2013年8月 2度目の放牧
UHB杯が終わり、8月になった。
函館競馬場に一人残っていた村重君はトランクバークの体調をチェックしていた。
その時、彼は少し歩き方が気になった。
(気になったと言っても、微妙なものではあったが。)
(うーん…。もしかしたら筋肉痛なだけかもしれないけれど、どうしようかなあ…。やっぱり先生に報告するべきかなあ…。)
彼は考えた末に、星君に連絡をし、状況を詳しく説明した。
『そうか。だったら、一度厩舎に戻した方がいいだろうな。』
「はい。では今日のうちに出発ができるようにします。」
『分かった。それでは到着次第、念のため検査を受けることにしよう。』
「よろしくお願いします。」
彼はその日のうちに本州行きの馬運車を手配した。
トランクバークはそれに乗って、美浦のトレーニングセンターに向かっていった。
翌日の午前中にトランクバークが到着すると、星君はすぐに検査施設に連れていった。
検査が終わった後、村重君はようやく厩舎に到着した。
彼は馬運車を見送った後、すぐに戻るための身支度をし、帰り支度をした。
しかし、すぐに飛行機を確保することができなかったため、仕方なく夜行列車に乗ることにした。
そして電車を乗り継いだ結果、この時間の到着となってしまった。
「先生、結果はどうでしたか?」
「少し骨にヒビが入っているようだ。まあ、亀裂骨折と言ったところだな。」
「そうですか…。」
結果を聞いた村重君は、力が抜けたようにガックリとした。
「僕としても残念だ。だが、よく気がついてくれた。僕だったらこのまま調教を続けていたかもしれない。でかしたぞ、善郎!」
「…はい。」
村重君は少し肩の荷が降りたのか、表情が緩んだ。
星野君はすぐに木野牧場に連絡をして、求次に状況を説明した。
「そういうわけなんだ。残念なことにはなってしまったが、そちらで放牧をさせることはできそうですか?」
『はい。ちょうど新しい馬房が完成したところなので、いつ放牧に出しても大丈夫ですよ。』
「分かりました。では今から馬運車を手配します。明日村重君が運転してそちらに向かうので、準備をしておいていただけますか?」
『分かりました。では、お待ちしています。』
求次は内心では悔しい気持ちを抱えながらも、それを表に出すことなく応対した。
トランクバークが牧場にやって来る日以降、求次はアルバイトを休止することにした。
そして、毎日馬の世話をしながら過ごすようになった。
アルバイト収入が途絶えてしまうことは残念ではあったが、それでも久しぶりに牧場で触れ合えることを彼は喜んでいた。
ある日、求次がいつもどおりに世話をしていると、ふと背後から
「お父さん。」
という声がした。声の主は可憐だった。
「どうした?」
「あのね、お父さん。私も手伝えることがあれば何かしたいんだけれど、いい?」
「えっ?」
可憐から意外なことを言われ、求次は驚いた。
「どうしたんだ?急に手伝いたいなんて。」
「うん、ちょっと…。」
可憐はこのように考えるようになったいきさつを話し始めた。
彼女は以前まで、自分が牧場経営者の娘ということを恥じていたが、今では誇りに思えるようになったこと。
高校生活ではいまいち目標を持つことができず、何かやりがいのあることを探していたこと。
父親のがんばりを見て、自分も何か役に立ちたいと思うようになったことを話した。
「お父さん、お願い。私も力になりたいの。休みの日だけでも手伝わせて。いいでしょ?」
「うーん…。」
「お願い!」
「…分かった。」
「本当!?」
「ああ、いいだろう。」
「お父さん、ありがとう!」
可憐は飛び上がって喜んだ。求次は少し戸惑ったが、内心ではとても喜んでいた。
今まで誰も手伝ってくれる人がおらず、白い目で見られながら一人で黙々と作業をしていたのだから、無理もないだろう。
「それじゃ可憐。今やっている作業が終わったらえさを買いに行くから、一緒に来るか?」
「うん!」
「ついでにお前に合った作業服も買いに行こうか?」
「賛成!」
可憐は喜びながら大声で応えた。
「おっと!ちょっと声が大きいぞ。」
求次ははっとして忠告した。そしてトランクバークを見た。
トランクバークは『どうしたの?』と言っているかのようにこちらを見たが、特に驚いている様子はなかった。
そしてまたすぐにえさを食べ始めた。
「馬を驚かせるといけないから、あんまり大きな声は出さないでくれ。」
「はあい。」
可憐はささやくような声で応えた。
それからしばらくして、2人は軽自動車に乗り、買い物に出かけていった。
翌日、求次と可憐は一緒にえさやりをし、馬房の掃除をした。
作業が終わると、可憐は充実した表情で家に戻っていった。
一方の求次はトランクバークのそばにいて、これまでの思い出を色々と語りかけていた。
その話を、トランクバークはうなずきながら聞いていた。
やがて思い出話も終わり、求次は馬房近くの木陰に移動した。
彼が木の葉の音を聞きながら涼んでいると、今度は笑美子がやってきた。
「あなた。」
「ん、どうした?」
「その…、ちょっと色々と話をしたくて…。」
笑美子はそう言うと、求次の隣に座った。
「話って?」
「あの馬、本当に私達の生活を救ってくれましたね。」
「確かにそうだな。トランクバークのおかげで、破産の危機を回避し、貯金もでき、そして家の改装も行うことができた。本当に感謝している。この馬は、今はもう立派な家族の一員だ。」
「そうですね。私もやっとこの馬を私達の家族として考えることができるようになりました。」
「でも、まだこれがゴールではない。この家族をこれからも家においておくためには、まだ稼がなければと思っている。」
「そうですか?私としてはもう十分稼いでくれたと思っていたのですが。」
「うちらの生活だけを考えれば、確かにこれで十分だ。でも今の資金(3000万円弱)ではトランクバークが引退したらまた資金難になってしまう。引退後にこの牧場で繁殖牝馬になり、仔馬を産ませて競走馬として走らせていくためには、あと2000万くらい稼がなければならないと思う。」
「そうですか。それにしても、あなたは本当に馬が好きなんですね。」
「僕にはこれしか生活していく術がないからな。だから、これからも馬の管理で生活していきたいと思っている。君には反対されるかもしれないが。」
「もう反対はしませんよ。私も可憐と同様に、あなたのことを誇りに思っています。」
「えっ?」
求次は驚いて笑美子を見た。これまでずっと冷たい目で自分を見ていた妻の態度が一変したのだから、無理もないだろう。
「確かに以前は安定した生活を求めていたために反対もしました。正直、いつ牧場をたたんでくれるのかと思っていたのも事実です。でも…。」
「でも?」
「あなたのがんばりや、トランクバークの活躍、そして目標がなくてただ漠然と大学進学を考えていた可憐に変化が表れたことを見ていくうちに、私の気持ちにも変化が出てきまして。」
「そうか。」
求次はほっとして笑美子を見た。
これまでは関係がうまくいかず、もしかしたら家族を崩壊させて、離婚という最悪の事態まで想定していただけに、彼女の変化は素直にうれしかった。
笑美子も口には出さないが、自分のせいで求次に負担をかけたことを反省していた。
そして、これからは家族一丸になってトランクバークを支えていけたらと考えていた。
木野家の3人は、今ではすっかり仲も良くなり、家族水入らずの時を楽しんでいた。
トランクバークも一時的にではあるが、勝負の世界から解放され、非常にリラックスしながら毎日を過ごしていた。




