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2011年11月 もちかけ話

 セリ市の後、木野牧場にはトランクバークと名づけられた1歳の牝馬が過ごしていた。

 求次は毎日一生懸命に世話をしながら牧場の中を走らせたり、自ら馬の上にまたがるなどして、運動をさせていた。

 一方で、笑美子と可憐は馬には全く無関心で、手伝おうとはしなかった。

 笑美子は主婦の仕事をしながらパートの仕事をいつもどおりこなし、高校受験を控えた可憐は毎日勉強に励んでいた。

 そんな2人の姿に、求次は疎外感さえ感じることがあった。

 しかし、自分で選んだ道を引き下がるわけにはいかなかった。


 2011年11月のある日のことだった。

 求次はトランクバークの体を洗っている時に、牧場の入り口に一人の男が立っているのを見つけた。

「こんにちは。」

 その男は頭を下げると、牧場の敷地内に入ってきた。

「こんにちは。」

 求次は作業の手を止めてあいさつをした。

「すみません。いきなりで恐縮ですが、その馬について見せてもらってもいいですか?」

 男は求次のもとに歩み寄ってくるなり、そう言い出した。

「この馬のことですか?」

「そうです。その馬に興味がありまして。」

「この馬は僕がセリ市で落札してきた馬です。来年、自分の手で競走馬としてデビューさせるつもりです。」

「先月行われたセリ市ですか?」

「そうです。」

「実は私、それに行くことができなかったんですよ。それで、できることならその馬を私に見せていただけないかと思いまして。」

「何ですかそれは!そもそもあなたはどちら様ですか!?」

 求次は思いもよらないことを言われ、怒ったような言い方で返した。

「これは失礼。私、こういう者です。」

 男は名刺を取り出して差し出してきた。

 求次はそれを受け取って、名前や肩書きなどをチェックした。

 名刺には「なみ牧場 営業取締役 武並定光たけなみじょうこう」と書かれていた。

 波牧場とは、本州の北の方にある競走馬の生産牧場だ。

 持ち馬には全て「ウェーブ」という名前をつけていて、競馬界の中では並のクラスといったところだ。

 これまで重賞レースにも度々出走した実績があるので、それなりに知名度もあった。

「なるほど。とりあえず、この作業が終わったら事務室にでも案内することにしましょう。お茶くらいなら出しますよ。」

「いえ、お茶はいいです。それよりまずその馬を見せてもらってもいいですか?」

 武並は頭を下げてお願いをしてきた。

 求次は「まあ、いいでしょう。」と言って渋々OKを出した。

 それから武並はトランクバークの筋肉のつき方や足の形などをチェックしていった。


 10分後、一通りのチェックを終えた武並は

「この馬、トランクバークはいくらで落札したんですか?」

 と問いかけてきた。

「700万円です。最初は600万円からスタートし、610万→660万→700万となって僕が落札しました。」

「ほう、700万ですか。思ったよりも安く競り落としましたねえ。」

「まあ、運が良かったのかもしれませんが。」

 武並は落札金額まで聞きだした後、いよいよ本題に入ってきた。

「木野さん、結論から言いますが、この馬を1000万円で買い取らせてもらえませんか?」

「1000万ですか?」

「そうです。この馬ならそれくらい出してもいい。だめなら1200万でもいいですよ。」

 武並は自分の牧場の社長から、ぜひこの馬がほしいと言われていたことも伝え、ぜひともゆずってもらえるように迫ってきた。

「だめです。僕はこの馬と運命を共にすることに決めたんです。ゆずるつもりはありません。」

「そんなこと言わずに、お願いしますよ。何なら1500万出してもいい。落札金額の2倍以上ですよ!こちらとしては出血大サービスですよ!」

「だめです。お金の問題ではありません!」

 求次はかたくなに拒否の姿勢を貫いた。

 しかし、心の中では少し動揺の色を見せていた。

 今、牧場は非常に厳しい状態だ。所持金は落札時の800万円から生活費や馬の世話のためにさらに減り、今や750万円しか残っていない。

 もしここでトランクバークを1500万で売ることができれば、家計にも大助かりだ。

 笑美子も可憐も喜んでくれるかもしれない。

 個人的にも少しは気持ちに余裕を持って職探しをすることができるかもしれない。

 求次は内心ではどうするべきか迷った。

「ぜひ、お願いしますよ。この馬には実力がある。競走馬として走れば2500万~3000万は稼げると見込んでいる。だからこそわざわざここまで来たんです。この馬が700万円で落札されたなんて、こちらとしては不思議で仕方がないくらいなんですよ。」

 武並はあれこれ言いながら迫ってきた。

 しかしそれを言われたことで、求次の心には変化が生じた。

(なるほど。この馬にはそれくらい稼ぐだけの実力があるのか。)

 そう考えると、次第に迷いはなくなっていった。

「わざわざここまで来てくれた人に向かって言うのもなんですが、やはりお断りさせていただきます。トランクバークは自分の手でデビューさせます。もしこの馬を手に入れられなかったことを悔やむのなら、あの時セリ市に来なかったことを悔やむべきです!」

 求次はきりっとした顔で言い切った。

「どうしても、手放す気はないんですか?」

「ないです!」

 求次は懸命に武並とにらめっこを続けた。何があっても手放さない覚悟だった。

「…そうですか。それなら、その馬がデビュー後にどうなるのかを見届けることにしましょう。」

 求次のかたくなな態度に、武並はついに引き下がることを決めた。

「あっ、でももし何かあったらうちを頼りに来てもいいですよ。」

「……。」

 求次は武並に皮肉めいたことを言われ、馬鹿にされたような気持ちになった。

 しかしそれでも表情だけは崩さなかった。

 そしてその表情のまま、武並が牧場から立ち去っていくのを見つめていた。

(これでよかったんだ。きっと手放さなくてよかったと思える日が来る。きっと!)

 求次は失敗の許されない状態の中、必死に自分に言い聞かせていた。


 その日の夜、求次は先に自分で夕食を済ませた後、一人で外に出かけていった。

 そのため、笑美子と可憐は2人で食事を取ることになった。

「お父さんは?」

 父親の姿がないことを不思議に思った可憐は母親に問いかけた。

「外でジョギング中よ。」

「ジョギング?何で?」

「セリ市で買ってきた馬の調教のために、馬の上に乗らなければならないから、少しでも負担重量が減るようにって。少なくとも今より5kgは減らさないといけないようなこと言っていたわ。」

「何それ?そんなことをしてお父さん大丈夫なの?」

「私が知ったことじゃないわ。とにかく、お父さんはそれはそれで必死なんだから、私達は見守ることにしましょう。」

「はあい。」

 2人は内心ではしらけながらも、求次を批判するようなことはしなかった。

 なお、彼女らは昼間出かけていたため、トランクバークに対して持ちかけ話があったことを知る由もなかった。



 僕自身テレビゲームをしていて、700万で競り落とした馬の売り値が1500万というのには驚きました。

 資金的には本当に苦しい時期だったので、どうしようか悩みましたが、結局売らずにデビューさせることにしました。

 ゲームなら破産してもまた最初からやり直せますが、これが現実だったら、ものすごい賭けになっただろうと今でも思います。


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