2013年9月 頼られる存在
9月、これまでの暑さは少しずつ和らぎ、段々過ごしやすい日々になってきた。
求次はトランクバークが牧場にやってきてから、毎日世話をしていた。
そして、こまめに厩舎に連絡を入れ、近況を報告した。
さらに可憐が手伝ってくれる日には、彼女に馬の世話の仕方を一つずつ教えていった。
脚元の状態はまだ思わしくないため、厩舎に戻れるのは先になるが、生活費の心配がなくなったこともあって、悲観的な気持ちはなかった。
そんなある日、求次は作業を終えて事務室で本を読んでいると、ふと固定電話が鳴った。
「誰からだろう?」
彼はそう言いながら受話器を取った。
「もしもし、木野です。」
『木野さんですか?』
「はい、そうです。」
『お久しぶりです。武並です。函館競馬場でお会いして以来ですね。』
「そうですね。ところで、今日はどのような用件ですか?」
『以前お話したことなんですが、栗東のトレセンにいる管理馬を、そちらに放牧に出そうと思っているんですよ。よろしいですか?』
「はい。いいですよ。それでは今からメモの準備をしますので、少々お待ちください。」
『かしこまりました。』
求次は早速紙とシャープペンシルを用意した。
「お待たせしました。それでは手続きに入ります。頭数は何頭になりますか?」
『1頭です。ゴールデンウェーブという5歳の牝馬です。』
「期間はどれくらいになりますか?」
『1ヶ月でお願いしたいと思っています。』
「いつから放牧されますか?」
『今週の土曜日のレースに出走させた後、月曜日に放牧に出そうと思っていますが、よろしいですか?』
「かしこまりました。それでは牧場でお待ちしていますので、厩舎を出る前にまたお電話をお願いします。」
『分かりました。それでは木野さん、よろしくお願いします。』
求次は武並からの依頼を受けて、ますます気合いが入った。
翌週の月曜日の昼、馬運車でゴールデンウェーブが牧場に到着した。
車には運転手のほかに武並も乗っていた。
「木野さん、こんにちは。」
「こんにちは。この馬ですね。」
「はい。この馬は長距離輸送を嫌うので、ここで放牧できるならぜひお願いしたいと思っていたんですよ。」
「なるほど。いずれにしても、うちを頼りにしていただき、本当にありがたいです。」
「どういたしまして。これからもお世話になると思いますので、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
この後武並と運転手の人は、事務室で求次の出したお茶とお菓子をごちそうになった。
そして、運転手の人は武並を最寄り駅まで送った後、栗東のトレーニングセンターに戻っていった。
一方の武並は、駅から名古屋駅まで行った後、新幹線を乗り継いで東北にある自分の牧場に向かっていった。
それから数日後、求次はトランクバークとゴールデンウェーブの面倒を見た後、台所に移動して自分用の昼ごはんとして、広島風のお好み焼きを作っていた。
ちょうど焼き上がった頃、今度は携帯電話が鳴った。相手は星君だった。
『こんにちは。木野さん。』
「こんにちは。」
『トランクバークの調子はいかがですか?』
「元気ですよ。最もまだ調教ができるようになるまでには、早くてもあと1ヶ月かかると思いますが。」
『そうですか。でも声からして、悲観的な感じではないですね。』
「はい、まあ。ところで、そちらはいかがお過ごしですか?」
『スタッフはみんな元気です。ただ、管理している馬が全て放牧に出ることになったんですよ。』
「全てですか?」
『はい。ホーソンフォレストは連戦の疲労で、ウェーブマシンはソエがおさまるまで休ませることになったんです。それにムラサキツユクサは、復帰してもこれ以上賞金を稼ぐことは難しいということで、厩舎には戻らずにこのまま引退して、繁殖牝馬になるそうです。』
「そうなると厩舎は寂しくなりますね。経営は大丈夫ですか?」
『トランクバークが稼いでくれた賞金のおかげで、しばらく何とかなりそうです。それで、善郎君と咲さんと相談した結果、3週間程厩舎を閉めることにしたんです。』
「閉めるんですか?」
意外なことを聞き、求次は思わず驚いて返した。
『はい。その間休暇を取って、各自で好きなことをすることにしました。』
「そうですか。それで、皆さんはどのように過ごす予定ですか?」
『僕は家族と一緒に箱根の温泉にいくつもりです。そして、善郎君は一人旅で東北の各地を回りたいと言っています。』
「スクーグさんはどうされますか?」
『彼女は両親の住んでいるハワイに行くそうなんですが、チケットの関係で、出発が3日後の夜になってしまったんですよ。』
「それでは、その間どうやって過ごすつもりですか?」
『本人は失礼でなければ、ぜひ一度木野さんのところに行ってみたいと言っています。』
「うちにですか?」
『はい。もしOKをもらえるならば、彼女は明日そちらに伺いたいと言っています。そして2泊した後に再び関東に戻り、その日の夜に出発するプランを立てています。いきなりで申し訳ないですが、よろしいでしょうか?』
「そうですねえ。僕としては大歓迎ですが、これから笑美子と可憐に聞いてみます。」
『ぜひお願いします。いい返事がもらえたら、連絡してください。』
「分かりました。」
求次は電話が終わると、すぐに携帯電話で笑美子と可憐にメールを送った。
その日の午後3時ごろ、スーパーでの仕事を終えた笑美子からメールが返ってきた。もちろん返事はOKだった。
それを受けて、求次は可憐に笑美子OKのメールを送った。
可憐は高校の授業が終わるとすぐに、求次に電話をしてきた。
『お父さん、本当に咲さん来てくれるの!?』
「ああ。明日から2泊だけだが、本人はぜひ行きたいと言っているそうだ。」
『わーいわーい!!』
彼女は明日になるのが待ちきれないようにうれしがっていた。
「それじゃ、僕の方から連絡しようか?」
『私から咲さんに連絡する!いいでしょ?お父さん。』
「ああ。じゃあ、頼んだ。」
求次は厩舎への返事を彼女に任せることにした。
電話が終わった後、求次はすがすがしい気分で考えごとを始めた。
(僕は本当に他人から頼られる存在になったなあ。トランクバークを購入した時には孤立無援の状態だったが、それがここまで状況が変わるとは…。これもみんなトランクバークのおかげだ。)
彼はこの馬が状況を好転させてくれたことを心から喜んでいた。
だからこそ、何としても引退後に繁殖牝馬として、この牧場に置いておけるようにしたいと考えていた。




