3話 無能な王子の「おもちゃ箱」
「リゼット! 貴様、またマリアを泣かせたそうだな!」
王宮の薔薇園。美しいはずのその場所に、アストル王子の品の欠片もない怒鳴り声が響き渡った。
私はティーカップを優雅に置き、さも「心外ですわ」と言わんばかりの表情で、ゆっくりと立ち上がる。
「……あら。マリア様が泣いていらしたのですか? 私はただ、彼女にふさわしい『作法』を、婚約者として厳しくお教えしただけですわ。このままでは彼女、殿下の隣に立つ資格すらございませんもの」
「黙れ! 彼女は純粋なんだ! 貴様のような、冷徹な女と一緒にしたくない!」
アストルの顔は真っ赤に茹で上がり、血管が浮き出ている。
本当は、私がマリアに「殿下には少し目に涙を浮かべて、怖かったと訴えると効果的ですわよ」と仕込んだ結果なのだが。
(チョロい。……あまりにもチョロすぎるわ、この王子)
私は内心で舌を出しながら、扇で顔を半分隠した。
「……左様でございますか。殿下がそこまで仰るなら、私はもう何も申し上げません。ですが、殿下……一つだけお願いがございます」
「なんだ! 言ってみろ!」
「今度の狩猟大会、殿下が素晴らしい成果を上げられたら、私は今回のマリア様への『指導』を全面的に謝罪いたしますわ。……もちろん、マリア様もその場にお呼びして、殿下の勇姿を見ていただくべきかと」
「……狩猟大会だと?」
アストルの目が泳いだ。彼は剣術も魔力も平均以下。普段なら「面倒だ」と逃げ出す行事だ。
だが、私はここで甘い毒を盛る。
「ええ。殿下には、伝説の『金色の魔鹿』を仕留めていただきたいのです。もし成功すれば、マリア様は殿下を『運命の英雄』だと崇めるでしょうし、私も殿下の実力を認めざるを得ませんわ」
「き、金色の魔鹿だと……!? そんなもの、めったに現れないだろう!」
「ふふ、ご安心を。私の方で、現れる場所を特定しておきました。殿下はただ、その場所に立っていればよろしいのです」
嘘である。
実際には、私が事前に雇った手練れの冒険者たちに「黄金に光る魔石を飲み込ませた普通の鹿」を、王子の前へ追い込ませる手はずになっている。
王子はただ、動けない鹿に最後の一撃を加えるだけでいい。
(こうして「自分は天才だ」と勘違いさせて、どんどん増長してもらうのよ。そして、私の忠告を一切聞かない「無能な暴君」として完成していただくわ)
「ふ、ふん! それなら造作もない! よし、リゼット。貴様、その言葉を忘れるなよ! 恥をかかせてやるからな!」
アストルは鼻息荒く、満足げに立ち去っていった。
その後姿を見送りながら、私は深く、深ーいため息をついた。
「……はぁ。疲れるわね、無能の相手って」
「お嬢様、お疲れ様でした」
影からスッと現れたのは、私の万能護衛騎士レオだ。
彼は私の肩に、薄手のストールをふわりとかける。その手つきは驚くほど優しく、繊細だ。
「レオ。準備は進んでいるかしら?」
「はい。冒険者への手配、および『黄金の鹿』の仕込みは完了しております。……しかし、お嬢様。あのような男に『英雄』の称号を与えるなど、あまりに勿体ないかと。私が代わりに、彼の首を……」
「ダメよレオ。物騒なことは言わないで」
私はレオの腕を軽く叩いて制する。
レオは少しだけ不満そうに目を細めたが、私の腕に自分の手を重ねた。
「……お嬢様。あなたはあの男を『英雄』に仕立て上げ、マリアという女に押し付けようとしている。ですが、それだけでは足りません」
「え?」
レオが私に一歩近づく。
その身長差のせいで、私はレオを見上げる形になる。
彼の黒い瞳が、じっと私を射抜いた。
「あの男が『英雄』として増長すればするほど、彼はあなたを疎ましく思うようになるでしょう。……それはつまり、彼があなたを害する可能性が高まるということです」
「それが私の狙いよ、レオ。彼が私を『邪魔な女だ』と本気で思ってくれないと、断罪なんてしてくれないもの」
「……分かっています。ですが、もしあいつが、あなたの髪一本にでも傷をつけようものなら――」
レオの手が、私の頬をゆっくりと撫でた。
その指先はわずかに震えていて、秘められた狂気のような情熱が伝わってくる。
「私はこの国を滅ぼしてでも、あなたを奪い去ります。……約束してください。危なくなったら、すぐに私の名を呼ぶと」
(……うっ、重い! でもこの重さが、追放後の『安泰』を保証してくれるのよね!)
「ええ、約束するわ、レオ。私の騎士は、貴方だけよ」
私がそう告げると、レオは満足げに、そして酷く歪んだ、だがこの世の何よりも美しい微笑みを浮かべた。
その笑顔を見ていると、時々、どちらが「悪役」なのか分からなくなる。
(さあ、着々と駒は揃ってきたわ。次は『資産』の移動ね)
私はレオにエスコートされながら、次なる作戦――王家の金庫を合法的に空にする準備――へと意識を向けた。




