一章
二学期も始まって一ヶ月ほど過ぎた、とある曇天の放課後。俺は、クラス担任の谷垣に渋面を向けられながら、職員室の片隅で、柱のようにぼんやりと立ち尽くしていた。
「呼び出された理由は、わかってるよね?」
回りくどい物言いと共に、谷垣は、嫌味なほど綺麗に整頓された机の片隅から、手のひら大の分厚い紙束を取り上げると、中からある一枚を引っ張り出した。それは、まさしく今、俺がこうして名指しで職員室に呼ばれるきっかけとなった、忌むべき紙切れに他ならなかった。進路希望調査票―――入学を希望する大学名を、第一希望から上位三つまで書き記す、学生らの鼻息と嘆息を生々しく濃縮したかのような藁半紙だ。
そして今、谷垣が手にした紙に書き並べられているのは、いずれも日本最高の難易度を誇る、東京や京都の超一流大学の名前である。もちろん、それらの名前はいずれもネタでしかない。かように立派な大学へ合格しうる程の立派なおつむを、残念ながら俺は、カケラすらも持ち合わせちゃいない。
「君ね、こういう言い方はしたくないけど、いくら何でも先生をナメてるでしょ。いくら、まだ二年生とはいってもね、もう二学期でしょ? いいかげん、自分の学力ってものを冷静に鑑みないといけない時期なわけね? わかる?」
顔油で鈍く光る眼鏡の奥から、苛立ちを帯びた谷垣の眼差しが俺に向けられる。んな事ぁわかってるよ。ちょいとフザけてみただけじゃないか。別にいいだろ?どのみち何を書いたって、俺みたいなアホが入れる大学なんて、どうせ、どこにもありゃしないんだから。―――などと内心で毒づいていると、駄目押しとばかりに谷垣は、続けて、卓上のノートパソコンで俺の成績推移表を呼び出し、見ろとばかりに液晶画面をずいと突き出した。
「これ、今の君の順位。ねぇ、ちゃんと把握してる?」
毒虫の粘液にも似たその物言いに、俺はつとめて抑揚なく答える。
「はい」
「ほとんど後ろから数えた方が早いよ? ねぇ。わかる? この意味」
「はい」
「つまりはさ、もう少しまじめに書きなさいって事だよ。先生にとっては、受験指導を行う上で、この調査票は重要な資料になるんだからね」
「はい」
ひとしきり言いたい事を言い終えると、谷垣は、ハァと大仰な溜息を吐いた。
「お兄さんの方は、本当に優秀だったのにねぇ」
ようやく谷垣との粘着質な会話から解放されたのは、午後もすでに六時を大きく回った頃だった。日中、雲を湛えて白色一辺倒だった空は、今は鈍い藍色によってムラなく染められている。
気の抜けた炭酸飲料のようなブラバンの音を背に、自転車置き場から自分のチャリを引っ張り出す。自転車の泥跳ねには、桜柄の校章をあしらったステッカーが貼りつけられている。入学当初は、目にするたびに誇らしい気分を与えてくれたこのステッカーも、今となっては、もはや憂鬱の種以外の何物でもない。むやみに兄貴の背中なぞ追わず、もっと自分の学力に見合った学校を選ぶべきだった―――と。
その、目障りな校章のモチーフになったとも言われる校門前の桜坂を、腹立ちまぎれに一気に駆け降りる。坂を降りてしばらくペダルを漕ぐと、道はすぐさま国道へとぶつかる。
眼前を乱暴に横切る片側三車線のバイパスでは、大小様々な車両が、北へ南へと昼夜を問わず行き来を続けている。排ガスに巻かれつつ、赤と白のライトの列をぼんやり眺めていると、毎日の事ながら、ふと俺は、不思議な感覚に陥ってしまう。
まるで自分が、この世界のどこにも、存在を許されていないかのような。
一体俺は、何のために生まれ、そして、生きているんだろう。
いや、ないんだ。そもそも目的なんて。
そう、何も……何もない。
と、その時だった。
ギャギャギャギャギャ――――……
甲高いスキール音が、突然、俺の鼓膜を鋭くつんざいた。
―――え?
振り返ると、そこには、視界を阻みつつ迫る銀色の壁があった。
目が眩むほどのヘッドライト。迫り来る巨大な鉄壁。
どうやら、何らかの事情でバイパスの流れから弾き出されたトラックが、俺の立つ歩道目掛け、一直線に突っ込んできたものらしい。
やべぇ、避けなきゃ、死ぬ―――
だが。
俺の身体は、避ける事も逃げる事もせず、ただ、その場に立ち尽くしていた。
恐怖で硬直していた、という訳ではない。ただ―――、
ただ、面倒だったのだ。
もういいや。
いっそ殺してくれ。
どうせ、俺なんて誰も、何も―――。
「ボケぇ!!」
ブレーキ音に紛れ、ふと、耳元でそんな声が聞こえた、ような気がした。
―――どれほどの時間が経っただろう。
「う……、くるし……」
押しつぶされるような鈍い胸の痛みに、俺は意識を呼び起こされた。
痛みをこらえつつ目を開く―――すると。
「え?」
そこには、俺の胸に馬乗りになったまま、腕を組み、傲然と俺を見下ろす一人の少女の姿があった。
その格好に、俺は一目で度肝を抜かされた。まず目についたのは、腰の辺りまで流れる豊かな銀色の長髪だった。雨滴の軌跡を集めて束ねたかのようにきめ細かな銀色の髪を、右側頭部で大雑把に結わえ、アシンメトリーなシルエットを形作っている。あれは確か、サイドテールと呼ばれる髪形だったろうか。
一方の服装も、髪色に負けず劣らずエッヂが効いている。フリルやらリボンでゴテゴテと装飾された黒いワンピースのデザインは、いわゆるゴスロリというヤツだろうか? だが、見方によってはビジュアルバンドにハマり過ぎた痛い女子高生にも見えなくはない。
だが、そこら辺の女子が挑めば、単なる大事故で片付けられるこの格好も、彼女の稀有なポテンシャルによって、むしろ奇跡的と呼べるほどの相乗効果を発揮していた。ミニスカートの裾から伸びるすらりとした脚は、透けるように白く、触れる傍から溶けてしまいそうだ。
その小振りな顔もまた、同様の純白を誇っており、さほど派手な化粧を施してはいないにも関わらず、薄闇の中でもなお、その整った目鼻立ちを際立たせている。
こんなひなびた地方都市に捨て置くには、もったいない程の美少女だ。
少女は、その白い頬をふくらませつつ、不機嫌そうに言った。
「なんで避けなかったの?」
「は? ……何を?」
「トラックに決まってんじゃない!」
そういえば、さっき確か、俺めがけてトラックが突っ込んで来て……その後、何がどうなってしまったのか、さっぱり覚えがない。
上体を起こし、振り返ると、そこには先程のトラックが、国道沿いのファミレスの中へ見事に突き刺さり、無惨な鉄塊と化した姿があった。荷台のダメージはさほどではない、が、運転席の方は、完璧にひしゃげてしまっている。
さらに、よくよく目を凝らすと、トラックと壁との間には、“もし俺が、あのままトラックに撥ねられていたら”のモデルケースを示すかのように、えびせんのエビと化した俺の自転車がぴったりと挟まれていた。
ああそうか、死ぬはずだったんだ、俺。
だが、不思議な事に、この時の俺は全くと言って良いほど、恐怖らしい恐怖を覚える事はなかった。俺にとって、死は、あくまで他人事に過ぎなかったのだ。たとえそれが、自分自身の死であったとしても……。
すると少女は、いきなり俺のシャツを引ん掴むと、その顔にぐいと引き寄せ、やおら大声で怒鳴り始めた。
「だから、なんで避けなかったの、って聞いてんのよボケ!」
カラコンなのか、ガーネット色に輝く血色の大きな瞳が、間近で俺を鋭く睨みすえる。
「……は?」
「あんた、なに勝手に死のうとしてんの?」
―――は? ……勝手に?
「人間のくせに勝手に死のうだなんて、そんな横着、許さないんだからね!」
やがて事故現場には、周辺の家々から集まった野次馬による人だかりが出来始めた。救急車、続いてパトカーや消防車などの緊急車両も到着し、次第に周囲は、その物々しさを刻一刻と増してゆく。
今一度、俺はひしゃげた自転車に目を遣った。正直、自転車は惜しい。が、制服の大人達との煩雑なやりとりに対する厭わしさの方が勝り、俺は早々に、現場からの退散を決め込む事にした。
「ほら、青だよ。早く渡ろうよ」
いつの間に立ち上がっていたのか、先程の少女が、俺の袖をぐいと引っぱる。
「え、けど、」
「だって、めんどくさいでしょ? 事情聴取とか」
「え、あ、ああ……」
偶然か? この子も、俺と同じ事を考えて……?
俺は少女に促されるまま立ち上がると、青ランプが点滅を始めた横断歩道を、駆け足で渡り始めた。
当初、俺は、共に横断歩道を渡ったその少女を、たまたま同じ信号に居合わせた、通行人の一人程度にしか思ってはいなかった。
だが、幾個もの信号を渡り、また、幾箇所もの角を曲がるごとに、俺の中の違和感はやがて疑念へ、疑念はやがて確信へと変化していった。
コンビニを五件ほど見送った頃、俺はついに意を決して立ち止まり、振り返って訊ねた。
「あの、ひょっとして、俺に何か用?」
俺のほんの一、二歩後ろで、同じくぴたりと足を止めた銀髪少女は、俺の顔をじっと見上げつつ、澄ました顔で平然と頷いた。
「うん」
「どんな用?」
「殺すの。あんたを」
「―――は?」
こいつ、ご丁寧に格好だけじゃなく、中身までもソッチ系のキャラに作り込んじまってンのか? それとも、近頃流行りの、殺人をゲームにしたような小説やら映画に、がっつりアテられちまってるのだろうか?
「と言っても、今すぐってワケじゃないけどね」
「ああ、そう」
あるいは、新手の告白? ―――いや、だとしても、これほど背後にぴたりと張り付かれては、嬉しさよりもむしろ鬱陶しさの方が際立ってしまう。
「別に何でもいいんだけどさ、とりあえず、そうやって俺に付き纏うの、やめてくれる?」
「しょうがないじゃん。あたし、あんたの死神なんだから」
「は? 死神? 俺の?」
「そ。あんたの」
「あ、そう」
何だ、こいつ電波か。こういう手合いは、まともに取り合うだけ無駄に体力を削られる。
俺は、再び足を踏み出し家路を、ではなく、傍のコンビニへと立ち寄る事にした。この珍妙な手合いを捲くという目的もあったが、もう一つ、さっきのトラックの件で驚かされ、ひどく小腹がすいてしまったからだ。
案の定、俺の背後から、当然のように例の自称死神がついてくる。が、敢えて彼女には取り合わず、俺は雑誌コーナーをざっと冷やかすと、棚から本日発売となった週刊誌を取り上げ、店内を一巡してレジへと向かった。
一方、例の死神少女はというと、菓子を選ぶでも化粧品を眺めるでもなく、ひたすら俺の後ろを付きまとっては、俺が目にしたもの手に取ったものを逐一あげつらって回った。
挙句は、俺がチラ見した十八禁雑誌コーナーの棚を覗き込んで、「おおおおっ!? この表紙のおねーさん、すっごい巨乳だぁ!」と、騒ぎ始める始末。
恥ずかしい単語を、ためらいもなく大声で……。
「いいなー。あたしもこんなオッパイ欲しい」
それから少女は、自らのまな板を見下ろすと、何が悲しかったのか一人で勝手に打ちひしがれてしまった。下手に奴と関われば、俺もあの変人と同類扱いとなってしまう。貰い事故はもうたくさんだ。俺は、早々に雑誌をレジに通すと、逃げるようにコンビニを出た。
出るすがら、そっと店内を振り返ると、少女はなおも、本棚の巨乳と自分の貧乳を執拗に見比べていた。
あんな奴が死神? 冗談じゃない。
店を出るなり、俺は、少女を振り切るべく全力で駆け出した。しばらく走った後、そっと背後を振り返ると、思惑通り、もはや少女の姿は跡形もなく消え失せていた。
星一つ見えない漆黒の空の下、住宅街内を流れる用水路沿いの道路を一人トボトボと歩く。この周辺は、俺がまだ小学生に入ったばかりの頃に水田から宅地造成された、いわゆる新興住宅街という場所だった。道路沿いには、薄暗い海底に沈む護岸ブロックのように、同じような形をした一軒家が、夜空の下にずらりと佇んでいる。
その並びの一軒に音もなく忍び込んだ俺は、抜き足で廊下を抜けると、リビングドア脇の階段を二階へと駆け上がり、一番手前のドアへと一気に飛び込んだ。
「浩二、帰ったの?」
ドアを閉めると共に、母さんの金切り声が階下から響いた。
「帰ってきたんなら、一言ぐらい挨拶しなさい! そんな常識も守れないの!?」
押し黙ったまま俺は、一階の様子に耳を澄ます。
「もう、お父さんからも、あの子に何か言ってあげて頂戴!」
「ああ」
「聞いて頂戴。今日、担任の先生から連絡があったのよ」
「うん」
「あの子、進路希望票に、光一と同じ希望大学を記入して提出したらしいの。それで、もっと、進路についてあの子ときちんと話し合って下さいって……私、もう、情けなくて涙が出そうになったわ」
「そうか」
「光一の時は、どの先生方も応援して下さっていたのに……」
事ある毎に、母さんはまるで魔除けの呪文か何かのように、俺の兄、光一の名を口にする。近所のオバサン共と一緒に、家で紅茶をすすっている時も、電話口で友達の育児相談に乗っている時も―――そして、俺の無能ぶりを責め立てる時も。
なおも俺はドアの向こうの音に聴覚を研ぎ澄ました。時に母さんは、帰宅したばかりの俺の部屋へ強引に踏み込んでは、やかましいだけの小言をひとしきり俺にくれたりする。
だが、今日のところは母さんが二階に追撃を仕掛けてくる様子はなさそうだった。
ほっと胸を撫で下ろし、俺はショルダーバッグを机に放ると、勉強机ではなくベッドに座り、先程コンビニで買った雑誌を開いた、と、まさにその時だった。
「浩二! 御飯よ、降りてきなさい!」
階下から、叱責にも似た声で、母さんが俺を呼んだ。
親父と母さん、兄貴、そして俺の四人。それが今、この家に住まう岡崎家の家族構成だ。
いわゆる、典型的な核家族というやつだ。兄貴が東京の大学に在学していた頃は、一時的に俺と両親の三人構成だったが、兄貴のUターン就職に伴い、今は元の四人暮らしに戻っている。
「ほら、やっぱり帰ってたんじゃないの」
ダイニングのドアを開くなり、母さんの鋭い声が飛んだ。
「どうしてあなたはいつも、黙って家に上がるの? 泥棒と間違えたらどうするの!」
「ただいま」
「今じゃなくて、帰ったらすぐに言いなさい。常識でしょう? お母さん、あなたをそういう常識の守れない子に育てた覚えはないわよ?」
なおも小言を続ける母さんには構わず、黙って食卓に着く。食卓に並べられている夕食は、親父と母さん、そして俺の三人分。どうやら兄貴は、今夜も帰りが遅いようだ。
茶碗を手に取り、白飯を口に運びかけたその時、斜向かいの母さんが鋭く言った。
「浩二、いただきます、は?」
「い……いただきます」
幼稚園児かよ、俺は。
顔を上げると、正面の席では、親父がポツポツと和え物をついばんでいる。
親父が、依願退職という名の首切り、いわゆるリストラに遭ってから既に半年以上が経過している。にも関わらず、俺は未だに、親父を前にした夕飯に慣れない。
退職前の親父は、まさに模範的な会社人間だった。平日は早朝から深夜までを会社で過ごし、休日も、当然のように仕事や資格の勉強に明け暮れた。
そんな退職前の親父とは、皆無と言って良いほど夕食を共にした事がない。そのせいか、今、こうして親父と共に座る食卓は、例えば、友人同士で撮った写真に、見知らぬ他人が紛れ込んでいるかのような、そんな違和感を覚えさせてならない。
「あなた、そういえば、今日こそはハローワークに行って来たんでしょうね?」
不意に母さんが、隣に座る親父を睨み据えながら切り出した。
「あ……ああ、まぁ」
「嘘でしょう」
親父の返事を切り捨てつつも、母さんの箸は、間断なく食べ物を口に運び続けている。
母さんは、親父の退職をきっかけに、近所のスーパーでレジ打ちの仕事を始めた。退職金だけでは心許ない月々の生活費や俺の学費のために、金を稼がなければと一念発起したのだ。元々せっかちだった母さんの性格に、ことさらに拍車がかかったのも、恐らくは仕事の影響によるものだ。
「もう、どうしてちゃんと行ってくれないの?」
悲鳴にも似た金切り声で、母さんが喚く。一方の親父は、近頃急激に白いものの増えた頭を、力なく俯かせる。
「この際、パートでも何でもいいのよ。とにかく、何でもいいから仕事をして頂戴。毎日毎日、家でぼーっとされちゃあ目障りでたまらないわ。私だって働いているのに」
「ああ……」
母さんの不平は、うなだれる親父には悪いが至極ごもっともだ。母さんは、家事もこなした上でさらに仕事へ出かけている。対して、今の親父は、本当に日がな一日、リビングのソファで置物として過ごしている。
二人のやりとりを、息を殺して眺めていると、突如、母さんがその矛先をこちらに向けてきた。
「浩二も、今日はちゃんと授業に出てきたんでしょうね?」
苛立たしげに唸る母の眉間には、すでにクレバスのような皺が刻まれている。
「……ま、まぁ」
「嘘ばっかり。あなたはいつもそう。生返事ばかりで、ちっともお母さんの話に耳を貸そうとしないんだから」
サーモンのマリネを口に運ぶ。好物のはずだが、母さんの小言とセットでは、まるで砂を食っているかのように、ほとんど味を感じられない。ふと、親父の席に目をやると、いつしか飼い猫のニャン助が、親父の膝に乗り上がっていた。親父は、そんなニャン助を膝から降ろすどころか、まるで子供をあやすような口振りで、しきりに語りかけている。
「ニャン助、ほら」
箸で刺身を摘んでは、ニャン助の鼻先にこれ見よがしに突き出す。突き出される度、ニャン助は、うんと首を伸ばし、その刺身に食らい付く。
「親父、やめろよ、行儀悪いだろ」
だが、なおも親父は、ニャン助を膝から降ろす素振りを見せない。
「やめろって、親父」
繰り返し、親父に注意を促す。しかし、やはり親父は聞く耳を持たない。そんな親父に、 たまらず俺は声を荒げた。
「親父ぃ!」
ぴた、と、親父の手が止まる。と共に、驚きに呆けた顔がこちらへ向けられる。
「なにやってんだよ、親父! 病気になるから、猫に人間の食い物を与えるなって言ったのは、あんただろ!?」
「あ……ああ」
豆鉄砲を食らった鳩の面で、そっと刺身を醤油皿に戻すと、親父は、さも残念そうにニャン助を床へと追い落とした。
「そこまで怒らなくていいだろう、浩二」
あまりに無神経な親父の言葉に、俄かに俺のはらわたが湧き上がる。一体、どの口でそんな事を言ってやがる。あんたの方は昔、口だけじゃなしに、拳まで繰り出してきただろうが―――と。
以前の親父は、気に食わない事があればすぐに俺を殴りつける、今時珍しい厳格な父親だった。友人にこの話をすると、大抵、ありえねーと言っては引かれる。
だが今や、当時の親父の姿は見る影もない。そういえば、例の鉄拳が唸りを止めたのも、親父が退職した時期と重なる。以前は、三日に一度は俺を殴りつけていた親父が、退職後は一度として、その拳を振るった事はない。
「浩二」
母さんは、怒気を孕んだ静かな声で言った。
「謝りなさい。親にそういう口をきくなんて、非常識だわ」
「……」
母さんの言葉に無視を決め込み、俺は早々に食卓を立った。背後で、茶碗を片付けろ云々と、母さんの小言が追い討ちをかけてきたが、いずれにも構わずダイニングを出た。どうして、俺が謝らなきゃいけないんだ。間違っていたのは親父の方だ。親父が悪い。
階段を昇り、部屋のドアを開く――――と。
「おっつー。浩二クン♪」
そこで俺を待ち構えていた人物に、俺は本日二個目の度肝を抜かれた。
ご意見、ご感想、お待ちしております。
是非是非!!




