9話 往復ビンタの『連れ戻し』騒動
辺境の楽園での生活は、驚くほど快適だった。
朝は小鳥のさえずりで目覚め、レオが焼いた焼きたてのパンを食べ、午前中は兄カイルと鉱山経営の打ち合わせ。午後はレオと庭を散歩したり、彼に剣術(の真似事)を教わったり。
……ただ一つ、レオの距離感が近すぎることを除けば、完璧なスローライフだ。
「お嬢様、このハーブティーはリラックス効果があります。……さあ、一口」
「レオ、だから近いってば。……自分で飲めるわよ」
ソファに座る私の隣、隙間なく身体を密着させてくるレオ。
彼の腕は常に私の腰に回されていて、私が動こうとすると、まるで拘束するように力がこもる。
(……自由って、こういう意味だったかしら?)
私が微かな疑問を抱いていた、その時だ。
「――リゼット! 貴様、こんなところにいやがったか!」
屋敷の静寂を破る、聞き覚えのある、品のない怒鳴り声。
扉が乱暴に開け放たれ、そこに立っていたのは……ボロボロの騎士服を身にまとったアストル王子だった。
「……あら。アストル殿下。……失礼、元・殿下でしたかしら?」
私はティーカップを置き、さも「見苦しいものを見た」と言わんばかりの表情で、ゆっくりと立ち上がる。
アストルの後ろには、数名のやつれた兵士と、泥だらけのドレスで泣きじゃくるマリアの姿があった。
「黙れ! 貴様、よくも私を騙したな! 王家の資産を持ち出し、カイルまで引き抜いて、国を滅ぼすつもりか!」
「滅ぼしたのは、殿下の無能さでしょう? 私はただ、正当な権利を行使して、この土地に移り住んだに過ぎませんわ」
「うるさい! 貴様は私の婚約者だ! 命令だ、今すぐ王都に戻れ! そして、この書類の山をすべて片付けろ!」
アストルが差し出したのは、ぐしゃぐしゃになった外交文書や会計報告書の束。
……どうやら、彼なりに頑張って処理しようとした形跡(インクのシミや破れ)があるが、全く進んでいないようだ。
「……お断りしますわ。私はもう、殿下の奴隷ではありませんもの」
「なんだと……!? 貴様、王族への不敬罪で死刑にしてやる!」
アストルが剣を抜き、私に掴みかかろうとした、その瞬間。
「――お嬢様に、その汚い手で触れるな」
影の中からスッと現れたレオが、アストルの手首を掴んだ。
レオの瞳は、これまでにないほど深く、暗い紅い輝きを帯びている。
「ぐわっ……! 貴様、平民の分際で……!」
「平民? いえ。私は、この土地の領主であるリゼット様の、専属護衛騎士です。……許可なく領主に剣を向けた罪、万死に値しますよ」
レオが少し力を込めると、アストルの手首からゴキリ、と嫌な音がした。
剣が地面に落ちる。
「ヒッ……! た、助けてマリア!」
アストルが泣きついた先のマリアは、レオの殺気に完全に怯え、その場にへたり込んでいた。
「……リゼット様……。私、私、こんなはずじゃ……。王子様が、こんなに無能だなんて知らなくて……。私を、私を助けて……!」
(……知らなくて、って。貴女が王子の『無能さ』を『純真さ』だと勘違いして、甘やかした結果でしょう?)
私は呆れ果てて、アストルの前まで歩み寄った。
そして、彼の手首を掴んでいるレオの手を、優しく制する。
「レオ。私の騎士の手を、こんな男の血で汚すのは勿体ないわ」
「……お嬢様?」
私はアストルの顔を見つめた。
かつては「王太子」として敬っていた、その顔。
今は、ただの、プライドだけが高い、哀れな男の顔だ。
「アストル殿下。……いえ、アストル様。貴方に、一つだけ『教育』をして差し上げますわ」
私は右手を高く振り上げた。
――パァァァァァァァァァン!!
静寂な屋敷に、小気味よい音が響き渡った。
アストルの顔が、勢いよく横を向く。
「な……貴様、私を……打ったのか……!?」
「ええ、打ちましたわ。……貴方は、自分がどれほどのものを失ったのか、全く理解していらっしゃらないようですから」
私は間髪入れずに、左手を振り上げた。
――パァァァァァァァァァン!!
往復ビンタ。
アストルの両頬には、見事な紅い手形が刻まれた。
「……これは、貴方を王太子として育てるために、私が費やした数年間の時間と労力。……そして、貴方の無能さのせいで、路頭に迷うことになった国民たちの、怒りの鉄拳ですわ」
私はアストルを見下ろし、冷徹な声で告げた。
「……二度と、私の前に現れないで。……次現れたら、私の騎士が、貴方の首を撥ねるのを止めませんわよ」
アストルは呆然と私の顔を見つめ、やがて恐怖に顔を歪めて、腰を抜かした。
「ヒィィッ……! こ、怖ろしい女だ……! 逃げろ! みんな、逃げろ!」
アストルはマリアを置き去りにして、這うようにして屋敷を逃げ出していった。
兵士たちも、レオの殺気に耐えきれず、アストルを追って逃げていく。
残されたのは、へたり込んだままのマリアと、私たちだけ。
「……リゼット様……。私、私……」
マリアが、涙ながらに私を見上げる。
私は彼女を見下ろし、フッと、慈悲深い(自称)微笑みを浮かべた。
(さて、この『ヒロイン』、どう扱ってあげようかしら?)




