2013年4月 夢舞台(後編)
やがて時計の針は3時半を回り、阪神競馬場で行われるGⅠ桜花賞の発走時間が近づいてきた。
選ばれし18頭の馬達は、1コーナーポケットにあるゲートの後方でスタートに備えていた。
スターターの人が台に立って赤い旗を振ると、会場からは「ワーッ!」という大きな歓声が起こった。
それに続いて、ウイナーズサークルでは何人もの人達がファンファーレの演奏を始めた。
競馬場に集まった大勢の人達は、それに合わせて手拍子を開始した。
それを聞いて、可憐も一緒に手拍子をした。
ファンファーレの演奏が終わると会場からは「ワーーーーッ!!」という歓声が沸き起こった。
もちろん、可憐も叫んだ。
「Karen。それ、馬の前ではやらないでね。まあ、ここからなら馬には聞こえないけれど。」
スクーグさんはすっかり盛り上がっている彼女に言った。
「えっ、何で?みんなやっているじゃない。」
「確かにやってはいるけれど、あれは馬を驚かせる原因になるから良くないのよ。」
「そうなの?」
「Yes。馬はとても敏感で臆病な動物だから。手拍子と歓声で馬が驚いたりでもしたら、私達のこれまでの努力が水の泡になってしまうわ。」
「ふうん。でもじゃあ、あの演奏は何なの?」
「それは、えっと…。」
スクーグさんは可憐に突っ込み返され、返答に困ってしまった。
(※競馬ファンの皆さん、競馬場ではどうか大声で馬を脅かさないように気をつけながら、観戦をしましょう。)
「2人とも、レース始まるよ。」
馬のゲート入りが始まったのを見た求次は彼女達にそう言った。
しかし、トランクバークは歓声に驚いてしまったのかオドオドしていて、なかなかゲートに入ってくれなかった。
久矢騎手はトランクバークの尻尾を持ってゲート入りを促したが、それでも嫌がっていた。
その度に観客席からはどよめきが起こった。
「あちゃー、ますます機嫌を損ねているな…。」
求次は顔をしかめて言った。
「これがGⅠの雰囲気ってやつかもしれんな。まあこれも貴重な経験だ。」
星君が言った。
「でも、これが全国放送されているってなると、こちらとしては肩身狭いな…。」
「気にするな。とにかく出ることに意義があるってことだ。」
気まずそうな顔をしている村重君に対し、星君は表情一つ崩さずにいた。
トランクバークは順番を後回しにされた後、係員に無理やり押し込まれるような形で、ようやく10番ゲートに入った。
そして全馬が収まった後、いよいよゲートが開いて桜花賞が発走した。
18頭の馬達が飛び出すと、競馬場にはまた大きな歓声が響いた。
トランクバークはそれに驚いたのか、スタートダッシュがつかず、後方の位置についてしまった。
(あっ!まずいっ!)
久矢騎手はいきなり作戦を失敗し、一瞬パニックになったが、次の瞬間には何とか気持ちを立て直し、後方ながらもレースを進めた。
先頭には16番のゴールデンコンパスが立った。
余談だが、ゴールデンコンパスはチューリップ賞で、わずか4cmの差で4着に敗れた後、アネモネSを勝って桜花賞の権利を獲得した。
ゴールデンコンパスはどんどん加速し、さらには後ろの2、3頭もそれについていった。
レースは縦長の展開になった。
9番のオミナエシは7、8番手、13番のカーテンコールはやや後方からレースを進めていた。
トランクバークは14、5番手の辺りを走っていた。
久矢騎手はとっさに策が浮かばない状況の中、この位置をキープしていた。
レースはハイペースで流れた。先頭のゴールデンコンパスから、後方にいるトランクバークとの差はどんどん開いていった。
「ちょっとお、これじゃ勝負にならないじゃないのよ!だめじゃない、トランク!」
「そう言うな。大勢の馬の中からたった18頭しか出られない夢舞台なんだ。」
求次はまるで試合放棄をしたような言い方をする可憐をしつけるように言った。
3コーナー途中では、先頭からシンガリまでの距離が20馬身以上になった。
その中で、トランクバークは先頭から15馬身以上離れた位置にいた。
久矢騎手は4コーナーに入っても手綱をしっかりと握ったまま、その位置をキープしていた。
一方のオミナエシは5、6番手の位置に、カーテンコールは中段にいた。
先頭が4コーナーを回り、最後の直線に差し掛かると、スタンドからはいつもよりもさらに大きな歓声が上がった。
トランクバークはそれから3秒近く遅れて最後の直線に姿を現した。
久矢騎手はムチをふるってスパートをかけた。しかしトランクバークの順位はなかなか上がらなかった。
さらには歓声に驚いたのか、内側に斜行してしまった。
たまたますぐ近くに馬がいなかったので、進路妨害にならずに済んだのがせめてもの救いだった。
先頭はゴールデンコンパスが懸命に逃げ、それを2番手まで上がってきたオミナエシが追いかけていた。
残り200mを切ってからは、それまで後方で待機していた1番人気の4番マイティファントムが一気にスパートをかけて、迫ってきた。
「行け!」
「交わせ!」
「粘れ!」
「そのまま、そのまま!」
スタンドの人々はすっかり興奮し、辺りには絶叫にも似た大歓声がこだました。
ゴールデンコンパスは残り100m手前の地点でオミナエシに交わされ、オミナエシが先頭に立った。
しかしその直後、マイティファントムがさらに加速をつけて襲い掛かってきた。
勝つのはオミナエシか?マイティファントムか?
チューリップ賞の勝ち馬か?フィリーズレビューの勝ち馬か?
「オミナエシ、行けえ!!」
「マイティ、交わせ!!」
「んもう、コンパスーー!!」
「あかんわーー!!」
「何でやねん!!」
絶叫や悲鳴が響き渡る中、真っ先にゴールに飛び込んだ馬はマイティファントムだった。それに続いてオミナエシが2着でゴールをした。
逃げたゴールデンコンパスは6着、カーテンコールはあまり順位を上げることができずに9着になった。
馬が次々とゴールする度に、大きな声が響き渡っていたスタンドは段々静かになっていった。
トランクバークはその歓声が収まってきた後で、16番目にゴールをしていった。
「あーあ、話にならなかったわね。」
期待はずれのレースになってしまったことに失望した可憐は、両手を後頭部に置いて言い放った。
「まあまあ。結果としては残念だが、今日ばかりは大目に見よう。」
「そうとも。初めてのGⅠレースなんだ。出られただけでも幸せなことだ。」
求次と星君は内心では残念だったが、気持ちはどこか晴れやかだった。
その気持ちはレースを終えた久矢騎手も同じだった。
(全然うまくいかなかった。格好悪いレースになってしまったが、それでもGⅠに出られたんだ。先生も今日ばかりは許してくれるだろうし、とにかく早く気を取り直そう。この後第12レースが控えているわけだし。)
彼は素早く気を取り直して、最終レースにのぞんでいった。
その日の夕方、木野家の3人と、星厩舎の3人は同じ新幹線に乗り込んだ。
向かい合って座席に座った求次と星君は、今後のトランクバークの予定について話し合った。
(※ここから先は、求次→星君の順番でしゃべっています。)
「今日は展開も悪かったが、トランクバークの実力では、これから先GⅠはきついだろうな。」
「同感だ。トランクがGⅠに出られるのは、これが最初で最後だろうな。」
「確かに。僕としてはこれからしばらく休ませて、1000万クラスのレースで出直すことにしようと思うのだが。」
「じゃあ放牧させますか?」
「そうだな…。せっかくだから厩舎で休養させてもいいですか?」
「いいんですか?休養中であっても預託料は頂きますよ。」
「大丈夫です。資金的に少しは余裕もできたので、月60万程度なら十分に払えます。それに、少しでもそちらの懐を潤すことができればと思いまして。」
「かしこまりました。」
2人はその後もトランクバークのことを話しながら過ごしていた。
一方、可憐は終始スクーグさんと英会話レッスンをするような形で、仲良く会話を楽しんでいた。
(村重君はその日にあったことをノートにまとめていて、笑美子は1人ポツンと過ごしていた。)
木野家の3人が名古屋駅で降りた後、星厩舎の3人はそのまま東京駅に行き、そこから在来線と車を乗り継いでトレーニングセンターへと帰っていった。
この時点でのトランクバークの成績
8戦2勝
本賞金:900万円
総賞金:3271万円
クラス:オープン(5月下旬から1000万下)




