11話 平和な朝を切り裂く、鉄の響き
辺境の地「ルナ・グラナード領」に朝が訪れる。
かつては「死の荒野」と蔑まれたこの場所は、今やエリュシオン聖王国の国境沿いで最も活気に満ちた、知る人ぞ知る「黄金の里」へと変貌を遂げていた。
「お嬢様、今朝の採れたて苺で作ったコンフィチュールです。……さあ、口を開けて。……あーん」
テラスに差し込む柔らかな陽光。
私は、白いレースの寝巻きに薄手のガウンを羽織っただけの、極めてリラックスした姿で椅子に身を預けていた。目の前には、あの大仰な騎士服を脱ぎ捨て、袖を捲り上げたラフなシャツ姿のレオ。
彼が銀のスプーンですくい上げた、真っ赤な宝石のようなジャム。
「……レオ、自分で食べられるってば。もう子供じゃないんだから」
「いいえ。お嬢様を甘やかすのが私の唯一の特権であり、生きがいです。……さあ、あーん」
レオの漆黒の瞳に、逃げ場を塞ぐような、甘く、けれど拒絶を許さない光が宿る。
私は抗うことを諦め、小さく口を開けた。
「……ん。……美味しい」
「良かったです。お嬢様の頬に少し赤みが差しましたね。……愛らしい」
レオが満足げに目を細め、指先で私の口元に付いたジャムを掬い取り、そのまま自分の口へ運ぶ。
その仕草があまりに自然で、かつ扇情的で、私は顔が熱くなるのを感じた。
(……追放されてからというもの、この人の『騎士』としてのブレーキが完全に壊れている気がするわ)
王宮にいた頃は、あんなに寡黙で、一歩引いて私を支えてくれていたのに。
今や彼は、私の生活のすべてを管理し、四六時中私を視界に入れ、隙あらば触れてこようとする。
自由を手に入れたはずが、私はレオという名の「愛の檻」に、自ら飛び込んでしまったのかもしれない。
だが、そんな甘やかな時間は、地平線から近づく軍靴の響きによって無惨に切り裂かれた。
「……お嬢様。……鼠が、それもかなり行儀の悪い連中が紛れ込んだようです」
レオの瞳から一瞬で温度が消えた。
彼が立ち上がると同時に、穏やかだったテラスの空気が、肌を刺すような鋭い殺気へと一変する。
領地の境界線――。
そこには、純白の軍馬に跨り、白銀の鎧を纏った一団が陣取っていた。
掲げられているのは、隣国・エリュシオン聖王国の国教「聖教」の紋章を冠した旗。
それも、ただの守備隊ではない。聖王国の誇る最強の武力組織「聖騎士団」だった。
「……騒がしいわね。レオ、着替えを手伝って」
「御心のままに。……最も、あなたを美しく、そして冷酷に見せるドレスを選びましょう」
レオの手によって整えられたのは、深い濃紺のドレス。
宝石はあえて付けず、髪も一房の乱れもなく結い上げる。
私は鏡の中の自分を見た。……そこには、王宮を支配していた頃の、あの「氷の公爵令嬢」がいた。
屋敷の門前に到着すると、聖騎士団の先頭に立つ金髪の男が、尊大に顎を引いてこちらを見下ろした。
聖騎士団長、ゼノス・フォン・ブレイブ。
原作では、正義感という名の独善にまみれた、非常に扱いづらいキャラクターだ。
「リゼット・エル・グラナード公爵令嬢。……および、その護衛騎士レオ。……ようやくお目にかかれたな」
ゼノスの声は、静かだが周囲を威圧する魔力がこもっていた。
彼の背後には、五十人近い聖騎士たちが抜剣の構えを見せている。
「失礼ですが、ゼノス様。……我が領地の私有地に、これほどの武力を持って踏み込むとは、穏やかではありませんわね。……何か、公式な外交文書でもお持ちかしら?」
私は扇を広げ、優雅に、けれど心底退屈そうに告げた。
ゼノスは鼻で笑い、懐から一通の羊皮紙を取り出した。
「文書? ……いや、これは『神の意志』だ。……この土地、ルナ・グラナード一帯は、我が聖王国の『聖域』に指定された。……古の記録によれば、ここは聖女が降臨した神聖なる地。……直ちに立ち退き、鉱山の利権を我が教団へ譲渡せよ」
(……はぁ? 聖域? 神の意志?)
私は耳を疑った。
要するに、「お前の持っている金山が欲しいから、適当な理由をつけて奪う」と言っているのだ。
あのアストル王子が「バカ」なら、この男たちは「強欲な狂信者」だ。
「……聖域、ですか。……奇遇ですわね。三ヶ月前、私がこの土地を貴国の商務省から買い叩いた際、調査資料には『無価値な荒野』としか書かれていませんでしたのに。……急に神様が降臨なさったのかしら?」
「黙れ、追放令嬢! 貴様は王国の予算を横領し、不正な資金でこの土地を買ったという疑いがある。……犯罪者の資産を没収するのは当然の処置だ」
ゼノスが剣を抜き、その剣先を私……ではなく、私の隣に立つレオに向けた。
「……それに、その男。……不浄な『魔人の血』を引く者だろう? 聖教の教えに基づき、その怪物を浄化……即ち処刑し、貴殿を異端審問にかけるために拘束させてもらう」
(……今、なんて言ったの?)
レオを「怪物」と呼び、彼を「処刑」すると言った。
私の心の中で、冷たい怒りが炎となって燃え上がった。
私がどれほどの苦労をして、レオを「死ぬはずの運命」から救い出したと思っているのか。
私がどれほどの情熱をかけて、この平穏な場所を築いたと思っているのか。
「……レオ」
「はい、お嬢様」
レオが影の中から、私の指示を待たずして漆黒の剣を半分ほど抜いていた。
彼の瞳は、もはや人間のものではなく、闇夜に光る魔獣のそれ――紅い輝きを帯びている。
「……この鼠たち、お掃除してもいいかしら?」
「……御心のままに。……お嬢様の瞳を汚すようなゴミは、塵一つ残さず、私が片付けましょう」
「待て! 怪物が! 我が聖なる力を前にして――」
ゼノスが剣を振り上げた瞬間。
私は、ドレスの隠しポケットから一通の「本当の外交文書」を取り出した。
「ゼノス様、一つお忘れですわ。……貴方の国の枢機卿様は、大変お酒と宝石がお好きだということを。……それから、私がすでにエリュシオン聖王国の『国債』の三割を買い占めているという事実も、ね」
私は不敵に微笑んだ。
力で押し通そうとする脳筋騎士には、もっと「大人の戦い方」を教えてあげなければ。
「……今、この瞬間に私がこの国債をすべて売却すれば、貴方の国の通貨は紙屑になりますわ。……さあ、聖騎士団長。……剣を収めて帰るか、それとも貴方の国を滅ぼすか。……今すぐ選んでくださる?」
静寂が訪れる。
聖騎士たちの顔が、一瞬で青ざめた。
こうして、辺境の平和な(?)日常に、新たな嵐が吹き荒れようとしていた。




