10話 私のための、私たちの幸福
屋敷の静寂が戻った。
アストル王子が逃げ出した後、そこに残されたのは、へたり込んだままのマリアと、私たちだけだ。
「……リゼット様……。私、私、どうすれば……。王子様が、こんなに怖ろしい方だなんて知らなくて……」
マリアが、涙ながらに私を見上げる。
その瞳には、かつての「聖女(笑)」のような純真さはなく、ただ、未来への恐怖だけが宿っていた。
(……知らなくて、って。貴女が王子の『無能さ』を『純真さ』だと勘違いして、甘やかした結果でしょう?)
私は呆れ果てて、マリアを見下ろした。
彼女をここに置くつもりはない。けれど、このまま野垂れ死にさせるのも、少しばかり寝覚めが悪い。
「マリア様。……貴女に、一つだけ『提案』をして差し上げますわ」
私は扇で口元を隠し、冷徹な(自称)微笑みを浮かべた。
「……貴女は、この土地で『聖女』として生きるのです」
「え……? 聖女……?」
「そう。この辺境の地は、魔力が豊かですが、それゆえに魔獣も多く出現します。貴女の微弱な聖魔法でも、村人たちの怪我を治したり、魔獣除けの結界を張ったりすることはできるはずですわ」
私はマリアの目の前に、一通の羊皮紙を置いた。
それは、私が事前に用意しておいた「聖女としての雇用契約書」だ。
「……もちろん、タダではありません。貴女の労働に見合うだけの、最低限の生活は保障しますわ。……ただし、もし少しでも怠けたり、また王子の元へ戻ろうとしたりすれば……その時は、私の護衛騎士が、貴女を『魔獣の餌』にすることを止めませんわよ」
「ヒッ……! わ、分かりました……! 私、聖女として、一生懸命働きます……!」
マリアは弾かれたように契約書を掴み、何度も頭を垂れた。
こうして、原作の「ヒロイン」は、私の新しい領地で、過酷な「聖女労働」に従事することになったのだ。
(……これで、後腐れなし! 完璧ね!)
私は心の中でガッツポーズを決め、マリアを村長に引き渡した。
それから、一ヶ月。
辺境の楽園は、さらに豊かになっていた。
兄カイルの顧問のもと、魔力鉱山の採掘は順調に進み、隣国エリュシオン聖王国との貿易も開始された。マリアの「聖女労働」も相まって、村人たちの生活は劇的に向上している。
そして、私は――。
「……お嬢様。……いえ、リゼット。……さあ、一口」
「レオ……。だから、距離が近すぎるってば……」
ソファに座る私の隣、隙間なく身体を密着させてくるレオ。
彼の腕は常に私の腰に回されていて、私が動こうとすると、まるで拘束するように力がこもる。
(……自由って、こういう意味だったかしら?)
私が微かな疑問を抱いていた、その時だ。
「リゼット。……貴女に、一つだけ、伝えたいことがあるのです」
レオが、私の髪を一房掬い上げ、その先端に唇を寄せた。
その瞳は、蕩けるような、底なしの愛に満ちていた。
「レオ……?」
「……私は、貴女の『道具』として、貴女を追放へ導きました。……ですが、それは、私が貴女を『独占』するための策略でもあったのです」
レオの声が、耳元で心地よく響く。
「……貴女が自由を手に入れた瞬間に、私の手の届かない場所へ消えてしまうのではないかと。……怖ろしかったのです。……だから、貴女を私の『愛の檻』に閉じ込めたのです」
「……愛の、檻……?」
「ええ。……これからは、誰の目も気にする必要はありません。……私が貴女をどう愛でようと、文句を言う者はこの世に存在しないのですから」
レオの顔が近づく。
彼の唇が、私の唇に重ねられる。
その独占欲は、もはや狂気に近い甘美さを帯びていた。
(……ちょっと待って。計画ではもっと『清々しい旅立ち』のはずだったんだけど、なんかレオの雰囲気が、独占欲1000%になってる気がする……!)
リゼットの知略を遥かに上回る、レオの「執着」という名の戦略。
彼女は、王宮よりもさらに逃げられない「愛の檻」に飛び込んでしまったようだった。
だが、その檻の中で、リゼットは確かに、これまで感じたことのないほどの「幸福」を感じていた。
(……まあ、いいわ。……これからは、レオと一緒に、誰にも邪魔されずに、イチャイチャするの!)
リゼットは、レオの首に腕を回し、彼を受け入れた。
二人の、糖度1000%のスローライフは、今、始まったばかりだ。




