは裏腹に、その青はどこまでも爽快だ。

「あんたってさ」

またしても、死神は唐突に口を開いた。何だ? また文句か?

「頭は悪い方じゃないのよね」

「は?」

 文句ではなかった。しかも、まさかの褒め言葉。だが、褒める理由も、意図も何も見えない傍から喜ぶ気にはなれない。さては、こいつなりの太陽政策なのか。

「ただ、なまじ頭がいいもんだから、急いで結果を求め過ぎちゃうのよね。でも、焦ったって結果なんてそうそうすぐに出るもんじゃないし。もっとさぁ、単純に今を楽しめば? どうせ人生なんて一度きりなんだからさ」

「だったら余計に、授業に出る気にならねえよ。楽しかねーし、あんなの」

「じゃあ、ここでこうしてボーッと寝転がってるのは、楽しい?」

「……教室で、ボーッと黒板に向かってるよりは、マシだ」

 死神の問いに、俺は、是とも否とも答える事ができなかった。

正直に言えば、楽しい訳がなかった。せめて、私服に着替えてゲーセンにでも繰り出せば、多少は気も紛れる事だろう。だが、その踏ん切りすら、俺はつける事ができずにいた。ゲーセンへ繰り出すには、俺はまだまだ、自分に対する失望が足りなかったのだ。

 いよいよゲーセンに繰り出すとなれば、その時こそ俺は、自分を完全に見限る事になるのだろう。―――と思った矢先、俺の葛藤など知りもしない死神が、こんな事をさらりと言い出した。

「何なら、ゲーセンにでも行けば?」

「……は? なんで?」

「つまんないんでしょ? 学校なんて。だったら、こんな所で中途半端に腐ってないで、思い切って学校自体、サボっちゃえばいいじゃん」

「ああ……そうだよな」

「どうして行かないの?」

「……行きたきゃ勝手に行く。お前には、関係ない」

 しばし、青空の下に奇妙な沈黙が漂った。死神は、それきり何も言葉を寄越さず、じっと俺の出方を伺っている。一方の俺も、なかなか身を起こす踏ん切りが付かない。

 そうとも。死神の言うとおりだ。俺はどちらに転ぶ事もできずに、中途半端なままで、何も決められずにいる。他でもない、自分の事なのに。いっそ今日こそ、一線を越えてゲーセンに乗り出してしまおうか。刹那的な享楽に身を任せてしまえば、こんな腐った気分からも開放されるのだろうか。

 けど……そうなれば俺は、いよいよ……。

「間に会う、かな、まだ」

 なんとはなしに呟いた、その時だ。

「浩二」

死神は顔を上げると、コピー用紙を突き出しながら悪びれもせずに言った。

「これ、代わりに解いて」

「え? な、何だよ、いきなり……」

「だってぇ、あたしじゃ解けないんだもん」

「……ったく、何なんだよ、お前っ!」

死神からコピーをひったくるなり、俺はすぐさま、コピーに記された数式の展開を目で辿り始めた。と同時に、解を導き出すまでの思考過程を追いかける。

その一方で、俺は不覚にも、強い安堵と仄かな照れ臭さ覚えていた。

俺はまだ、自分を諦めずにいる。

心のどこかで、まだ、崖の淵にしがみつき、落ちまいと努めている自分がいる。

知らない解法にぶち当たるたび、教科書を開き、公式や展開方法の記述を探した。教科書に見つからない場合は、他のコピーから、類似した問題の展開式を探す。

しばし、それらの参考材料を眺めすがめつし、ようやく、理屈が俺の頭で立体を成すようになった頃、俺は再び、先程の問題を見直した。―――すると。

「あれ?」

「どうしたの? 浩二」

「あ……いや、なんつーか……」

「ん?」

「わかった、ような気がする」

すかさず、死神の手からシャーペンを奪い取ると、俺は、頭に浮かんだ展開式が脳の中で形を失わないうちに、まっさらなノートへ一気に書き記した。

「だからさ、ここはまず、こうして、この式を展開して……そうして得られた値を今度はここに……」

死神は、俺の傍でふんふんと頷きながら、ペン先が描く軌跡をひたすら見守っている。

それは不思議な感覚だった。先程まで、異国の言葉にしか見えなかったはずの例題の解法が、最初から最後まで、手に取るようにはっきりと理解する事が出来たのだ。練習問題を解く際も、式を展開すると言うより、単に頭の中のものをノートに書き付けるだけでよかった。

「ほれ、これで値が出る」

「おおっ! ほんとだ」

心底感服した体で、死神は感嘆の声を洩らした。

「ま、まぁ、これぐらいはな。基本問題だし」

「じゃあさ、次はこれと、これ!」

 言いつつ死神は、今度は別の紙を俺に突きつけてきた。

「えー。次はお前が解けよ」

「そんなつれない事ばかり言ってたら、オッパイ大きくなっても揉ませてあげないから!」

「だからさ、そういうの、いらねーつってんだろ!?」

またしても、死神はむう、とむすくれた。痴女か、こいつは。

「わかったよ。解いて見せればいいんだろ?」

こうして、屋上における、アホがバカにモノを教える珍妙な個人授業は続けられた。

どれぐらい、かかりきっていたのだろう。

気が付くと、青かったはずの空はいつしか薄紅色に染まり始めていた。つるべ落としにも喩えられる秋の太陽が、西の山並へ吸い込まれてゆく。気が抜けるようなブラバンの管楽音が、夕暮れの空に高く溶ける。耳を傾けていると、そこはかとなく切ない気分にさせられる。不細工だが物悲しいその音は、何故か澄んだ夕景によく似合った。

手元のノートは、すでに数ページに渡って英文のような展開式に埋められていた。久々にフル稼働を強制され、ややオーバーワーク気味となった頭が鈍い痛みを訴える。

「そろそろ、帰るか」

身体を起こすと、死神は俺を見上げながら、またしても不満を露わにした。まるで、ゲームの途中で親にコンセントを抜かれてしまった小学生のようだ。

「えー? もう終わるの?」

「だってさ、こんなに暗いんじゃ、文字がよく見えねーだろ? 続けるにしたって、ここじゃあもう無理だぜ。続きは家に帰ってから。いいな?」

 俺の提案に、死神は不承不承頷いた。



教室へ戻ると、夕刻の教室はすでに人気も失せ、仄暗い薄闇によって完全に侵食されていた。鞄を肩に掛け、教室を後にする。すると背後で突如、死神が歓声を上げた。

「おおっ、新作の暗号みっけ!」

 振り返ると死神が、またしても俺の机からコピーの束を掘り当てていた。昨日のコピーの束は、すでに鞄にしまってある。つまり、それは昨日のものとは別のコピーである、という事だった。

「はぁ、いらねーし……もう」

ところが、それらをゴミ箱に放りかけた俺の手を、死神がガシと掴んで止めた。

「新しい暗号っ!」

「は?」

見ると、赤い瞳の奥で、溶鉱炉よりもなお激しい炎がめらめらと燃え盛っている。どうやら本気で暗号を解読してやりたいらしい。

「……わかったよ」

やむなく俺は、それらの束を鞄にしまい込んだ。



その夜は、夕刻の約束どおり、俺はきっちり死神の暗号解読に付き合わされた。死神が知りたいという解法があれば、まずは俺がその解法を理解し、それを死神に解説する。そんな事を繰り返すうち、俺は、今更ながらとんでもない事実に気が付いた。

 難しい。問題を解く事が、ではなく、解法を説明する事が。

 考えてみれば、それは当然の事だった。教える側がきちんと理屈を理解していなければ、教わる側を正解へとナビゲートする事など、当然できるはずがない。思いつきやカンだけで、解を導く事は許されない。あらゆる解法に理由を求められる。つまり、より明確な理解が必要となってくる。

「ねぇー、これは?」

 机に向かう死神が、傍らで様子を眺める俺に尋ねた。それは、基本問題よりもなお、一段と難易度の高い応用問題だった。

「え? ええとそれは……」

ローファイな頭をひねりつつ、死神の隣でうんうん唸っていると、追い討ちをかけるように死神がぶうたれた。

「ねぇねぇ、早く解読してよ」

「ちょっと待てよ……今、考えてるんだからさ。俺のアタマの出来ぐらい、お前だって良く知ってるだろ?」

「じゃ、お兄様に訊いてきてよ」

「訊きたいならお前が行けよ」

「そうしたいのは山々だけどさ、あたしの姿、お兄さんには見えないもん。それに、ほら、声だって届かないでしょ?」

「あ、そうか」

そこで、はたと目についたのが、さっきから死神がノートに書き付けている、下手っくそな数字やらアルファベットの文字列だった。

「筆談じゃ駄目なのかよ?」

 我ながらナイスな俺の提案を、しかし死神は、「いやっ!」と、即刻却下した。

「だって、あたしの文字ってすんごく汚いんだもん! こんな文字をお兄様に見られた日には、あたし、恥ずかしくて死んじゃう! 死んじゃうよっ!」

そう。死神は、絶望的なまでに文字が下手くそだった。0は6に見えるし、9は1に見える。挙句、自分で書いた数字を見間違えては、下らない計算違いを引き起こし、俺の教え方がまずいのと言って八つ当たりをかます。

「だったら、もっと綺麗に書けばいいだろ?」

「いやっ、でも無理! 女子として、これだけは見せられない!」

「俺には見られてもいいのかよ」

「うん。だって、あんたはそういう対象じゃないもん」

 ふん。どうせ俺は、兄貴と違ってモテませんよっと。

「……わかったよ。兄貴が帰ってきたら、一緒に訊きに行ってやるから」

「やった!」

 死神は、満面の笑みでパンと手を叩いた。



夜も十一時を過ぎた頃のこと。車庫の方で聞き慣れた車のエンジン音がし、兄貴の帰宅を察した俺と死神は、すぐさま階下に降り、兄貴を出迎えに玄関へと向かった。すると、今まさに玄関へ上がる兄貴と鉢合った。

「お帰り」

「お帰りなさいませ! お兄様っ!」

ところが、兄貴からの返事は、なかった。

無言のまま兄貴は、まるで砂袋を引きずるような足取りで俺達の傍をすり抜けると、そのまま俺の姿など見なかったかのように、ズルズルと階段を上がって行った。

「お、お、にい、ざまぁ……」

「?」

見ると死神は、すでにそのガーネットの瞳を、蒟蒻ゼリーのようにプルプルと震わせていた。

「い、いぐらあだぢの姿が見えないどわいえ……ガン無視わ、づらずぎまずぅぅ」

「何言ってんだよ、お前。姿が見えないんなら無視されてもしょーがねーだろ?」

とはいえ、先程の兄貴は確かに、いつもと様子が違っていた。

「ううう……えぐっ、えぐっ」

「多分、今は疲れてるんだよ。質問は後にしようぜ」

すると死神は、しゃくり上げつつもこくこくと頷いた。



風呂から上がった兄貴がキッチンで一息をついた所を見計らい、俺(と、死神)は思い切って兄貴に声をかけた。

「な、なぁ、兄貴」

「え……?」

スゥエットに眼鏡姿の兄貴は、声をかけられるなり、ぼんやりした顔をこちらに振り向けた。戸棚に延べられたその手には、以前、死神が「おいしそ」とぬかしていた薬の袋が握られている。

「どうしたんだい?」

 その顔は、笑みを浮かべつつもどこかやつれている。疲れているのかな、と気兼ねしつつも、俺は二階から持参したノートとコピー用紙を兄貴に差し出した。

「ちょっとさ、解らない問題があるんだけど……」

すると兄貴は、虚を突かれたように、眼鏡の奥の目を丸く見開いた。そんな俺の傍らでは、ミラーボールのように瞳を輝かせた死神が、何かを待ちわびるように立っている。けれども兄貴の目は、終始俺の方にしか向けられず、死神の方には一度も目線を送る事がない。やはり、兄貴には死神の姿は見えないようだ。

「わからない問題?」

「あ、ああ……」

 久々の事で、いやに照れ臭い。兄貴が東京に進学する前、俺がまだ小学校の時分には、頻繁に質問を持ち込んでいたのだが。

「どの科目の、どんな単元? 覚えていたら、答えられるけど」 

「す、数Ⅱの……三角関数」

「あぁ、サインとかコサインのやつだろう。うーん、覚えているかな……」

兄貴は、微笑の中に微かに困ったような色を浮かべだ。

「おいおい、東大を現役で通った奴が、なに頼りない事言ってんだよ」

「は、はは……。そこは、頼むから触れないでほしいな」

それから俺と兄貴は、すぐさまダイニングテーブルにて、くだんの応用問題とのタッグバトルを開始した。テーブル脇では、天板の上で立て肘をついた死神が、兄貴の筆跡を真剣な眼差しで追っている。

「ええと、確かこの場合、どの定理を使うのが良かったかな……?」

兄貴は、ペンの尻でポリポリと頭を掻いた。

「大丈夫かよ? 兄貴」

「うーん、ちょっと待ってね。思い出すから」

やはり、高校どころか、すでに大学を出て数年も経つ人間に、高校の授業内容を尋ねる事は無理があったのか? ―――などという心配は、ほどなく杞憂に終わった。

「あ、そうそう、思い出した」

「お?」

「そうだ。こういう時は、加法定理を上手く使ってだね」

今やすっかり単元の内容を思い出したらしい兄貴は、つい先程まで右に左にと頼りなく蛇行させていたペンを握り直すと、突如、サラサラと流麗な軌跡を描き始めた。

「で、このAに、さっきの式を代入して」

「うん……うん……」

「さっすが、おにいさまっ♪」

傍らの死神も、すっかり兄貴の筆跡に魅入られ、目をきらきらさせながら、ははぁ、だの、ほう、だのと妙な声を上げている。その時ふと俺は、部屋の時計がすでに一時を指している事に気がついた。

「そういや、兄貴」

「なんだい?」

「明日も仕事だろ? 大丈夫なのか? こんな時間まで」

「大丈夫って、何が?」

「何が、って、仕事だよ。明日も早いんだろ?」

すると、それまで楽しげにペンを躍らせていた兄貴の手が、はたと止まった。

「……いいんだよ」

「え?」

いつしか兄貴の顔からは、それまでの楽しげな笑みが消えていた。

「構わないよ。―――構わない」

「……?」

結局、深夜の個別授業が終了したのは、すでに午前は三時を回った頃だった。

「浩二、また解らない所があったら、いつでもおいで」

「サンキュー。――――あ」

ふと俺は振り返り、部屋に戻りかけた兄貴の背中に声をかけた。

「なぁ兄貴」

「何だい?」

「その……最後に一つ、訊いていいか?」

「うん」 

「お、俺さ……、行けると思うか? 兄貴みたいに、いい大学……」

兄貴は、口元に笑みを浮かべつつ答えた。

「もちろん」

部屋に戻るなり死神は、しどけなくベッドに寝転び、くうくうと寝息を立て始めた。相変らずの無防備ぶりに、よもやこいつは誘っているのではないかとさえ思えてくる。

「……ったく」

布団をかけてやると、死神は、またしても扱いに苦しむ寝言をほざいた。

「ほらほらぁ、浩二ぃ。巨乳だぞぉ~。揉めぇぇ~」

「アホ」

机を振り返り、今やびっしりと数式で埋められた黒いノートを眺める。 

「もちろん……か」

今日は、数学だけでも授業に出てやろうかな。



「お? 岡崎。今日は珍しいな」

授業開始早々、数学担当の楠田は、俺の顔を見るなり糸のような目を一杯に見開いた。

「……はい」

俺の返事の仕方が気に食わなかったのか、傍らに置いた椅子に腰掛けた死神が、俺の脳天に鋭いチョップをかます。

「いて!」

振り返ると、死神は俺をぎろりと睨みながら言った。

「なによ、もっとしゃきっと返事しなさいよ」

「お前は黙ってろよ!」

「何だ?」

俺の声に応じたのは、楠田の方だった。慌てて黒板の方に向き直ると、怪訝な顔で俺を凝視する楠田と目が合ってしまった。周囲の席から、押し殺したような笑い声がちらほらと漏れる。

「今、何か言ったか? 岡崎」

「あ、いえ、何も」

しまった。死神の声が俺以外の誰にも聞こえないであれば、死神への俺の返事は、いずれもただの怪しい独り言か、下手をすると、痛い誤解を招く暴言に聞こえてしまう。つまり、今の俺は実質、完全なノーガード状態。死神に何を言われようと、文句の一つも返す事ができない。

楠田は、怪訝な顔のまま手元の教卓に目を落とすと、早速、教鞭を振るい始めた。深緑色だった黒板が、次第に、展開式という名の白い霞に覆われてゆく。俺は、そんな黒板と手元のノートをしきりに見比べながら、それらの展開式を必死でノートに写し取っていった。だが、いかんせん写す作業に手一杯で、肝心の理論をリアルタイムで追いかける事まではとても手が回らない。その様は、さながら写経である。般若心境ではないものの、次第に精神が妙なゾーンへと踏み込んでゆく。この分だと恐らくニルヴァーナも近い。

「で、ここで、この定理を使って……」

ここ、だの、このだの言われても、指示語が示す式の場所がわからない。不安になった俺は、右に左に、斜め後ろにと、密かに首を巡らせては周囲の様子を観察した。皆、一心不乱に写経に専念している。いや、連中の場合、写経ではなく本当に内容を理解しながら写し取っているのかもしれない。

残念な事に、楠田はひどい癖字の持ち主だった。さらに、式が黒板の端に差し掛かるたび、どうにか式を板に収めようと文字を曲げるものだから、ただでさえ読みづらい文字が、いよいよ古文書の様相を帯びてゆく。

俺は、ノートの端にこう記し、死神にそっと差し出した。

『お前、前に行って、あの板書を書き写してきてくれ。文字が小さくてよく見えない』

すると死神は、ペンを取り、俺と同じくノートに言葉を記した。いや、お前が筆談する必要なんて、そもそもないんだけど。

『めんどい』

「め、めんどいって何だよ」

思わず、声を上げて返事すると、またしても周囲のクラスメイトが、俺に訝しげな目を俺に寄越した。

「横着しないで、自分で書き取りなさいよ。あんた、死神をただの小間使いとでも思ってるわけ?」

「そ、そこまでは言ってないだろ?」

声を抑えて返すと、死神はとんでもない言葉を寄越した。

「そうねぇ、じゃ、あたしの前にひざまずいて『愛しの死神さまっ! ボクはあなたの愛なしでは一秒とて生きてゆけませんっ! この哀れな巨乳フェチ変態ブタ野郎に、どうかあなた様の御慈悲をっ!』って言いながら足に頬ずりしてくれたら、まぁ、考えてやらなくもないわ」

「ドMか、俺はっ!」

 思わず怒鳴り声を上げてしまった俺に、案の定、教室中から針のような視線が俺に集中した。顔を伏せつつ、そっと死神のほうを振り返る。すると死神は、してやったりの笑みと共に、脇から俺の顔を覗き込んできた。

「なーんちって。横着な事を考えるからいけないのよ」

「くそ……ぜってー後でエロい事をやってやる」

こうして、長いブランクを経た俺の復帰第一戦は、惨憺たる結果で終わりを迎えた。



とっぷりと暮れた空の下、俺は死神を荷台に乗せ、チキチキと重いペダルを漕ぎながら家路を辿った。気のせいか今日は、いつもの五倍は疲れた気がする。

国道沿いの歩道で、信号が青に変わるのを待っていた時の事だった。俺の携帯が、不意にメールの着信を告げた。

「メール?」

死神が、携帯の液晶画面を覗き込んでくる。だが、はたきのような横髪が俺の視界を遮り、画面が見えなくなる。

「おい、見えないだろ。どけっ」

「ふぎゅ」

顔を押し退けると、死神は、饅頭屋の蒸し器のようにぷんすかと噴気を上げた。そんな死神には構わず、メールを開く。差出人は、またしても例のクラス委員だった。

「鮎川?」

俺の呟きに、死神の目がギラリと光る。

「なになに? 巨乳になれる方法?」

「ちげーよ、つか、いい加減に巨乳から離れろ」

 メールには、このような短い文章が綴られていた。

『岡崎君へ

今日は、授業に参加して頂いてありがとうございました。

明日も、同じく授業に参加していただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。  鮎川』

「くそっ、何様だよ、あいつ!」

俺は、返信する事なく速攻でメールを削除すると、今し方青に変わったばかりの横断歩道へと、重いペダルを漕ぎ出した。


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よろしくお願いします。

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