婚約破棄ですわ!と叫んだ男爵令嬢ですが王子殿下は何も聞いていませんでした
「ヴィオレッタ様! あなたとの婚約は今日この場で破棄されますわ!」
卒業記念舞踏会の会場で、いきなりそんな声が響いた。
楽団の音が半拍ずれた。扇を広げていた令嬢たちの手が止まり、ワインを飲みかけていた伯爵がむせ、私の隣にいたルーファス殿下がたいへん間の抜けた顔で瞬きをした。
「……え?」
殿下の口から出たのはそれだけだった。
まあそうなる。なにしろ殿下は今、私との婚約破棄など一言も口にしていない。
それどころか、私たちは先ほどまで来月行われる王妃陛下主催の慈善会について話していた。寄付金の配分と孤児院への薬の手配と会場警備の導線。華やかな舞踏会で話す内容としては地味だが、婚約者同士の会話としてはそれなりに平和だったと思う。
そこへ桃色のドレスを着た男爵令嬢が飛び込んできた。
ミリア・ローレン男爵令嬢。最近王立学園で少しばかり話題になっていた方である。
理由は二つ。一つは、彼女がやたらと殿下に話しかけること。もう一つは、なぜか私を「悪役令嬢」と呼んでくること。
正直、悪役令嬢と言われても困る。
私はヴィオレッタ・グランシェ侯爵令嬢。性格が柔らかい方ではない自覚はあるし、笑顔も得意ではない。だが悪役と呼ばれるほど暇ではなかった。
課題はある。王太子妃教育もある。領地の報告書も届く。殿下は時々、書類を机の端に積んだまま見ないふりをする。
悪事をしている時間がない。
「ミリア嬢」
私はとりあえず名を呼んだ。
「どうなさったのですか」
「どうなさったですって?」
ミリア嬢は両手を胸の前で握りしめ、勝ち誇ったように顎を上げた。
その姿勢はどこか練習した感じがあった。鏡の前で何度もやったのだろう。角度は悪くない。
「もう隠しても無駄ですわ! ルーファス殿下は私を愛してくださっているのです!」
「……ルーファス殿下」
私は隣を見た。
殿下はまだ困惑していた。金の髪をきちんと撫でつけ、白い礼服もよく似合っている。顔だけ見れば王子として完璧だ。
顔だけ見れば。
「殿下。そうなのですか?」
「いや違う」
返事は早かった。早すぎて少し安心した。
「ミリア嬢とは学園で何度か話しただけだ。落とした本を拾ったことはある。あと階段で転びかけたところを支えた。いや支えたというか、袖を掴まれたというか……」
「まあ」
「ヴィオレッタ違うんだ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔が怖い」
「生まれつきです」
殿下は口を閉じた。
よろしい。
ミリア嬢は私たちのやり取りを聞いていなかったのか、聞こえていても都合よく処理したのか、さらに一歩前へ出た。
「殿下はお優しいのです! 私が廊下で転びそうになった時も手を差し伸べてくださいました。図書室で本を取れずに困っていた時も取ってくださいました。雨の日には傘に入れてくださいました!」
「それは……」
殿下が眉を寄せる。
「普通では?」
うん。
普通である。
少なくとも王族としては普通だ。困っている学友がいれば助ける。その程度の礼儀がなければ、将来の王としてはかなり問題がある。
「それは愛ですわ!」
「違うと思う」
殿下が即答した。
会場のどこかで誰かが小さく吹き出した。ミリア嬢の頬が赤くなる。怒りの赤だ。
「そんなはずありません! 殿下は私に微笑んでくださいました!」
「社交辞令だ」
「私の名前を呼んでくださいました!」
「名乗られたから」
「私の髪飾りを褒めてくださいました!」
「……あれは褒めたのではなく」
殿下は少し考えた。
「頭に鳥の羽がついていると思って取ろうとしたら髪飾りだったので、失礼にならないように綺麗だと言った」
会場が微妙な空気になった。
ミリア嬢は固まっている。私は扇で口元を隠した。いや笑ってはいない。少しだけ口の端が動いたかもしれないが。
「でも!」
ミリア嬢は叫んだ。
「殿下は私の手紙に返事をくださいました!」
その瞬間、殿下の表情が変わった。
困惑から警戒へ。私も扇を閉じた。
「手紙?」
殿下が低く問い返す。
「ええ! これですわ!」
ミリア嬢は懐から一通の手紙を取り出した。白い封筒。青い封蝋。
王家の紋章。
会場のざわめきが一段落ちた。
恋愛騒動なら笑い話で済む。けれど王家の封蝋が出てきたなら話は別だ。
ミリア嬢はそれに気づいていないのか、得意げに手紙を掲げた。
「殿下は私に『君の純粋さに救われている』と書いてくださいました! 『ヴィオレッタとの婚約は重荷だ』とも!」
「書いていない」
殿下の声は硬かった。
「そのような手紙を私は出していない」
「でもここに!」
「見せなさい」
私が手を差し出すと、ミリア嬢は手紙を胸元に抱き込んだ。
「嫌ですわ! あなた破くつもりでしょう!」
「いえ。王家の封蝋が本物か確認するだけです」
「本物です!」
「なら確認しても問題ないでしょう」
「だって……」
ミリア嬢の視線が泳いだ。
その一瞬でだいたい分かった。
なるほど。
暴走しているだけならまだしも、王家の封蝋を持ち出した。
これは面倒な方向へ転がる。
「ヴィオレッタ」
殿下が小さく私の名を呼んだ。
「はい」
「王宮書記官を」
「すでに」
私が視線だけを動かすと、会場の端に控えていた侍従がうなずき、静かに出ていった。
殿下が少しだけ目を丸くする。
「早いな」
「ミリア嬢が叫んだ時点で呼ばせました」
「婚約破棄のあたりで?」
「はい」
「……頼もしいな」
「そういう話ではありません」
私はミリア嬢へ向き直った。
「ミリア嬢。念のため伺います。その手紙は殿下から直接受け取ったものですか?」
「そうですわ!」
「いつどこで」
「ええと……図書室の机に……置いてあって」
「直接ではありませんね」
「でも私宛でした!」
「封筒にお名前が?」
「いえでも内容が!」
会場の数名が分かりやすく目を伏せた。いたたまれないという顔である。私も少しだけ同じ気持ちになった。
ここで引き返せば、まだ学園での勘違いとして処理できるかもしれない。厳重注意。しばらくの謹慎。父親である男爵からの謝罪。
だがミリア嬢は、私の沈黙を勝利と受け取ったらしい。
「ほら何も言えないのでしょう! 悪役令嬢ヴィオレッタ! あなたは殿下を束縛して、私をいじめて、でも最後には愛に負けるのです!」
「いじめ」
私は首を傾げた。
「私があなたを?」
「そうですわ! 私の教科書が汚されたり、靴がなくなったり、お茶会に呼ばれなかったり!」
「お茶会に呼ばれなかったこともいじめに入りますか」
「入ります!」
「そうですか。では今後は気をつけます」
「今後などありませんわ! あなたは婚約破棄されるのですから!」
「だから」
殿下が口を挟んだ。
「私は婚約破棄しない」
「殿下は黙っていてください!」
「なぜ私が?」
殿下が本当に困った顔をした。
少し気の毒になってきた。婚約破棄される側の私より、婚約破棄することにされている殿下の方が疲れている。
ミリア嬢は、すでに周囲が自分の味方ではないことに気づき始めていたのだろう。呼吸が浅く、手紙を握る指が白くなっている。
それでも彼女は止まらなかった。
「だってそういうものですわ!」
ぽつりと。
けれど会場中に聞こえる声だった。
「私は選ばれる側なのです。貧しい男爵家に生まれて、ずっと見下されて、それでも殿下だけは私を見てくださった。冷たい婚約者より私の方がふさわしいって、皆が気づくはずで……!」
殿下は何も言わなかった。
私もすぐには返せなかった。
ミリア嬢の言葉は筋が通っていない。けれど、まったく何もない場所から出てきたものでもないのだろう。
見栄。願望。劣等感。誰かに選ばれたいという、少し痛いほど単純な欲。
ただ、それを王家の婚約にぶつけた時点で、もう個人の夢では済まなくなる。
「ミリア嬢」
私はできるだけ声を平らにした。
「殿下に親切にされたことを、特別な愛情だと思ったのですね」
「特別でしたわ!」
「あなたにとっては」
「……何が言いたいのです」
「殿下にとっては違いました」
ミリア嬢の唇が震えた。
「違わない」
「違います」
「違わない!」
彼女は手紙を振り上げた。
「だってここにあるもの! 殿下の気持ちはここに!」
「その手紙は偽物だ」
声が響いた。
王宮書記官長が会場に入ってきていた。白髪混じりの痩せた老人で、普段はほとんど表情を動かさない。書類の誤字を見る時だけ人を殺せそうな顔をする。
今もその顔だった。
「封蝋は王家のものに似せているが、縁の月桂樹が一本多い。王家の正式な印ではない」
「そ、そんな」
「紙も違う。殿下の私信に使われる紙は左下に透かしがある。これは市井の高級紙だ」
「嘘ですわ!」
「それと筆跡も違う」
書記官長は淡々と続けた。
「殿下はもっと字が汚い」
「おい」
殿下が小さく抗議した。
今そこですか。
「ただし」
書記官長の目がミリア嬢を射抜く。
「文面の一部は、殿下が王太子教育の課題で提出された書簡練習から写されている。王宮保管の文書を何者かが持ち出した可能性がある」
ミリア嬢の顔から色が引いた。
扇を鳴らす音も止まった。
王宮文書の持ち出し。王家の封蝋偽造。殿下の名を騙った手紙。
婚約破棄の騒ぎだけなら愚かで済んだ。けれどこれは、愚かという言葉では薄い。
「ミリア・ローレン男爵令嬢」
殿下が初めて王族としての声を出した。
「その手紙を誰から受け取った」
「……知りません」
「作ったのは君か」
「違います」
「では誰だ」
「知らないって言ってるでしょう!」
ミリア嬢は叫び、手紙を破ろうとした。
その前に私の侍女が動いた。横からすっと近づき、手首を押さえ、手紙を抜き取る。
速い。
ミリア嬢は何が起きたのか分からない顔で、自分の空になった手を見た。
「返して!」
「証拠品ですので」
侍女はにこりともせず言った。
うちの侍女は優秀だ。少し怖いが。
ミリア嬢は殿下へ駆け寄ろうとした。
「殿下違うんです! 私はただあなたを愛して――」
「近づくな」
殿下の声に、彼女の足が止まった。
それは怒鳴り声ではなかった。短く、切るような声だった。だから余計に効いたのだと思う。
「私は君に婚約を申し込んだことも、愛を告げたこともない。ヴィオレッタを悪く言ったこともない。君が何を信じたのかは知らないが、それを理由に彼女の名誉を傷つけることは許さない」
ミリア嬢は口を開いた。
けれど言葉は出なかった。代わりに肩が上下した。
泣くのかと思った。
だが違った。
「……ひどい」
彼女は笑った。泣きそうな顔で、笑う形だけを作った。
「ひどいですわ。皆で私を悪者にするのね。やっぱりヴィオレッタ様が……あなたが全部……」
「連れて行け」
殿下が命じた。
王宮警備兵が二人、前へ出る。
ミリア嬢は暴れた。叫んだ。殿下の名を呼び、私を罵り、自分は選ばれるはずだったのだと何度も言った。
誰も答えなかった。その声は会場の扉が閉まるまで続いた。
扉が閉まったあと、楽団の者たちが困ったように互いを見た。
舞踏会は続けるべきか。中止すべきか。判断に迷う顔だった。
殿下が私を見た。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「……すまなかった」
「殿下が謝ることではありません」
「いや、私の距離の取り方が甘かった」
それはまあ。
少しだけそうかもしれない。
けれどここで責めるのも違う。
私は殿下の袖口を見た。いつの間にかミリア嬢に掴まれた跡がついている。白い布が少し皺になっていた。
「今後は困っている令嬢を助ける時、近衛を呼んでください」
「そこまで?」
「そこまでです」
「本を拾う時も?」
「はい」
「傘は?」
「近衛にさせてください」
殿下は少し黙った。
「王子とは不便だな」
「今さらですか」
私が言うと、殿下は小さく息を吐いた。
笑ったのか、疲れただけか。
どちらでもよかった。
*
ミリア・ローレン男爵令嬢の処分は思ったより重くなった。
王家の封蝋偽造と文書持ち出し。
さらに調べてみれば、彼女は学園内で私の名を使った偽の呼び出し状を複数作り、他の令嬢との間に小さな揉め事を起こしていたらしい。
彼女一人でできることではない。そう考えられたが、協力者は最後まで見つからなかった。
あるいは本当に彼女一人だったのかもしれない。思い込みの強い人間は、時々驚くほど手間を惜しまない。
ローレン男爵家は監督不行き届きを問われ、領地の一部を返上。
ミリア嬢本人は王都から離れた修道院に送られた。表向きは療養。実際は幽閉に近い。
高い石壁と鉄の門。外へ出るには院長と王宮の許可が必要で、手紙も検閲される。
誰かに選ばれる物語を望んだ彼女にとって、そこはずいぶん静かな場所だろう。
私は一度だけ、彼女からの手紙を受け取った。
封はすでに開けられていた。中には短い言葉だけ。
『あなたが悪役でいてくれたらよかったのに』
私はその一文をしばらく眺めた。
返事は書かなかった。
私が悪役なら、彼女は可哀想なヒロインでいられた。殿下が彼女を愛していれば、奪われる私と選ばれる彼女という形になった。
けれど実際には、殿下は誰も奪われていなかった。私は追い落とされる悪役ではなく、ただ予定通り婚約者の隣にいただけ。そして彼女は恋に勝った令嬢ではなく、王家の印を偽造した罪人になった。
物語なら、もう少し綺麗に整えてくれるのだろう。
でも現実はわりと雑だ。
勘違いは勘違いのまま人を巻き込み、誰も望んでいない婚約破棄が叫ばれ、楽団は演奏を止めるタイミングに困る。
その後始末をする者がいて、書類が増えて、袖口の皺は侍女が直す。
「ヴィオレッタ」
執務室で書類を読んでいると、殿下が扉の隙間から顔を出した。
「何でしょう」
「今日、庭園を歩かないか」
「近衛は?」
「呼んだ」
「侍女は?」
「君の侍女がもう外にいる。睨まれた」
「当然です」
殿下は少し困った顔をした。
「本当に信用がなくなったな」
「なくなったのではなく、管理体制が整ったのです」
「言い方」
「事実です」
私は書類を閉じた。
窓の外は晴れている。庭園の白薔薇は、たぶん今が見頃だ。
殿下の隣に並ぶと、彼は少しだけ歩幅を緩めた。
以前より半歩距離が近い。それに気づいたが、何も言わなかった。
婚約は破棄されなかった。
悪役令嬢にもならなかった。
ただ少し面倒な事件があり、少しだけ周囲が慎重になり、殿下の袖口にはもう誰かに強く掴まれた皺はない。
まあそれでいい。
物語の役など、勝手に押しつけられても困るのだから。




