7話 逃亡という名のハネムーン
ガタゴトと揺れる馬車の振動が、妙に心地よかった。
窓の外を流れていく夜の景色。王都の明かりが遠ざかるにつれ、私の心からは重い鎖が一本ずつ外れていくような感覚があった。
「……ふふ。やったわ。本当にやったのね」
私は馬車のふかふかのシートに身を投げ出し、天井を見上げた。
明日からは、朝五時に起きて王子の二日酔いの世話を焼く必要もない。
山のような外交文書にサインすることもない。
「淑女の鑑」として、一分一秒を監視されることもないのだ。
「お嬢様、あまりはしゃぎすぎるとお体に障りますよ。……さあ、こちらへ」
隣に座るレオが、自然な動作で私の肩を引き寄せた。
彼の太ももの上に頭を乗せる形になり、私は思わず顔を赤くする。
「レ、レオ。もう王宮じゃないんだから、そんなに甲斐甲斐しく世話しなくても大丈夫よ。私はもう、ただの『リゼット』なんだから」
「いいえ。あなたは私の主であり、私の世界のすべてです。……それに、これからは誰の目も気にする必要はありません。私があなたをどう愛でようと、文句を言う者はこの世に存在しないのですから」
レオの低い声が、耳元で心地よく響く。
彼の指が私の髪を梳き、うなじを優しくなぞる。その手つきは、まるで手に入れたばかりの壊れやすい宝物を確かめるかのようだった。
「……ねえ、レオ。貴方は本当に良かったの? 私と一緒に来て。貴方の腕なら、どこかの国で騎士団長にだってなれたはずよ」
「……お嬢様。私は、あなた以外の誰かに剣を捧げるつもりはありません。……それに」
レオがふっと目を細め、窓の外の闇を見つめた。
その横顔は、月光に照らされて神々しいほどに整っているが、どこか現実離れした冷たさを孕んでいた。
「……私の『本性』を知れば、普通の騎士団などは私を拒絶するでしょう。……私を受け入れてくれるのは、世界であなただけなのです」
「え……? 本性って?」
私が問い返そうとしたその時、馬車が急停車した。
外から荒々しい声が響く。
「止まれ! この馬車には王家の反逆者が乗っているはずだ! 降りろ!」
(……えっ!? 追っ手!? いくら何でも早すぎない!?)
私は身を起こそうとしたが、レオの手が優しく、けれど抗えない力で私を座席に押し留めた。
「お嬢様は、そのまま目を閉じていてください。……すぐに終わります」
「レオ、危ないわ! 相手は兵士よ!」
「……兵士? いえ、ただの『障害物』です」
レオが馬車の扉を開け、外へ出る。
その瞬間、空気が凍りついたような静寂が訪れた。
……そして、数秒後。
悲鳴すら上がらない、肉が断たれる鈍い音と、何かが地面に転がる音だけが聞こえてきた。
(……レオ……?)
私は怖くなって、そっと窓のカーテンを引いた。
そこには、月明かりの下で返り血を浴びることもなく、静かに剣を鞘に収めるレオの姿があった。
足元には、十数名の武装した男たちが物言わぬ塊となって転がっている。
レオがこちらを振り返った。
その瞳は、漆黒ではなく、微かに紅い輝きを帯びているように見えた。
「……レオ、その目は……」
「おや。見られてしまいましたか」
レオは困ったように微笑み、馬車に戻ってきた。
彼は私の手を取り、その甲に深く、熱い口づけを落とす。
「……お嬢様。私がなぜ、あのような無能な王太子の下で『無名の護衛』に甘んじていたか、不思議ではありませんでしたか?」
「それは……」
「私は、北の果てで滅んだとされる『魔人の血』を引く生き残りなのです。……疎まれ、狩られるだけの存在だった私を、幼い頃に救ってくれたのは……あの日のあなたでした」
(……えっ!? そんな設定、原作になかったわよ!?)
私は驚愕で固まった。
原作のレオは「最強の騎士」ではあったが、人間を辞めているような描写はなかったはずだ。
「あなたが私に『生きろ』と仰った。だから、私はあなたの所有物として生きることに決めたのです。……追放? 結構なことです。これでようやく、邪魔者を消して、あなたを私の巣へ連れて行ける」
レオが私の首筋に顔を埋め、深く呼吸する。
その独占欲は、もはや「重い」というレベルを通り越して、狂気に近い甘美さを帯びていた。
「……さあ、リゼット。夜明け前には国境を越えます。……そこから先は、私だけの時間です」
(……待って。私、自由を求めて追放されたはずなのに、もしかして『もっと逃げられない場所』に向かってる!?)
リゼットの知略を遥かに上回る、レオの「執着」という名の戦略。
逃避行は、予想外の方向へと加速していく。




