#楓006:焼きたての明日
こんにちは。カエデです。
たぶん今、世界でいちばん寂しい体育座りをしています。
「雲は自由に空を飛べて羨ましいな。ね? ウィルソン?」
私は手のひらに載せた"良い形の石"──ウィルソンに視線を落として、ぼそりと語りかけた。
「元気出せよ……カエデ。」
石から声が返ってくる。
当たり前みたいに返ってくるのが、逆に怖い。
「……宿屋……暖かいご飯……お風呂……布団……泊まりたかったなぁ……」
言葉にしただけで、胃がきゅうっと縮む。
いまの私には、贅沢じゃなくて"生存"なんだけど。
「そりゃ無理ないさ。あのガチップは異常だった。俺でも引いた。
そこからの張り手と鉄砲はヤバい。令和だったら逮捕案件だ。マジで。」
「そっか……そう……だよね。
……私は……逮捕されないだけ運が良かったのか……」
「おう。そうそう。だから元気……
おっ? カエデ。誰か来たぜ。」
その瞬間、私の手のひらが影に覆われた。
ウィルソンごと、すっぽり。
「見ない顔だけど、どうかしたのかい?」
影の上の方から、あったかい声。
顔を上げると、そこに立っていたのは陽気な表情の女性だった。
「……ぇ…………?」
息が抜ける。
知らない人。けど、怖くない。
「あ……えっと……どこにも行くところが無くて……
それに……頼れる人も……居なくて……」
言いながら、私はまたウィルソンに視線を落とした。
人の目を見るのが、いまはまだ、怖かった。
「なんだいなんだい! 困ってんのかい? だったらとりあえずウチに来な!」
「……あ……ッ…………」
次の瞬間、手を掴まれた。強い。
逃げられない種類の優しさ。
「ウチはすぐそこのパン屋だよ。ほら! そこそこ!」
「パ……パンッ……!」
パン。
その一語だけで、世界の色が少し戻る。
*
カランカラン……♪
ドアベルが、幸せみたいな音を鳴らした。
たちまちパンの香りが私を包む。鼻の奥が、じんと痛い。
「ニャー……」
足元で、茶色い猫が鳴いた。
「ふわぁ……パンの……匂い……だ……良い匂い……」
入口で立ち止まって、目を閉じて、吸い込む。
胸が、ほどけていく。ほどけすぎて、泣きそうになる。
「んー……うんッ!
まずはお風呂だね! ほら!
そこの奥がお風呂だから入ってきな!」
「……え……え?……あ、はい。
ありがとうございます……」
女性は迷いなくテキパキ動く。
その勢いに、私はただ流されるしかない。
「着替えはここに置いておくよ! 私のお古だけどね!
あはは! じゃあほら! 入っといで!」
ぽん、とお尻を押された。
「えッ? あ! ありがとうございます…!」
*
浴室に入った途端、喜びがこみ上げた。
「ぉぉ……お……風呂……だぁ……うわー!うわー!お風呂だー!」
声を殺して叫ぶ。
叫ぶな、でも叫びたい。叫ぶしかない。
久しぶりのお風呂だった。
私は念入りに身体を洗った。洗っても洗っても、涙と鼻水が止まらない。
あったかい水が、私を"人間"に戻していくみたいだった。
しばらくして脱衣所へ出る。
用意されていたかぼちゃパンツを履き、黒いワンピースを着る。
なんだこれ。私、いま"可愛くされてる"。
それでも──嬉しかった。
店の方へ戻ると、私は耐え切れず頭を下げた。
「お風呂……ありがとうございました。
……ホントに……!ホントに!ホントに!
……ホントに!ホントにぃ……うっ…うっ…
ありがとうございました!……ホントに……うっ……うっ……」
言葉が、繰り返しにしかならない。
繰り返すしかない。
「なんだい!なんだい! たかだかお風呂で大袈裟だねー!
あはは!……おッ! 私のお古の服だけどさ! それ、とってもいいよ。あはは!」
私は恐る恐る、尋ねた。
「……あ……あのッ……
お、お金は払いますので……パンを……
パンをいただいても……良いですか……?
……実は……ここ最近ずっと葉っぱや野草しか食べてなくて……」
「葉っぱ?野草? 何があったんだい?
まぁそれを聞くのは野暮ってもんか!
どうぞどうぞ! 好きに食べて良いよ! あはは!」
「……ッ!!!!!」
声にならない喜びが喉から溢れた。
手を伸ばす。震える。パンを掴む手が、怖いくらい震える。
生つばを飲み込んで──
(……ゴクリ……)
……パクッ……!
「……ッ!!」
口の中に、パンの匂いと柔らかさが一瞬で広がる。
噛むたびに、何かがほどけていく。
自分の中の"終わり"が、ほどけていく。
「…………う"っ……う"ゔっ……お"……おびじぃ……
ど、どでぼ…ぼ…美味……じびぃ……でじゅ……」
久しぶりに食べた"まともな食べ物"。
涙も鼻水も、止まる気配がなかった。
「あはは! 飲み込んでから話しなよ! パンは逃げないからさ!
せっかくお風呂に入ったってのに顔がぐちゃぐちゃじゃないか!
あはは! ほらほら! どんどん食べなッ!」
パンを食べる私を見つめながら、女性は続けた。
「とりあえず今日は泊まっていきな! 洗濯物も乾かないしね!
そこの立派な『鎧』は、自分で拭いとくれね!重くて持てないからさ!」
「はい! ありがとうございます!」
私は元気よく返事をした。
王様にもらったピカピカの鎧だ。
すると、アンナさんが不思議そうな顔で、私の手元を指さした。
「……で、あんた。さっきから大事そうに抱えてる、
その『薄汚れたスリッパ』と『黒いハンガー』と『黒いもの?』は何だい?
……魔導具? ……ボタン付いてるけど、ゴミかい? 捨てとこうか?」
「えっ!? ダメです!!」
私は慌てて三種の神器を抱きしめた。
「これは……私の最強装備なんです!
鎧なんかより、こっちの方が手に馴染むんです!」
「……はぁ? 鎧よりスリッパが?」
アンナさんは呆れたように笑った。
「……はい! 私の……
聖靴、聖剣は自分で洗います!」
(聖盾はリモコンです。……勇者の名誉のために、言っておきます)
……これは、私が元の世界から持ってきた、最後の証拠だ。
──洗濯。
私の服は、もう洗われていた。
「何から何まで……ありがとうございます……ぅ……うっ……うっ……」
*
パンを食べ終えると、私は女性の胸を借りて、ずっと泣いてしまった。
女性は何も聞かない。
ただ私の頭を撫でてくれる。それだけで、十分すぎた。
しばらくして、男の人がノソっと現れた。
大きな手に、焼きたてのパンを持っている。
無言で私の前に差し出した。
「……!」
私がびくっとすると、女性が笑う。
「ああ!これはウチの旦那よ! 旦那は無口でね!
でもパンは一流なんだよ! あはは!」
そう言いながら、旦那さんの背中をぽんぽん叩く。
「自己紹介がまだだったね。私はアンナ。で、あんたは?」
「あの、私、勇者のカエデです! こっちは良い形の石のウィルソン!」
「カエデ……良い名前だね!ねぇ?アンタ! あはは!」
アンナさんはまた旦那さんの背中をぽんぽん叩いた。
旦那さんは、無言で受け止めた。
「ニャー……!ニャー……!」
茶色い猫が鳴いた。
「ああ!あんたもいたね! チロ! あはは!」
私は入口に立てかけてあるモップを見つめた。
なんでか分からないけど──ここに住み込み、配達の仕事をしようかな、と思い始めていた。
外を、若い男の子が荷車を引いて通り過ぎる。
荷車の車輪が魔導石で光ってる。
空には飛行船。
ここは異世界なのに、生活の匂いがする。
パン屋さんの名前はパパパパパパパパパパパン屋……。
思い切った名前だなぁ。
そして、床から声が聞こえた。
……いいえ、違う。
さっき旦那さんから落ちた床の粉が、喋った。
『……ワイは小麦粉の精霊、コナモンや! 旦那の肩が定位置やったのに……落とされたわ……』
「まぁでも、この名前のパン屋があったら私は入るよね?」
私はパン屋のメニューを見てウンウンと頷く。
『ちょ、無視せんといて? ワイ、粉やけど精霊やで?
さっきから足元におるで?』
「サクラは焼きそばパン好きだったなぁ」
『ちょいちょい? 聞いてる?』
(……サクラの名前を口にした瞬間、胸がちくりと痛んだ)
「……よし。焼きそばパパパパパパン、作って恩返ししよ」
『……そらそうや。今日は、聞かんでええ日や。
野暮やったなワイ。……良かったな。ほんまに』
その声だけ残して、粉は床の隙間に消えた。
(明日がある。そう思えたの、久しぶりだ)
(つづく)




