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2011年9~10月 どん底の状態

 セリ市が行われた翌日の夕方、北の大地から飛行機に乗って自宅の牧場に帰ってきた求次は抜け殻のように呆然としたまま、青々と茂った草と、古い馬房を見つめていた。

 すでに日は西に沈んでいき、辺りは暗くなり始めた。

 それでも彼はうつむいたまま、じっとその場に立ち尽くしていた。

 やがて空にはたくさんの星が姿を現し始め、空の青色はどんどん濃くなっていった。

 辺りには秋の夜風が吹き、草や木をゆすっていた。

 その時、家のドアが音を立てながら開いた。

「お父さん、ご飯できたわよ。」

 声の主は娘の可憐だった。彼女はドアから半分姿を出した状態で呼びかけた。

「あ、ああ…。今行く…。」

 求次は燃え尽きたように弱々しい声で返事をした。

「お父さん、一体どうしたの?」

 可憐はドアのところに立ったまま、心配そうに言った。

「…。」

 求次は何も答えないまま、ゆっくりと家の方向に歩き出した。


 この日の夕食は笑美子と可憐が一緒に作った広島風のお好み焼きだった。

 3枚のお皿にはすっかり焼き上がったお好み焼きが一つずつ置かれていて、白い水蒸気が勢いよく上がっていた。

 笑美子と可憐は椅子に座ると手を合わせて

「いただきます。」

 と言った。そして箸を手にとって食べ始めた。

 一方、求次だけは憂うつな表情を浮かべたまま、2人の後に続いてぼそぼそと食べ始めた。

「ねえお父さん、一体どうしたの!?全然元気ないじゃない!」

 可憐は少しきつめの口調で問いかけた。

「すまんな…。」

 求次は元気のない声で返事をした。

「どうしたのよ!?お母さん、お父さん一体どうしたの!?何でこんなに元気がないの!?」

 可憐はさっきよりもきつい口調で問いかけた。

「実はね…。お父さん、自分の持ち馬を売りに北海道まで行って馬のセリ市に参加していたの。その時ね、競り落とした人に仔馬だけでなく母馬のトロピカルスコールも一緒に買い取ってくれってお願いしたのよ。」

「えっ?母馬も?」

「そう。仔馬の落札価格が低かったものだから、これでは生活が成り立たなくなると判断したの。母馬だけ残しても収入が得られないまま、えさ代ばかりがかかるからね。それで、母馬も売ることを決心して、断腸の思いでお願いしたのよ。」

「それじゃ、2頭とも売っちゃったの?」

「ええ。最初は断られたんだけれど、一晩かけて必死にお願いしたの。それで何とか相手を説得して、母仔合わせて900万円で買い取ってもらえることになったの。」

「じゃあ、牧場にはもう馬いないの?」

「そうよ。」

「それじゃあお父さん、900万円もらえたのはいいけれど、これからどうやって収入を得ていくの?」

「そればかりは私にも分からないわ。いずれにしても馬がいない以上、この牧場はたたんでしまうと思うから、別の仕事を見つけるしかないでしょうね。」

「……。」

 可憐は母親の話にすっかり圧倒されていた。箸を持った手はピタリと止まっていて、目の前にあるお好み焼きはすでに冷めていた。


 食事が終わると、求次は「ちょっと求人情報見てくる。」と一言言い残すと、重い足取りで事務所に向かっていった。

 そして事務所でパソコンを立ち上げると、求人情報のページを開き、一件一件求人内容をチェックし始めた。

(この牧場は、本当にこれまでなんだろうか。これからは本当に他の仕事を探していくしかないんだろうか…。)

 検索をしながら求次は何度も何度もそう自問を繰り返した。

(本当に閉鎖するしかないのか…。900万円と引き換えに夢は終わってしまうんだろうか…。)

 そう考えているうちに、彼の目には涙があふれ出した。

(泣いてたまるか!僕はこの家の主なんだぞ!妻と娘を養っていく立場なんだぞ!泣くもんか!)

 心の中では必死になって自分に言い聞かせた。

 しかしそれに反して涙は出続け、ついにその場に泣き崩れた。

「ちくしょーーーっ!!!」

 彼は両手を力いっぱい握りしめながら大声で絶叫した。

 その声は、様子見のために事務所入り口の扉の向こうまで来ていた可憐の耳にも届いた。

(お父さん、本当に悔しかったんだ…。)

 彼女はその場でじっとしたまま、父親の嗚咽を聞き続けていた。


 それから求次は新しい職を得るためにいくつもの求人に申し込みをした。

 そして履歴書を書き、面接にも挑んだ。

 だが、会社を受けても受けても不採用になった。

 彼はすでに40歳を超えているため、年齢制限に引っかかって思うように会社に申し込めなかった。

 さらには職歴の欄には「牧場経営」としか書けず、ほとんど未経験の職種ばかりだった。

 そのため、いくら自己アピールをしたところで、即戦力になれるような人材とは認めてもらえなかった。

 幸い、持ち馬の落札金のおかげでしばらくの間は生活の心配はないが、それでも不安は消えなかった。

 むしろ、不安は日を追うごとに膨らむ一方だった。

(もしかしたら、僕を雇ってくれるところなんてどこにもないんだろうか。僕は会社員になることもできずに、妻のパート収入に頼るだけの男になるんだろうか…。そして、誰からも必要とされなくなっていくんだろうか?いや、そんなふうにはなりたくない。何とかしてこのどん底からはい上がりたい!)

 彼は先の見えない不安の中で、何か方法がないか必死に考えた。


 そんなある日、事務所のパソコンで求人情報を見ていた求次は、ふと競馬のホームページを開いた。

 しばらくそのページに見入った後、今度は思いつきで馬のセリ市のページを開いてみた。

 そこには繁殖牝馬や当歳馬、1歳馬のセリ市に関する情報が掲載されていた。

「セリか…。」

 彼はそう一言つぶやくと、セリに出される馬の写真やプロフィール、金額などをチェックし始めた。

「この馬はちょっと小さいな…。」

「この馬は高いな…。」

「この馬はいいかもしれないな…。」

 彼はそうつぶやきながら、いつの間にか血眼になってデータを集めた。

 時計の針はコチコチ音を立てながらどんどん進んでいき、夜の12時をまわった。

 それでも彼はパソコンから離れようとはせず、寝る間も惜しんで検索を続けていた。


 求次は夜が明けた後、眠い目をこすりながら笑美子、可憐と一緒に朝ごはんを食べた。

 食べ終えた後、彼はそっと箸を置くと、

「笑美子、可憐。お父さんからちょっと伝えておきたいことがあるのだが、いいか?」

 と言った。

「何よ、こんなところで。」

「お父さん、何を言うつもりなの?」

 2人は少し顔をしかめながら問いかけた。

「実は…、父さんは、以前馬を売って得たお金で……、……競走馬を買おうと思う!」

 求次は間を置きながらはっきりと言い切った。

 次の瞬間、笑美子と可憐の表情が一変し、一斉に席を立った。

「ちょっとあなた!本気なの、それ!」

「本気だ。来年デビューする1歳馬を、セリ市で買ってこようと思う!!」

「お父さん!稼いだお金をそんなことに使うつもりなの!?」

「私は反対します!まだ懲りずにそんなことを考えているのですか!?正社員になって安定した職に就くんじゃなかったんですか!?」

「失敗したらどうするのよ!私、高校にも大学にも行けなくなるじゃない!!夢ばかり見てないで、生活も考えてよ!!」

 2人はカンカンに怒り出し、激しい口調で反対をしてきた。

 大声が台所にこだまする間、求次は黙ってじっとその言葉に耐え続けた。

 やがてかける言葉も尽きたのか、笑美子と可憐はあきれたような表情をしながら椅子に座った。

「確かに1ヶ月かけて職探しをしてきた。履歴書も書いたし、面接も受けた。だが、この不況のご時勢、僕を雇ってくれる会社は現れなかった。まして正社員なんてとてもなれそうな感じではなかった。そう考えると、やっぱり僕には馬しかないと思ったんだ。」

 求次はそう言いながら椅子から立ち上がった。

「頼む!もう一度だけ、馬で勝負させてくれ!それでだめなら今度こそあきらめる!」

 彼は土下座をするように深々と頭を下げた。

「……。」

「……。」

 笑美子と可憐は必死にお願いする求次を厳しい目で見つめた。

「頼む!父さんの最後のお願いだ!」

 求次も必死に食い下がった。

「…分かりました。もう一度だけチャンスをあげます。その代わり、落札金額は600万から700万までにしてください。それ以上はビタ一文許しません!いいですね!!」

 笑美子は鬼のような形相をしながら言った。

「お母さん、いいの!?失敗したらこの家むちゃくちゃになるわよ!」

 まだ反対の姿勢を崩していない可憐は、驚きながら母親に問いかけた。

「まあいいでしょう。でもあなた、もし失敗しても絶対に借金は作らないでくださいね!!」

「それから、もし失敗しても、私が高校と大学に進学するお金は絶対に確保してね!約束よ!」

 笑美子と可憐は怒ったような言い方をしながらも、最終的には了解した。

 この日から、求次にとっては失敗の許されない、一世一代の大勝負が始まった。


 その数日後に行われたセリ市で、出会った馬こそが、後のトランクバークである。

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[一言] もう女性陣の言い分がド正論で一言も反論できない
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