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届いた手紙

作者: 香坂 そよか
掲載日:2026/10/09

最近、仕事が忙しい。


今日も会社を出たのは終電間近だった。


仕事そのものは嫌いじゃない。任された仕事はきっちりこなすし、それなりに評価もされている。ただ、職場の人間関係だけは苦手だった。


誰が誰を嫌っているとか、誰が上司に気に入られているとか。そういう話は、聞いているだけで疲れてしまう。


以前は相談に乗ることもあった。でも、いつの間にか自分まで揉め事に巻き込まれるようになってから、必要以上に深入りしないことに決めた。


自分の仕事をきちんとこなして、静かに帰る。


それが一番いい。


マンションに着き、郵便受けを開ける。


大量のチラシに混ざって、一通の白い封筒が挟まっていた。


宛名には私の名前。しかし、差出人の名前はどこにも書かれていない。


「……何これ」


気味が悪い。


とりあえず封筒をテーブルに置き、簡単な夕食を済ませることにした。


食後のお茶を飲んでいると、視界の端に白い封筒が入った。


しばらく眺めたあと、私は封を切った。


中には便箋が一枚。


書かれていたのは、たった一行だった。


『あの日、あなたが嘘をついてくれて、よかった』


「……は?」


嘘?


誰に? 何を?


まったく心当たりがない。


気味が悪くなり、便箋をゴミ箱へ放り込んだ。


明日も仕事だ。


もう寝よう。


---


数日前のことだった。


「このミスしたの誰っ! 林さん、知ってる?!」


上司の怒鳴り声がオフィスに響いた。


「いえ、すみません。わからないです」


「まったくもう! 見つけて説教しなきゃ!」


私は小さく息を吐いた。


誰がミスをしたのかなんて、本当に知らない。自分の担当業務ではなかったし、他人の仕事をいちいち確認するほど暇でもなかった。


「林せんぱ〜い!」


振り返ると、後輩の立花さんがにこにこと笑っていた。


二十二歳。入社して間もない彼女は、明るく人懐っこい性格で、上司や先輩からも可愛がられている。


「お局、めちゃくちゃ怒ってましたね〜」


「あんなに怒るなんてびっくりしたね」


「ほんとですよぉ。あんなふうにはなりたくないですね!」


「そうね」


立花さんはくすくす笑ったあと、思い出したように口を開いた。


「そういえば、安藤さん、また課長に褒められてましたよ〜」


「そうなの?」


「はい! 仕事できるし、気も利くし、すごいですよね♡」


安藤さんは立花さんの同期だ。


詳しいことは知らないが、彼女も周囲からの評判がいいらしい。


「同期に優秀な子がいると、私も頑張らなきゃって思っちゃいます!」


「いい刺激になるわね」


「はいっ!」


立花さんは元気よく返事をすると、軽い足取りで自分の席へ戻っていった。


若い子は元気だな。


そんなことを思いながら、私は再びパソコンに向かった。


あのときは、立花さんの言葉を特に気に留めなかった。


ただの世間話だと思っていた。


---


翌朝。


目覚まし時計のアラームで目を覚ました。


昨夜の手紙のことなど、すっかり忘れていた。


いつもどおり身支度を整え、会社へ向かう。


出社すると、オフィスが妙に騒がしかった。


何人かの社員が集まり、ひそひそと話している。


また何かあったのだろうか。


できれば関わりたくない。


そう思いながら自分の席へ向かおうとしたときだった。


「林せんぱ〜い!」


聞き慣れた明るい声がした。


立花さんだ。


「手紙、読んでくれましたか〜?」


思わず足が止まった。


「……あの手紙、立花さんが入れたの?」


「はいっ! びっくりしました?」


「びっくりしたわよ。差出人くらい書いてくれないと」


「えへへ、すみませ〜ん!」


まったく悪びれる様子がない。


「それより、あの手紙は何だったの?」


「あっ、お礼ですよ! 林先輩のおかげで助かっちゃいました♡」


「お礼?」


「ほら、この前お局が怒ってた件ですよ!」


ようやく思い出した。


あのミスのことか。


「林先輩、誰がミスしたか知らないって言ってくれたじゃないですか〜」


「……言ったけど」


「私、嬉しかったんですよ!」


「ちょっと待って。あのミス、立花さんだったの?」


「そうですよ?」


あまりにもあっさり認めるので、拍子抜けしてしまった。


「でも私、本当に知らなかっただけよ。庇ったわけじゃないから」


「え〜、そうなんですかぁ?」


立花さんは少し残念そうな顔をした。


「それに、どうして私の住所を知ってるの?」


「え? 私、人事部ですよ? 社員の住所くらいわかりますよ〜」


当たり前のように言う彼女に、私は言葉を失った。


「そういう情報を勝手に使うのはよくないわよ」


「は〜い、気をつけま〜す!」


本当にわかっているのだろうか。


それより、さっきから気になっていることがある。


「ところで、今日は何の騒ぎなの?」


「あぁ、それですか!」


立花さんは嬉しそうに手を合わせた。


「安藤さん、今日で辞めるんですよ!」


「……え?」


「例のミス、安藤さんがやったことになったんです!」


一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「……どういうこと?」


「私のミスだったんですけどね、ちょうど安藤さんも関わってた仕事だったので、安藤さんのせいにしちゃいました!」


「……は?」


「だって林先輩、知らないって言ってくれたじゃないですか♡」


背筋が冷たくなった。


「それだけで、安藤さんが責任を取ることになったの?」


「もちろん、それだけじゃないですよ〜。私、人事部で勤怠や人事評価の資料をまとめる仕事もしてるんです。安藤さんの評価に、ちょっとだけ手を加えちゃいました!」


「……あなたがやったの?」


「はい!」


立花さんは満面の笑みで答えた。


「前から小さなミスが続いてるように見えたら、上司も信じちゃったみたいで。安藤さん、ずっと責められてたんですよ」


「……そんな」


「昨日なんて、泣きながら相談してきちゃって」


「相談……?」


「はい! 私たち同期ですから!」


信じられなかった。


「私も辞めない方がいいって言ったんですけどね〜。もう限界だって」


「……あなた、自分が何をしたかわかってるの?」


「え? もちろんですよ?」


立花さんは不思議そうに首をかしげた。


「どうしてそんなことをしたの?」


「だってぇ」


彼女は唇を尖らせた。


「同期なのに、私よりチヤホヤされるなんて許せないじゃないですか♡」


その瞬間、胸の奥で何かが切れた。


私はこれまで、他人の揉め事には深入りしないようにしてきた。


余計なことに首を突っ込めば、自分まで巻き込まれる。


だから、見て見ぬふりをすることもあった。


でも。


これは違う。


「あなたがしたこと、全部上司に話すわ」


立花さんは目を丸くした。


「え〜? 林先輩、怒ってるんですか?」


「ええ。怒ってる」


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「安藤さんを辞めさせて、それで終わりだと思ってるの?」


「……終わりじゃないんですか?」


本当に不思議そうだった。


その表情を見て、ようやく理解した。


この子には、何を言っても伝わらない。


「もういいわ」


私は立花さんに背を向けた。


上司に報告しよう。


安藤さんの退職だって、まだ間に合うかもしれない。


そのとき。


「林せんぱ〜い!」


背後から、いつもの明るい声がした。


「そういえば、あのお手紙、最後まで読んでくれました?」


「……最後まで?」


「はい!」


「一行しか書いてなかったじゃない」


「あはっ! やっぱり!」


立花さんは楽しそうに笑った。


「裏、見なかったんですね♡」


嫌な予感がした。


「……何が書いてあったの?」


立花さんが一歩近づいてきた。


耳元で、ささやく。


「次は、ちゃんと嘘をついてくださいね」


私はゆっくり振り返った。


立花さんは、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。


「私、林先輩のこと好きだったんですけどねぇ」


そして、少しだけ残念そうに首をかしげた。


「先輩も、安藤さんみたいになっちゃうのかなぁ♡」


私は拳を握りしめた。


それでも、足を止めるつもりはなかった。


今度こそ、見て見ぬふりはしない。


背後から、立花さんの楽しそうな笑い声が聞こえた。


**あの日、私がついた覚えのない嘘は、まだ終わっていなかった。**

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