届いた手紙
最近、仕事が忙しい。
今日も会社を出たのは終電間近だった。
仕事そのものは嫌いじゃない。任された仕事はきっちりこなすし、それなりに評価もされている。ただ、職場の人間関係だけは苦手だった。
誰が誰を嫌っているとか、誰が上司に気に入られているとか。そういう話は、聞いているだけで疲れてしまう。
以前は相談に乗ることもあった。でも、いつの間にか自分まで揉め事に巻き込まれるようになってから、必要以上に深入りしないことに決めた。
自分の仕事をきちんとこなして、静かに帰る。
それが一番いい。
マンションに着き、郵便受けを開ける。
大量のチラシに混ざって、一通の白い封筒が挟まっていた。
宛名には私の名前。しかし、差出人の名前はどこにも書かれていない。
「……何これ」
気味が悪い。
とりあえず封筒をテーブルに置き、簡単な夕食を済ませることにした。
食後のお茶を飲んでいると、視界の端に白い封筒が入った。
しばらく眺めたあと、私は封を切った。
中には便箋が一枚。
書かれていたのは、たった一行だった。
『あの日、あなたが嘘をついてくれて、よかった』
「……は?」
嘘?
誰に? 何を?
まったく心当たりがない。
気味が悪くなり、便箋をゴミ箱へ放り込んだ。
明日も仕事だ。
もう寝よう。
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数日前のことだった。
「このミスしたの誰っ! 林さん、知ってる?!」
上司の怒鳴り声がオフィスに響いた。
「いえ、すみません。わからないです」
「まったくもう! 見つけて説教しなきゃ!」
私は小さく息を吐いた。
誰がミスをしたのかなんて、本当に知らない。自分の担当業務ではなかったし、他人の仕事をいちいち確認するほど暇でもなかった。
「林せんぱ〜い!」
振り返ると、後輩の立花さんがにこにこと笑っていた。
二十二歳。入社して間もない彼女は、明るく人懐っこい性格で、上司や先輩からも可愛がられている。
「お局、めちゃくちゃ怒ってましたね〜」
「あんなに怒るなんてびっくりしたね」
「ほんとですよぉ。あんなふうにはなりたくないですね!」
「そうね」
立花さんはくすくす笑ったあと、思い出したように口を開いた。
「そういえば、安藤さん、また課長に褒められてましたよ〜」
「そうなの?」
「はい! 仕事できるし、気も利くし、すごいですよね♡」
安藤さんは立花さんの同期だ。
詳しいことは知らないが、彼女も周囲からの評判がいいらしい。
「同期に優秀な子がいると、私も頑張らなきゃって思っちゃいます!」
「いい刺激になるわね」
「はいっ!」
立花さんは元気よく返事をすると、軽い足取りで自分の席へ戻っていった。
若い子は元気だな。
そんなことを思いながら、私は再びパソコンに向かった。
あのときは、立花さんの言葉を特に気に留めなかった。
ただの世間話だと思っていた。
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翌朝。
目覚まし時計のアラームで目を覚ました。
昨夜の手紙のことなど、すっかり忘れていた。
いつもどおり身支度を整え、会社へ向かう。
出社すると、オフィスが妙に騒がしかった。
何人かの社員が集まり、ひそひそと話している。
また何かあったのだろうか。
できれば関わりたくない。
そう思いながら自分の席へ向かおうとしたときだった。
「林せんぱ〜い!」
聞き慣れた明るい声がした。
立花さんだ。
「手紙、読んでくれましたか〜?」
思わず足が止まった。
「……あの手紙、立花さんが入れたの?」
「はいっ! びっくりしました?」
「びっくりしたわよ。差出人くらい書いてくれないと」
「えへへ、すみませ〜ん!」
まったく悪びれる様子がない。
「それより、あの手紙は何だったの?」
「あっ、お礼ですよ! 林先輩のおかげで助かっちゃいました♡」
「お礼?」
「ほら、この前お局が怒ってた件ですよ!」
ようやく思い出した。
あのミスのことか。
「林先輩、誰がミスしたか知らないって言ってくれたじゃないですか〜」
「……言ったけど」
「私、嬉しかったんですよ!」
「ちょっと待って。あのミス、立花さんだったの?」
「そうですよ?」
あまりにもあっさり認めるので、拍子抜けしてしまった。
「でも私、本当に知らなかっただけよ。庇ったわけじゃないから」
「え〜、そうなんですかぁ?」
立花さんは少し残念そうな顔をした。
「それに、どうして私の住所を知ってるの?」
「え? 私、人事部ですよ? 社員の住所くらいわかりますよ〜」
当たり前のように言う彼女に、私は言葉を失った。
「そういう情報を勝手に使うのはよくないわよ」
「は〜い、気をつけま〜す!」
本当にわかっているのだろうか。
それより、さっきから気になっていることがある。
「ところで、今日は何の騒ぎなの?」
「あぁ、それですか!」
立花さんは嬉しそうに手を合わせた。
「安藤さん、今日で辞めるんですよ!」
「……え?」
「例のミス、安藤さんがやったことになったんです!」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……どういうこと?」
「私のミスだったんですけどね、ちょうど安藤さんも関わってた仕事だったので、安藤さんのせいにしちゃいました!」
「……は?」
「だって林先輩、知らないって言ってくれたじゃないですか♡」
背筋が冷たくなった。
「それだけで、安藤さんが責任を取ることになったの?」
「もちろん、それだけじゃないですよ〜。私、人事部で勤怠や人事評価の資料をまとめる仕事もしてるんです。安藤さんの評価に、ちょっとだけ手を加えちゃいました!」
「……あなたがやったの?」
「はい!」
立花さんは満面の笑みで答えた。
「前から小さなミスが続いてるように見えたら、上司も信じちゃったみたいで。安藤さん、ずっと責められてたんですよ」
「……そんな」
「昨日なんて、泣きながら相談してきちゃって」
「相談……?」
「はい! 私たち同期ですから!」
信じられなかった。
「私も辞めない方がいいって言ったんですけどね〜。もう限界だって」
「……あなた、自分が何をしたかわかってるの?」
「え? もちろんですよ?」
立花さんは不思議そうに首をかしげた。
「どうしてそんなことをしたの?」
「だってぇ」
彼女は唇を尖らせた。
「同期なのに、私よりチヤホヤされるなんて許せないじゃないですか♡」
その瞬間、胸の奥で何かが切れた。
私はこれまで、他人の揉め事には深入りしないようにしてきた。
余計なことに首を突っ込めば、自分まで巻き込まれる。
だから、見て見ぬふりをすることもあった。
でも。
これは違う。
「あなたがしたこと、全部上司に話すわ」
立花さんは目を丸くした。
「え〜? 林先輩、怒ってるんですか?」
「ええ。怒ってる」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「安藤さんを辞めさせて、それで終わりだと思ってるの?」
「……終わりじゃないんですか?」
本当に不思議そうだった。
その表情を見て、ようやく理解した。
この子には、何を言っても伝わらない。
「もういいわ」
私は立花さんに背を向けた。
上司に報告しよう。
安藤さんの退職だって、まだ間に合うかもしれない。
そのとき。
「林せんぱ〜い!」
背後から、いつもの明るい声がした。
「そういえば、あのお手紙、最後まで読んでくれました?」
「……最後まで?」
「はい!」
「一行しか書いてなかったじゃない」
「あはっ! やっぱり!」
立花さんは楽しそうに笑った。
「裏、見なかったんですね♡」
嫌な予感がした。
「……何が書いてあったの?」
立花さんが一歩近づいてきた。
耳元で、ささやく。
「次は、ちゃんと嘘をついてくださいね」
私はゆっくり振り返った。
立花さんは、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。
「私、林先輩のこと好きだったんですけどねぇ」
そして、少しだけ残念そうに首をかしげた。
「先輩も、安藤さんみたいになっちゃうのかなぁ♡」
私は拳を握りしめた。
それでも、足を止めるつもりはなかった。
今度こそ、見て見ぬふりはしない。
背後から、立花さんの楽しそうな笑い声が聞こえた。
**あの日、私がついた覚えのない嘘は、まだ終わっていなかった。**




