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2012年6月 デビュー戦

 トランクバークが星厩舎に入厩してから、求次は再び仕事を探した。

 その結果、イベント会社のアルバイトとして、野球場やコンサート会場のスタッフとして働くことになった。

 この仕事は当初、安定した職に就けるまでのつなぎとしてやるつもりだった。

 しかし、その後も彼の望むような仕事にはありつくことができず、結果としてアルバイトを続けることになった。

 現場で働く人達は現役の大学生など若い人達が多いため、43歳の求次は周りから色眼鏡で見られているのではという気がしていた。

 さらには自分よりかなり年下の人に指図されることにもなかなか馴染めず、苦労の多い日々を送っていた。

 賃金も時給800~1000円で、月によってイベントの数が異なるので、月収10万~15万円にしかならなかった。

 笑美子がパートで稼いでいる月10万円と合わせても、毎月厩舎に払う預託料60万円と生活費を差し引けば大赤字になってしまった。

 そのため、木野家の所持金は減る一方で、トランクバークを入厩させた時に700万円あった資金は、6月を迎えた時点ですでに480万円になっていた。

 このままのペースでいけば、来年早々に破産してしまうことになる。

 当然このことは笑美子と可憐も知っていた。

 2人は早くこの状態を何とかしてと求次に言いたい心境だったが、必死にそれを我慢していた。

 当然家族の間には不協和音が立ち込めていた。

 とにかくトランクバークが一刻も早くデビューし、賞金を稼いでくれなければ、木野家に未来はなかった。

 求次はそんな恐ろしいまでのプレッシャーと闘いながら、ただひたすらデビューの時を待った。


 一方のトランクバークは星厩舎が管理する他の2頭の馬と共に、調教を積み重ねた。

 トランクバークは足が速く、勝負根性がある反面、気性が荒く、持久力に欠けるという短所もあった。

 そんな特徴を見抜いた星調教師は、坂路を走らせたり、併せ馬を多用して長所をさらに磨いていた。


 そして6月を迎え、いよいよデビューの時が近づいてきた。

 星調教師はこれからトランクバークを函館に輸送し、6月中に新馬戦でデビューさせる意向であることを求次に伝えた。

 求次にとっても少しでも早く賞金を稼いでもらいたいだけに、喜んで同意した。

 函館競馬が開幕する数日前、トランクバークは星厩舎の管理している2歳年上の寮馬ホーソンフォレスト、さらには村重むらしげ善郎よしろう(28歳)という厩務員と共に、馬運車で北の大地に足を踏み入れた。

 そして村重厩務員が泊り込みで2頭の調教をしていくことになった。


 2012年6月16日、ついに函館競馬が開幕の時を迎えた。

 レーシングプログラムには2歳新馬戦が組み込まれ、いよいよ2歳馬がデビューすることを物語っていた。

 トランクバークのデビュー戦はその翌週、6月23日の2歳新馬戦(芝1000m)に決まった。

 開幕週を見送った理由を、星調教師は求次との打ち合わせの中で次のように伝えた。

「最初は開幕週の新馬戦に出走を考えました。しかしこの週は出走する馬の数が多いことが予想されたので、1週遅らせることにしました。こちらの方が出走する馬が少ないですから。」

「なるほど。確かに出走頭数が少ない方が賞金も稼ぎやすいですね。」

「はい。それに一緒に函館入りしたホーソンフォレストが翌日、6月24日のレース(3歳上500万下)に出走するということも理由の一つです。こうすれば僕が2度も函館に行かなくて済みますから。」

「分かりました。それにしても調教師は馬が出走するたびに競馬場に出向かなければならないので、大変ですね。」

「そうです。だから多くの馬を管理している人気厩舎では、土曜日に関東の競馬場に行って、その日の競馬が終わると即移動し、翌日は関西の競馬場ってことはざらですよ。同じ日に複数の競馬場で管理馬が出走することもありますし。」

「なるほど。」

 求次は話を聞いて納得した。内心では1週間でも早くデビューすることを望んでいたが、そこは妥協することにした。


 6月23日、ついにトランクバークが2歳新馬戦で競走馬デビューする日がやってきた。

 求次と星調教師は前日にそれぞれ飛行機で函館入りし、この日は朝から函館競馬場の関係者エリアに来ていた。

 彼らは電話で頻繁に連絡を取っていたが、直接会うのは3月のあの日以来だった。

 星調教師は今日のレースでどのような作戦で行くかを、他の人に知られないように打ち明けた。

 内容は、7頭立てと少頭数で、しかも最内の1枠1番ということを活かして、スタートしたらすぐに先頭に立ち、内ラチ沿いを進んで、最短距離でゴールまで逃げ切るというものだった。

 気性が荒く、馬群を嫌うため、彼はこの作戦が一番と考えての決断だった。

 レース1時間前、求次と星調教師はトランクバークのいる場所に歩いていった。

 そこには村重厩務員が待っていた。

 彼はトランクバークとホーソンフォレストが函館入りして以来、ずっと現地で調教をしてきた。

「善郎君、トランクの今日の調子はどうだ?」

 星厩務員が確認のために聞いた。

「問題はありません。怪我もなく、順調にこの日を迎えることができました。」

「そうか、ご苦労。後は騎手の久矢ひさや大道ひろみち君に作戦を伝えるだけだな。」

「はい。」

 村重厩務員も作戦をすでに把握していただけに、話は早かった。


 いよいよ新馬戦のパドックの時間がやってきた。

 トランクバークは村重厩務員に引き連れられ、白地に1の数字と名前が書き込まれたゼッケンをつけて登場した。

 パドックでは少し嫌がるような仕草を見せることがあった。よく見ると尻尾には蹴るクセがあることを示す赤いリボンがつけられていた。

 しばらくすると、前のレースを終えた久矢騎手をはじめ、7人の騎手が登場した。

 久矢騎手は1枠を表す白い帽子をかぶり、木野牧場の所有馬であることを示す、緑地に白のたすきの勝負服を着ていた。

 彼はあいさつを済ませると、トランクバークにまたがって周回を始めた。

 歩きながら、7頭の先頭を歩く馬の姿を、求次は祈るような気持ちで見つめていた。


 騎手を乗せた7頭の馬達はやがてパドックから姿を消し、本馬場に登場した。

 そして各自でウォーミングアップをした後、向こう正面の真ん中付近にあるゲートの後方に集まってきた。

 いよいよ待ちに待った新馬戦の発走時刻が迫ってきた。

 求次は今まで経験したことのないくらいの緊張感に襲われていた。

 そばにいる星調教師は、彼のそんな心境を敏感に察知した。

「木野さん、大丈夫ですよ。」

「自分でも大丈夫だって言い聞かせてはいるんですが、やっぱり今までのことが色々と頭を駆け巡って…。」

「分かりますよ。こちらだってこの馬に生活と厩舎の命運をかけているわけですからね。でも7頭立てですから必ず賞金は持って帰れますよ。僕自身もそれを狙ってこの新馬戦を選んだんです。」

(※中央競馬のレースは1着賞金を100%とした場合、2着=40%、3着=25%、4着=15%、5着=10%、6着=7%、7着=6%、8着=5%となります。)

「はい…。」

「とにかくやれるだけのことはやったんですから、後は信じて待ちましょう。」

「はい…。」

「あ、それから僕はお手洗いに行ってきますから。」

 星調教師は求次を落ち着けようと色々言った後、そう言って席を外していった。

「木野さん、緊張しているのは先生(星調教師)だって同じですよ。」

 調教師がいなくなった後、今度は村重厩務員が急に話しかけてきた。

「本当ですか?そうには見えないんですが。」

「先生はそういう姿を見せない人なんです。でも、僕、見たんです。先生がトレーニングセンターのお手洗いにいる時に、手を合わせながら祈るような口調で『トランク、どうかこの厩舎を助けてくれ。』って言っているのを。だから、先生はデビューまでこぎつけるのに本当に神経をすり減らしてきたはずです。」

「そうだったんですか。」

「それに、僕も同じ気持ちでした。毎朝トランクの調教をしていた時には『どうか故障だけはしないでくれ。』って神頼みをしていました。もし故障なんてさせたら、先生や木野さんに一体何て言えばいいんだとずっと思っていたんです。」

「そうだったんですか…。悩み苦しんでいたのは自分だけではなかったんですね。」

「はい。だから無事にデビューの時を迎えられて、正直ほっとしているんです。順位は何着であろうと、まずは無事に最後まで走りぬいてくれと僕は考えています。」

 村重厩務員が打ち明けたことを聞いて、求次は何だか肩の荷が降りた気がした。

 そして不思議とトランクバークの姿を落ち着いて見ることができるようになった。

 それから間もなく、星調教師はハンカチで手を拭きながら戻ってきた。

 数分後、新馬戦の投票が締め切られた。

 トランクバークは馬体重430kg、最終オッズで、単勝2.8倍の2番人気だった。


 やがてスターターが台に乗って合図をし、ファンファーレが辺りにこだました。

 久矢騎手を乗せたトランクバークは係員に引かれ、真っ先に1番と表示されたゲートに入っていった。

 7頭の競走馬が全てゲートに納まると、ついにゲートが開いた。

 求次、星調教師、村重厩務員の3人はかたずを飲んでその瞬間を見守った。

 スタートは3頭の馬が出遅れたためにバラバラとしたものになった。

 その中で、トランクバークは好スタートを切った。そして全速力で駆け出し、いきなり先頭に立った。

(よし。まずはうまくいった。)

 求次ら3人はそろってそう思った。

 トランクバークはそのまま後続の馬を引き離し、3コーナーに差し掛かる頃には2番手を走るフォークダンスに2馬身以上の差をつけていた。

 コーナーではトランクバークはスピードを落とし、外によれていかないように内ラチ沿いいっぱいを走り続けた。

 後続の馬は追いかけるチャンスと言わんばかりに差を詰め始めた。しかし中には遠心力のために外によれていく馬もいた。

 4コーナーを回って直線に差し掛かった時には、差は1馬身に縮まっていた。

(うっ、追いつかれるかも…。)

 求次は内心焦った。

(このまま馬群に飲まれていってしまうことだけはやめてくれ。)

 このレースで少しでもたくさんの賞金を稼ぎ、早く生活を楽にしたいと思っている彼は必死に上位入賞を願った。

 直線に入ると、久矢騎手はムチで馬をたたき始めた。

 トランクバークはそれに応えてラストスパートを開始した。すると後続との差が再び開き始めた。

 スタンドからは観客からの大きな掛け声が響き始め、求次の周りからも「行け!」「追いかけろ!」と言った声が飛び交い始めた。

「そのまま行け!」

「走れ!抜かれるな!」

「ラストスパート!」

 求次、星調教師、村重厩務員の3人もまた、手に汗握りながら叫んだ。

 残り200のハロン棒を通過した時には、再び2馬身の差になった。

 しかし、2番手のフォークダンスがまた差を詰めていき、残り100mの時点では1馬身程の差になった。

(頼む!がんばってくれ!)

 求次は心の中で必死に叫んだ。

 久矢騎手はビシバシとムチを振るい続け、懸命にゴールへと向かっていった。


「トランクバーク逃げる!フォークダンス追う!」

 アナウンサーは興奮しながら叫んだ。

「フォークダンス迫る!しかしトランクバーク抜かせない!トランクバーク!!トランクバーク逃げ切った、ゴールインッ!!」


 アナウンサーの言うとおり、トランクバークは見事な勝負根性を見せ、2分の1馬身の差をつけて先頭でゴールに駆け込んだ。

「やったああーーー!!」

「うおおおっ、勝ったーー!!」

「イェーース!!」

 求次、星調教師、村重厩務員の3人はそれぞれガッツポーズをしながら、大声を上げて喜んだ。

 そしてお互い抱き合った後、今度はスクラムを組むような形で喜びを爆発させた。

「すげえ、まさかデビュー戦で勝つなんて!」

「こっちだって驚きだよ!」

「何はともあれ、勝ってよかった!」

 彼らの興奮はしばらくおさまらなかった。

 これまで自分達の人生をこの馬に託し、この時のために何ヶ月もの間重圧と闘ってきたのだから、無理もないだろう。

 間もなく、掲示板の1着のところには1の数字が、2着にはフォークダンスのつけていた6の数字が点滅し始めた。


 レースはそのままトランクバークの1着で確定した。求次達3人と久矢騎手はウィナーズサークルに立って、トランクバークと共に記念撮影を行った。

 求次達は新馬戦の1着賞金700万円を獲得した。

 そして賞金は馬主である求次は賞金の80%の560万円、星野調教師は10%の70万円、村重厩務員と久矢騎手はそれぞれ5%の35万円ずつで分けられた。

 求次にはさらに新馬戦の出走手当て36万円が支払われるため、合計596万円を獲得した。

 資金がすでに500万円未満しか残っておらず、破産の危機に瀕していた彼にとって、この賞金は涙が出るほどありがたい贈り物となった。

 求次は心の中で何度も何度もトランクバークに感謝をし続けた。

 彼にとって最も長い1日は、まさに最高の1日になった。



 この時点でのトランクバークの成績

 1戦1勝

 本賞金:400万円

 総賞金:700万円

 クラス:オープン


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