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二章

白々と光る蛍光灯の下、俺の椅子に座ってぐるぐるとスピンを楽しんでいたのは、夕刻、コンビニで捲いたはずの、自称死神少女だった。

「どうしてお前が、こんなところに……」

「どうしてって、家に帰れって言ったのはそっちじゃん」

「あれは、お前の家に帰れって意味だったんだ」

「だからぁ、ここがあたしの家なの」

なおもぐるぐると回りながら、少女は床を指差した。彗星の尻尾のような髪束が、ブンブンと空を薙ぐ。

「俺の椅子で遊ぶな!」

がしっ、と背もたれを掴み、強引に椅子を止める。すると少女は途端に目を回し、マタタビを嗅いだ猫のようにくらくらと頭をふらつかせた。

「うへぇ、きもちわるい……」

「自業自得だ」

「人間のくせに死神をいじめるなぁ! 死神虐待だぁ! 訴えてやる!」

「別に苛めてねーし。ってか、まず俺の部屋から出て行け! お前みたいに変な格好した女を部屋に入れてるなんて知ったら、あのババァ、何と言うか……」

「大丈夫だよ。あたしの姿はあんたにしか見えないんだから」

「いい加減な事を……」 

ほどなくして平衡を取り戻した少女は、俺の困惑に構わず、今度は鼻歌交じりに俺の机を弄り始めた。そして、ついには机に放ったままの俺のショルダーバッグに手を伸ばすと、持ち主の断りもなく勝手に開いた。

「人の話を聞け! 早く部屋から出て行け!」

が、少女はなおもバッグを漁り続ける。

「あ! いいものみっけ!」

やがて少女は、嬉しそうな声と共にバッグから一枚の紙切れを引っ張り出すと、机の上にそれを大きく拡げて見せた。

何かと思い、覗き込むとそれは、先日学校から返却された、前回の模擬テストの判定表だった。紙面には、これまでの模擬テストの点数が、時系列と共に折れ線グラフとして表示されている。グラフの線は、右へ至るに従い綺麗な下降線を辿り、俺の成績が、時を経るに従って順調に下り坂を転がり落ちつつある様をはっきりと示していた。あまりにも目の当てられない結果に、受け取った傍から鞄に突っ込み、そのまま放置していたのだった。

「な、何見てやがる!」

判定表を取り戻すべく、俺はすかさず少女の背中に飛び掛った。が、少女は俺の攻勢をひらりとかわし、なおも判定表を眺め続ける。

「返せよ! 勝手に見るな!」

「やーだよっ。ってゆーか、これマジでヒドすぎ!」

少女は、細い顎を天井に突き出し、ケラケラと耳障りな笑い声を上げた。

「わ、わかってるよ……。お前には関係ないだろ!」

「あるよぉ。だってあたしはあんたの死神なんだから」

「死神なら、なおのこと関係ないだろ! つか、死神なら、なんで俺を助けた!」

その言葉に、ようやく少女は判定表から顔を上げた。

「助けた?」

「そ、そうだよ……死神なら、いっそあの時、俺を見殺しにしてくれればよかったんだ」

「なんで?」

「そ、そりゃあ……俺なんか、生きてても、何も意味ないし」

「あー、そういうメンドくさい話、パス」

 えっ、ここでまさかのスルー!? 

「はぁ? じ、自分で訊いといて、なっ何だよ! しかも、面倒くさいって!」

 だが、少女は俺の言葉には答えず、代わりに、ハズレ映画を見終えた観客のような声でボヤいた。

「あーあ。お兄さんだったら、目を瞑っていても受かるんだろうなぁ、こんな大学」

確かに、死神が眺める判定表には、兄貴なら風邪を引いたままテストを受けても合格するだろう大学名の横に、ことごとくEの文字が記されている。合格率一〇パーセント以下、志望そのものを考え直しましょう、という意味の、最低ランクの判定だ。

あれ? つーか何でこいつ、俺の兄貴の事を?

「どうして、お前―――」

「知ってるよぉ」

「は?」

「あんたの事なら、何でも知ってるよ。あんたの初恋の相手が、小三の頃同じクラスにいたアイリちゃんって名前の女の子だった事も、右足首の傷痕が、五歳の時に花火でふざけてた時についた火傷の痕って事も、最後のおもらしが、実は小五の時だって事も……」

「ちょ、ちょっと待て! なんでお前がそんな事を知ってる!?」

そんなはずはない。初恋の相手や火傷の原因はともかく、寝小便の件など、夜中にこっそり自分で布団を洗ったものだから、親でさえ知らない情報のはず。

「だって、あたしはあんたの死神だもん」

「お、俺の、死神?」

「そ。あんたの死神。死神は何でも知ってるんだよ。担当する人間の事なら何でも」

 なるほど、あくまでも死神説に持ち込むつもりか。つーか何だよ、俺の死神って。

「だ、だから何だよ……だからって、お前が死神だって証拠にはならないだろ?」

「うーん、どうすれば信じてくれるかなぁ」

 人差し指を顎に添え、少女は、生まれて初めて蝶を見た子犬のように、コテッと小首を傾げた。扱いにくいキャラにさえ目を瞑れば、かなり好みのタイプではあるのだが。あと、もう少し胸が大きければ。

「ほら、例えば、死神なら持ってるだろ? デカい鎌とかさ」

「うん。持ってるよ」

 嘘つけ。そんなキワどいミニスカワンピのどこに、そんなデカいものを隠す場所があるってんだ。ドラえもんか、お前は。

 嘘と知りつつ、敢えて俺は意地悪な質問を奴に寄越してみた。

「じゃあ見せてみろよ」

「えー、やぁよう。あれ重いし、それにかさばるんだもん」

「そういう問題かよ! つーか、やっぱ持ってねぇじゃねーか」

「持ってるもん!」

少女は、頬を膨らませ、ことさらムキになってみせた。

なんなんだ、こいつ。そもそも、こんな派手な格好をした奴が、死神だ? 笑わせるな。死神と自称するからには、例えば葬式の参列者よろしく、もっと粛々として然るべきだ。にも関わらず、何なんだ、こいつの全身からバシバシと伝わる、FMのオサレパーソナリティみたいな溌剌とした空気は。せいぜい死神らしさを見出す余地が残っているとすれば、その透けるような白い肌と、黒いワンピースぐらいだろうか。だが、辛うじて残されたそれらのホラー要素も、こいつのテンションと雰囲気に巻き込まれ、せいぜいハロウィン用の仮装か、アダムスファミリーのコスプレ位にしか見えやしない。

いや、格好の如何以前に、取り憑いた相手を助ける死神なんて、そもそも行動と存在意義が矛盾している。

「……わかったわかった。じゃあ、そいつを見たら、部屋から出て行ってくれ」

ついに自称死神への追及を断念した俺は、読みかけのまま放っていた雑誌を取り上げると、ベッドに腰かけ、先程の続きを読み始めた。だが、机の方から時折聞こえる、「うわ」だの「ひどい」だのという独白が、ちょくちょく俺の読書を阻害する。ついに我慢ならなくなった俺は、とうとう顔を上げ、自称死神に向かって怒鳴りつけた。

「お前さぁ、もうちょっと静かに―――」

ところが。

「え?」

 目の前に立っていた思いがけない人物の姿に、俺は思わず文句の続きを飲み込んだ。

「あ……兄貴?」

 そこには、俺の怒鳴り声に驚いて目を瞠る兄貴の姿があった。どうやらたった今、会社から帰ったばかりなのだろう。普段であれば帰宅後すぐジャージに着替えるはずの兄貴は、未だにスーツを羽織ったままの姿で、俺の机の前に立ち尽くしている。

「これ、この間の模試の判定?」

言いつつ兄貴が俺に広げて見せたのは、つい先程まで自称死神が眺めていたはずの、俺の判定表だった。たまらず俺はベッドから跳ね上がり、飛びつくように兄貴の手から判定表をひったくる。

まさか、よりにもよって一番見られたくない奴の手に、判定表が渡っちまうなんて!

「か、勝手に見るんじゃねーよ!」

「あ……ごめんごめん。廊下に落ちてたもんだから、つい」

「は? 廊下に?」

その時、不意に俺は背後から肩を突っつかれた。振り返ると、いつしかベッドに腰掛けていた自称死神が、してやったりの顔で俺を見上げている。

「おっ、お前のせいかよ!?」

「あったりぃ」

「ど、どうしたんだい? 浩二」

 振り返り、兄貴に向き直ると、兄貴はひどく青褪めた様子で訊ねた。

「だ、誰か、そこにいるのかい?」

先程まで柔和だった兄貴の顔が、何故かみるみる強張ってゆく。

「誰っていうか……ええと、学校から帰る途中に出くわして、勝手について来ちまった、っていうか」

「えっ……出くわして、取り憑かれた?」

「いや、取り憑いて来たんじゃなくて、ついて来たんだって」

 だが、俺の背後を伺う兄貴の不安げな視線は、少女を捉える事なく、なおも虚をさ迷い続けている。ちなみに兄貴は、こんな下らない冗談で人を担ぐような人間ではないし、それ以前に、冗談自体が苦手だ。

 見えて、ないのか? マジで。

「そ。だから言ったでしょ?」

 背後で、死神少女が得意気に言った。

「あたしの姿は、あんた以外には見えないの。どう? やっと納得してくれた?」

「な、納得ったって……」

「なぁ浩二、やっぱり、そこに誰かいるのか?」

 兄貴の声が、いよいよ上擦る。これ以上、少女の言葉を突っ撥ねたところで、兄貴を無駄に恐怖に陥れちまうだけだ。

「……いねーよ、誰も」

 そう。少なくとも、兄貴にとっては。

「ほ、本当かい?」

「ああ。勝手に俺の判定表を見られた腹いせに、ちょいと驚かせただけだ」

「なんだ……良かった」

 そして兄貴は、心の底から安堵したかのような表情で、ほっと胸を撫で降ろした。一方で、自身に一杯を食わせた弟に対する怒りは、微塵も顕す様子はない。

 俺は今まで、兄貴が声を荒げた場面に、一度たりともお目にかかった事がない。常に菩薩のような笑みを浮かべる兄貴の柔和な雰囲気は、特に、親父が退職する前の、常に臨戦状態の緊張感を強いられていた家族の中においては、唯一のよすが、精神面における俺の貴重な緊急避難所だった。もちろん、親父が退職した今でも、その役割は変わらない。

「そういや、今日はやけに帰りが早かったな」

 卓上時計に目をやると、時刻は未だ八時を回ったばかりの頃合だった。普段は日付を跨いだ頃にようやく帰宅する事の多い兄貴が、こんな時刻に帰るのは本当に珍しい。

「あ、ああ……今日はちょっと」

 いまいち歯切れの悪い答えをよこす兄貴の顔は、幽霊話を終えてもなお、一向に血色を取り戻す様子を見せなかった。会社で、何らかのトラブルでも生じたのだろうか? いや、その場合、むしろ帰りは遅くなるはずだ。

「具合でも、悪いのか?」

俺の質問に、兄貴はしかし、曖昧な笑みで応じるのみだった。 

「浩二は、相変らず数学が得意みたいだね」

「―――は?」

 突然、話をこちらに回され、俺は一瞬戸惑った。

「さっきの判定表の数字……数学だけが他の教科より抜きん出ていた」

「あ、ああ……」

得意、と言えど、その偏差値は、数学にさほど力点を置かない文系コースに進んだはずの兄貴に遠く及ばない。俺の方は理系コースだってのに。兄貴はあくまで、真面目に寸評を加えているつもりなのだろう。だが俺は、これ以上に堪える嫌味を他に知らない。

「数学は、覚える事が少なくて比較的楽なんだ。その……、他の科目は、暗記しなきゃいけない言葉が多くて、面倒だから」

「うん、わかる」

そこで兄貴はしばし思案し、やがて再び口を開いた。

「僕が思うに、数学が出来るのなら、他の教科も必ず上がると思うんだ。数学的な考え方、論理の組み立て方は、他のいずれの教科にも通底するものだからね。まずは数学をうんと伸ばしてごらん。それから他の教科にも少しずつ手を伸ばすといい」

「……無駄だよ。俺みたいなバカは、何をやっても、」

「浩二」

俺の言葉を強引に遮ると、兄貴は俺に判定表を突き付けながら、いつもの韓流スマイルで言った。

「大丈夫。浩二ならできるさ」


それから兄貴は、しばらく俺と他愛のない会話を交わし、ほどなく部屋を後にした。

「おおー。トランポリンみたい!」

振り返ると、少女―――いや、もういい、死神と呼ぶ事にしよう。とりあえず、普通の人間でないという事だけはわかった―――は、マットレスのサスを活かし、ベッドの上をボンボンと跳ね回っていた。

「おい、遊ぶなっ!」

よく見ると、跳ねるたびに黒いワンピースの裾が捲れ、陶磁器のような足がちらちらと露わになっている。

「お、おい、あんまり暴れると、その」

「ん? どした」

「み……見えるぞ」

すると、死神は跳ねるのを止めてベッドから飛び降り、卵のような顔をずいと俺に突き出すと、挑発的な笑みを浮かべて言った。

「本当は見たいくせに」

「み、見たくねぇ!」

「誤魔化しても無駄だよぉ。あんたの考えてる事なら何でもお見通しなんだから」

言いながら死神は、指先で俺の頬をツンツンと突っついた。

「でも、見せてやんない」

 一瞬、期待した俺がバカだった。

「ああ、結構結構! 誰が好き好んで見るかよ! 死神のパンツなんかよ!」

「あ。やっと分かってくれたんだ。あたしが死神だって」

「……ま、まぁ。兄貴の反応を見りゃ、そりゃ……」

「そう……お兄様には見えないのよね。あたしの姿って」

「らしいな」

と、つい今し方まで、クリスマスイブの子供のようにはしゃいでいた死神は、はたと騒ぐのをやめ、肩を落としてうなだれた。

「どうした、急に落ち込みやがって」

「だってぇ、いくらお兄様に恋い焦がれても、姿が見られないんじゃ恋が成就するわけないじゃない」

「は? お前、兄貴の事が好きなのか?」

「そうよ、悪い?」

「いや、悪いっつーか、だってお前は、」

「あーあ。姿さえ見てもらえたなら、そんじょそこらの人間のメスには勝てる自信があるんだけどなぁ」

 随分な自信だこと。だが、確かに死神の自認するとおり、その見栄えの良さは常人の天井を大きく突き抜けている。そもそも人じゃないんだから当然と言えば当然なのだが。

 そんな死神に惚れ込まれる兄貴もまた、我が兄ながら只者じゃない。

兄貴は、昔からたいそう女子にモテた。俺が知っている限りでも、高校を卒業するまでに少なくとも二〇人の女子に告白されている。兄貴が高校に通っていた頃は、兄貴会いたさで家の前に押しかけて来たおねいさんに、兄貴の居所を教えてくれとせがまれたり、カワイイと言っては頭を撫でくり回される事が多々あった。お陰で俺も、異性への興味が目覚める頃にあって、年上の女性と触れ合う機会を得るという、貴重なおこぼれを頂戴する事が出来た。

きっと今も、会社では女子社員などから引き手あまたなんだろうな。俺と違って。

「けど、もし姿が見えちまったら、惚れるより先に怯えるぜ、兄貴の奴」

「平気よ。あたし幽霊じゃないもん」

「でも、死神なんだろ?」

「でも、幽霊じゃないもん」

 そして死神は、その白い頬を、巣篭もり前のリスのように膨らませた。


風呂を浴びるべく、洗面所に入ると、風呂場からの熱気がむわりと顔をなでた。石鹸の清涼な匂いの中、汗で湿ったシャツを脱ぐ。

その時、ふと俺の目に、洗面台の鏡に映る自分の姿が映った。背格好は、兄と大して変わる所はない。だが、兄と違い俺の場合、顔からも姿勢からも内面の阿呆ぶりが遺憾なく滲み出ている。ざっくり言うと、品性と知性と締りがない。おまけに俺の目は、スーパーの鮮魚コーナーに並べられ、半額シールを貼り付けられた、パック詰め魚の白く濁った目玉を想起させる。人として、少なくとも若者として終わっている目だ。

「出涸らし……か」

俺は知っている。かつての兄貴を知る学校の先生達が、陰ながらに俺の事をそう呼んでいるという事を。

そう。確かに、俺は出涸らしだ。


風呂から上がり、自室に戻ると、死神は部屋主の許しもなく勝手にベッドの上に横たわり、無防備に白い足を投げ出したまま一心不乱に俺のマンガを読み耽っていた。しかも、その身にまとっているのは、先程までのワンピースではなくクローゼットにしまいこんであった俺のTシャツである。

「おかえりー」

死神は、漫画から顔を離すそぶりもなく応じた。

「お前、なに勝手に俺の服着てるんだよ!」

「ダメなの?」

「ダメに決まってるだろ! しかもそれ、完全に部屋着じゃねーか! くつろいでんじゃねーよ! さっさと自分ちに帰れ!」

「あたしの家はここだもん」

「まだそんな事を……って、お前それ、何読んで、」

読んでるんだ、と言いかけた俺は、そのタイトルを見るなりすかさずベッドに飛びついた。が、死神は、あたかも俺の動きを読んでいたかのようにひらりと起き上がり、あっさりと俺の突撃をかわす。

一方の俺は―――ガン!

「てえっ!」

目の前で花火が炸裂し、続いて頭蓋骨がぐらりと揺れた。

壁際でうずくまり、鼻を押さえ、熱を帯びた痛みを何とか遣り過ごす。どうやら俺は、鼻から先に壁へとダイブしてしまったものらしかった。

ようやく痛みが激痛から鈍痛へと変わり、涙目のまま振り返ると、死神は、まるで俺の衝突事故などなかったかのように、相変らず平然とマンガを読み耽っていた。死神が手にする本の表紙には、アヒル座りを決め込んだメイド服姿の少女が、はだけて露わになった巨乳を手ブラで覆い隠しながら(正確には隠しきれていないが)物欲しそうにこちらへ上目遣いをよこす痛いイラストが載っかっている。

「つか、何読んでるんだよ、お前!」

「んとー『ロリっ子メイドご奉仕日記・発育良くてゴメンなさい』」

「そーじゃねー! つか、フルで音読するなぁっ!」

「あははは。浩二ってばホント、巨乳が好きだよねー」

「う、うるさい! 巨乳は男のロマンなんだ! 女子供が口出しするなっ!」

「ちっちゃいロマンねー。度量が現れてて痛いわ」

「と、とにかく返せ! 女がそんなエロい本読んでんじゃねぇよ!」

「はーいはい」

死神は渋々、俺のエロネタ倉庫であるベッドの下へと本を戻した。シャツには飽き足らず、人の秘蔵ネタまで漁りやがって。ある意味、母さんよりタチが悪い。

戻した後で、死神は自身のシャツをピンと張り、まな板を俺に突き出しながら言った。

「ねぇねぇ浩二。あたしの胸、やっぱり小さい?」

「はぁ?」

死神の胸は、はっきり言ってしまうと、等高線など一本も入らない見事な平野である。弥生人であれば稲作でも始めそうな平坦地だ。

「小さい。つか、ない」

俺が頷くと、死神はやおらガーネット色の瞳を震わせ、うるうると潤ませた。

「な……ないんだ……やっぱ」

「へ?」

「うっ、うううぅう……うぇえええん、やっぱりあたし、貧乳なんだー!!」

「な、泣く事ぁないだろ!」

つーか、貧乳を気にして泣く死神なんて話、聞いたことねーぞ。

「あたしも大きいおっぱいが欲しいよう!」

 くそ。このままでは、埒があかない。

「わかったわかった。ちょっと待ってろ」

俺はすぐさま階下に降り、レンジで牛乳を温めると、それを二階の部屋へ運んだ。

部屋に戻ると、なおも死神は、泣き腫らした顔でしゃくりあげていた。その様は、さながらショッピングモールで親とはぐれ、迷子になってしまった子供のようだった。

「とりあえず、こいつを飲め。胸がデカくなる薬だ」

 言いながら俺は、手に持っていたカップを死神に差し出す。しばし、訝しげに俺を見上げていた死神は、ややあってカップを手に取り、ずず、と中身をすすった。が、すぐさま不満げに頬を膨らませて言った。

「なにこれ、ただの牛乳じゃない」

「そうさ。けど、よく胸のデカいグラビアの女が言うだろ? 牛乳いっぱい飲んだら胸が大きくなりましたって」

「ふーん。そういう知識だけは豊富よね。勉強はさっぱり出来ないくせに」

「うるせぇよ」

 ったく、ちょいちょい腹の立つ事を……。

 なおもカップに顔を埋める死神の姿を眺めていると、こいつが死神だという話が、ますます信じられなくなってくる。まず、何でSサイズ? 下手すると、その背丈は俺の肩高程度しかない。死神と言うより、むしろ座敷童子と名乗った方が相応しい―――。

と、やおら死神は、がばと顔を上げて怒鳴った。

「ちょっとぉ! あんなお子ちゃまと一緒にしないで!」

「は? な、何? いきなり」

「あたしは死神だよ。本当なんだから」

 その目はあくまでマジだった。少なくとも、表情だけは冗談に見えない。

 ―――って、え? こいつ今、俺の考えを? 

 そういえば、さっき兄貴と喋っていた時も……。

その時、不意に机に置いた俺の携帯が震え、メールの着信を告げた。

机に手を伸ばし、携帯を開く。すると、それは見覚えのないアドレスからのものだった。

『岡崎君へ 

夜分遅くにすみません。クラス委員の鮎川です。

明日こそは授業に出て頂けますか? 

もし、悩みなどがあればいつでも相談して下さい』

 見覚えのない名前に、そっけない文面。―――クラス委員? 鮎川? 

すぐさまメールを削除し、俺はベッドを振り返る。

「おい死神、飲み終わったらカップを―――」

すると死神は、すでに白い足を投げ出し、無防備に上体をベッドへ預けていた。その足元には、先程渡した牛乳のカップが置かれている、その中身はすでに空になっていた。

「え、おい、勝手に人のベッドで寝てんじゃねぇよ」

「うーん……」

その時、白い足がすすと動き、シャツの裾から小さな布地が……見えた、というより、つい、目に付いた。

細いストライプの、白と黒の縞パンツだ。

「おい、み、見えてるぞ」

「えっち……」

は?

「お、お前、起きてるのか?」

「ううん、寝てる……」

 小振りな唇が、モニョモニョと動く。って、寝てるのか起きてるのか、どっちだよ!

 仕方なく、その身体に薄手の布団を被せる。日増しに秋が深まりつつあるこの頃、朝方の冷え込みは日一日と確実に増しつつあった。油断すると、すぐに風邪をこじらせてしまう。続いて俺は、クローゼットから来客用の予備の布団セットを引っ張り出すと、ベッドの傍にそれを敷いた。いくら相手が電波な死神とはいえ、女の子と寝床を共にするのは、さすがに気が引けたからだ。

フローリングに敷かれた硬い寝心地の布団に潜り込み、さて眠ろうとした時、扉の向こうから、ニャア、とニャン助の声がした。起き上がり、ドアを開くと、待ちあぐねていたかのように、茶トラ色のいきものがスルリと部屋に滑り込んだ。抱き上げ、その額をなでると、ニャン助は少し鬱陶しそうな声を上げた。

「さっきはごめんな。怒鳴っちまって」

ニャン助は、ニャアと一鳴きし、俺の腕をすり抜けてベッドに収まると、死神の枕元に丸まり、ほどなくしてすうすうと寝息を立て始めた。その時、俺は妙な事に気付いた。ニャン助はひどい人見知りで、家族以外の人間には、たとえ顔馴染みの客であっても、懐くどころか近寄る事すらしないのに。どうやら俺以外の奴には、たとえ猫にでも死神の姿は見えないらしい。

パチンと電気を消し、再び布団に潜り込んだ、その時だ。

「いっしょにねよ……浩二」

死神が、またしても寝言を吐いた。しかも、今度の寝言は随分と扱いが難しい。

「……断る!」

「うそつき……ほんとは……うみゅ」

がばと布団を被ると、俺は先程の悩ましいセリフを必死で頭から追いつつ、必死で眠気を呼び起こした。けれども眠気は探せば探すほど遠ざかるタチであるらしく、その後、俺は布団が無駄に生温かくなるまで眠りに就くことができなかった。



翌朝。

「おはよぉぉ!!」

「ふげっ!」

突如、腹にドスンと重い衝撃を覚えた俺は、まどろんでいた意識を一気に現世へと呼び戻された。

「もう朝だぞぉ! 起きろぉ!」

目を開くと、俺の布団の上で、例のハロウィン女が馬乗りになって跳ねていた。銀色のほうき髪が、奴の挙動に合わせてブンブンと景気よく跳ねている。

「ぐえ、ぐえ、く、苦しい、やめろ!」

「やめて欲しけりゃ早く起きろ!」

見ると、いつしか死神は、薄灰色のセーラーに、ダブダブの白カーディガンを羽織っていた。紛れもなく、うちの高校の制服だ。一体、いつのまに……って、今の問題はそこじゃない!

「なんでお前、その制服を着てやがんだ!」

「なんでって、浩二と一緒に高校に行くから」

「そういう問題じゃねーだろ! どこからパクッて来た!?」

「企業秘密」

「なんだよ、それ……。にしても、どうせ俺以外の人間に姿が見えないんなら、学校に行くにしても、そんな格好する必要ねーだろ!」

「あるよ」

「どんな」

「サービス」

「誰に向けたサービスだよ」

「浩二に決まってんじゃーん♪」

「……訊いた俺がバカだった」

窓越しに空を眺めると、季節の変わり目にはありがちの、くずれがちな曇天が広がっていた。憂鬱な気分と共に学ランを着込み、階下に降りると、すでに玄関にはスーツを着込んだ兄貴の姿があった。靴べらで革靴を履き込むその顔は、昨夜の憔悴が残っているのかどこか冴えない。

「ああ、浩二。おはよう」

 不意に振り返った兄貴は、俺と目が合うなりすぐさま挨拶をよこした。応じるべく、こちらも「おはよう」と口を開き―――かけた俺は、背後からの声に思わず拍子を抜かれた。

「おっはようございますっ! おにいさま♪」

死神は、白磁の顔に極上のスマイルを浮かべ、そのガーネットの瞳に、銀河もかくやの星を瞬かせつつ兄貴を見上げていた。さらに駄目押しでウィンク一発、キラリ☆ と星を散らす。どのみち見えやしないのに、この努力。もし、そんな彼女の存在を知ったとしたら、果たして兄貴は喜ぶのか、あるいは困るのか。いや困るだろ。何せ死神だし。

「具合悪そうだけど……大丈夫なのか?」

俺の問いに、兄貴はハハと張りのない笑みを浮かべた。

「関係ないよ。具合が良かろうと悪かろうと、行かなきゃいけない。仕事だから」



兄を見送った後、リビングのドアをくぐると、そこでは漫然とソファに身を預けた父が、朝も早よから何もせず、ただただ外の曇天を呆然と眺めていた。退職後の親父が、唯一、以前と変わらずに続けている習慣というのが、この早起きだ。―――いや、習慣と言うより、もはや体質と呼ばれるものに近いのかもしれない。長い会社生活によって、体内時計の起床時間が午後六時にセットされた親父は、早起きの必要がなくなった今も、起きずにはいられなくなっているのだ。まるで、鎖を解かれた後も、未だに繋がれていると思い込んでは遠くへ逃げる事のできずにいる、哀れな巨象のように。

カーテンが膨らむ。庭から吹きこむ風が、甘く爽やかな匂いを運ぶ。開け放たれた窓越しに庭を見ると、母さんがせっせと洗濯物を干す先で、生垣代わりに植えられた金木犀が、濃いオレンジ色の小さな花弁を、梢の隅々までびっしりと纏わせている。

「ねぇねぇ浩二、これ、なぁに?」

キッチンの方で、ごそごそと戸棚を漁っていた死神が、棚の隅から白い紙袋を取り出し、それを俺に差し出した。袋には、内服薬という文字と共に、薬の種類や一日の服用回数、用量、服用方法などが事細かに記されている。さらに、記名欄には兄貴の名前が。

「薬の袋だな」

やっぱり兄貴は、どこか身体の調子が悪いのかもしれない。

早速死神は、袋から銀のプレートの束を取り出すと、プラスチックのカバーに並んだ錠剤をまじまじと見つめながら、「おいしそ」と呟いた。いや、うまくはないだろ。

その時、洗濯物を干し終え、空のカゴを抱えた母さんが、庭からリビングへと戻ってきた。母さんは、ソファで呆ける親父を見つけるなり、般若の面のごとくギリリと顔を引きつらせた。

「お父さん! 今日こそはちゃんとハローワークに行って頂戴! そうやって日がな一日ぼうっとされたら目障りでしょうがないわ!」

「あ、ああ」

が、親父は、なおもぼんやりと窓の外に目をやったまま、腰を上げようとしない。

「ちょっと、ちゃんと聞いてるの!?」

「ああ」

気の抜けた父の返事に、母さんは、ハァ、と派手に溜息をつくと、今度は、ドアの前で立ち尽くす俺の方へと矛先を向けた。

「浩二!」

「ひぃっ!」

鋭い一喝に、俺と死神は同時に肩をびくつかせる。

「は、はい……」

「あんた、今日こそは、ちゃんと授業に出なさいよ!?」

「はい」

「はいはい言って、あんた、聞いてるの!?」

「はい……聞いてます」

「お母さん、後でちゃんと担任の先生に電話で訊くからね!?」

さらに母さんは、眉間に皺を刻みながら続ける。

「まったく……授業料だってタダじゃないんだからね? お母さんのパート代を、無駄にしないで頂戴!」

その声には答えず、俺は早々に自室へ戻ると、机から鞄をひったくり、逃げるように玄関を飛び出した。俺の自転車は、昨日の事故によってすでに鉄塊と化している。仕方なく俺は、車庫の奥から兄貴がかつて高校時代に通学に使っていた自転車を引っ張り出した。後輪の泥はねには、俺のチャリと同じ桜柄のステッカーが貼られている。

そう、かつて俺は、このステッカーに憧れて今の高校に入学した。その頃の事が、はるか遠い昔のように感じられる。

タイヤに空気を補充し、チェーンに油を差すと、古い自転車ながら案外快適な乗り心地を得る事ができた。早速、学校へ向けて走り始める。すると、

「あたしも一緒に乗せてよぉ」

と、誰の許可もなく、死神が背後の荷台へ飛び乗ってきた。

「うぁあ! あぶねぇ!」

慌ててハンドルを握り締め、崩れたバランスを立て直す。振り返ると、そこには、制服姿の死神が、満面の笑みで俺の背中にしがみついていた。そこには柔らかな二つの膨らみが―――残念ながら、あるわきゃない。

「おい! 危ないじゃねーか!」

「大丈夫。倒れたって死にゃしないって」

「そういう問題じゃねーだろ! つか、勝手に乗るな!」

「だってぇ、浩二ってば、こうでもしなきゃ絶対乗せてくれないでしょ?」

「は?」

「あたし、ずーっと前から、こんなふうに浩二と同じ制服着て、同じ自転車に乗って、一緒に通学してみたかったの。ラブコメみたいに」

「え? ―――ずっと前って、いつから?」

死神はしかし、俺の質問には答えず、今し方俺達のチャリを脇から追い抜いていった乗用車のケツを指差して言った。

「ほれほれ、走れ! 漕げ! そして、あの車を追い越せぇ!」

「無茶苦茶言うなよ! 車になんか追いつけるか!」



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