#桜002:魔王の願い。──血のかわりにココアを。
──光の中で、ココアの香りがした。
甘い。寂しい。──それでも、温かい。
(ムダ様……私、笑ってるよ)
……と、しみじみしたのは一瞬だった。
(……待って、風!? 落下してない!?)
(……てかココアの匂い、なんで!? 死後の演出にしてはオシャレすぎる!)
世界がふわっと回転する。
胃が置いていかれる感じ。
(第二の人生、いきなり落下スタート!? チュートリアルどこ!?)
◇◇◇
同じ匂いが、異世界にも漂っていた。
パンジャ大陸の南東、タマイサ地方。
近づくだけで肺が焼ける、常闇ダンジョンの最奥。
……なのに、ホットココアの匂いがする。
魔法陣の足元にマグカップ。
その前で、銀髪の少女が魔導書を広げていた。
──魔王家最後の末裔、エスト。
世界はまだ、笑い方を知らない。
けれど今夜だけは、笑いと涙が同時に生まれる。
小さな魔王が、ひとりきりで「家族」を呼ぶ夜だ。
「もう、一人はいや……
泣いてる場合じゃない! 世界を征服しないと……!」
小さな拳をぎゅっと握りしめる。
自分で自分を鼓舞するように言うと、エストは魔導書を手に取った。
「でも……一人じゃ戦えない。誰か……家族が欲しい!」
深呼吸をひとつ。
震える手で、魔導書を開く。
「えと、なになに?……術者の血を一滴、魔導書に垂らすこと……ひぇッ……」
読み上げた瞬間、指先にナイフを近づけ──
「…………痛いのはいやっ!!」
反射的に、バッとナイフを遠ざけた。
視線が横のマグカップへと滑る。
温かいココアが湯気を立てていた。
エストはじっとマグカップを見つめる。
「……いけるよね? ココアって血っぽいし……ミルク入ってるけど、なんか成分多い方が良いよね」
どきどきしながら、マグカップに手を伸ばした。
「血は、熱くて痛いでしょ?」
小さな手でカップを胸に抱きしめる。
「ココアは甘くて──寂しさをちょっと溶かしてくれるんだよ」
ひと呼吸。
胸の前でカップをぎゅっと握りしめる。
……痛いより、甘い方がいい。
それは魔法でも呪文でもない。
幼い魔王の祈りだった。
彼女は、痛みよりも優しさを信じた。
「甘い方が、誰かと分けられるから」
首をこてんと傾げ、ふっと笑った。
「……それにさ、いつか体の中で血になるでしょ──“未来の血”。天才かも!?」
今度は勢いよく首を大きく傾け、
「……よし、砂糖増やしとこ!」
ざらっ、と砂糖を足した。
たらり──。
とろりとしたココアが、魔導書の上に落ちる。
「あ、マシュマロ忘れた……ま、いっかぁ」
甘い匂いが、さらに濃く漂った。
「ほら! 全然バレない! セーフセーフ!!」
「……見ててね。私、ちゃんとできるから。」
──その直後。
足元の魔法陣が、バチバチと明滅し始めた。
バチバチバチッ!!
「ぎゃあ!? 未来どころか即アウト!?」
ココアの染みがみるみる広がり、不吉な紋様に変わっていく。
「バレた!? やっぱバレるの!?」
慌てて魔導書をめくろうとしたが、もう遅い。
魔法陣はすでに起動していた。
「や、やばっ! でももう止まらない! やるしかない!」
エストは必死で呪文を唱え始める。
「異界より来たりし魂……我に忠誓を誓わん!」
床に刻まれた古い魔法陣が、青白い光を強めた。
複雑な模様が、生き物のように脈打ち始める。
空間に、ぱきん、と亀裂が走った。
「来て……お願い! 私のそばに……!」
エストは両手を天に向けて広げる。
魔法陣が眩しいほどに光り輝いた。
──その瞬間。
息が詰まる。
空気が、止まった。
バシュウゥゥンッ!!
「っ……!」
エストは目を見開いた。
……だが、次に訪れたのは沈黙だった。
魔法陣は、ただピカピカ光っているだけ。
「……え?……何も、出てこない?」
エストは眉を寄せ、小さな声でつぶやく。
「あれぇ……?」
光り続ける魔法陣に近づき、首をかしげて身を乗り出す。
ピシ。
ピシピシピシ……。
頭上の石の天井に、細かなひびが走った。
次の瞬間──
ドサァァァァン!!!
轟音とともに天井の一部が崩れ落ち、その中から何かが落下してきた。
……ポヨン。
半透明の塊が床に着地して跳ねた。
ゼリーみたいにぷるん、と震え、その中で黒髪ロングの人型の影がぐにゃりと揺れる。
掴もうとしてすり抜け、尻もちをついた。
「いたいっ!! 魂!? ゼリー!? コントかよぉ!?」
魂は床でボヨーンと跳ねている。
「この魂、たぶんワガママで卑怯で友達いないけど、しぶといタイプだ!」
その時だった。
床で跳ねていた魂が、急に方向を変えた。
マグカップの方へ、猛スピードで突っ込んでいく。
「えっ!? そっちは……!」
ガシャン!!
魂がマグカップに頭突き(?)をした。
ドバァッ!!
中身のココアが、勢いよく魔法陣一面にぶちまけられた。
そして魂は、満足げにココアの海へダイブした。
「うわぁああああ!? 飲んだ!? 今ココア飲みに行ったよね!?」
エストは絶叫した。
神聖な儀式が、ただのティータイムに堕ちた。
そして魂が、ココアに──沈んだ。
ピタッ。
「……あ、止まった……?
……ココアで……くっついた……?
いや、飲んでる……?」
エストは目を瞬かせる。
魂は、静かに揺れていた。
ふわりと甘い香りが広がる。
光の渦の中心に、黒髪の女性の魂が浮かび上がった。
ぼんやりとした輪郭が、ゆらゆらと揺れている。
「わぁ……綺麗……」
エストは、一瞬、見惚れた。
「……でも……なんだか寂しそうな色……私と、同じだ……」
ぽつりとこぼしたその声は、ダンジョンの闇に吸い込まれていく。
──しかし。
「あれ……? なんで二色……?」
その魂は、白い光と深い闇が、うずまきみたいに混ざり合っていた。
「白いとこ、あったかい。黒いとこ、さむい」
胸がきゅっと締め付けられる。
(あ……私も、こんなだ)
(父様を失った闇と、父様に帰ってきて欲しいという光が……混ざってる……)
「──私も」
小さくつぶやく。
(この人と……同じだ……)
そのとき、魂がぐらりと揺れた。
ココアまみれで形が歪み始めている。
「え? ダメッ! このままじゃ消えちゃう! ココアのせいで!」
エストは慌てて両手を差し出し、自分の魔力を魂へと流し込んだ。
「ご、ごめんなさい! 今、洗うからね!」
ココアの染みを落とすみたいに、丁寧に、でも必死に。
「私の魔力をあげる! だから消えないで!」
魔力を込めるたび、魂の輪郭が少しずつくっきりしていく。
それでも足りない。
エストはさらに魔力を増やした。足元がふらつく。
「やば……魔力切れる……でもココアが……!」
「と、とにかく洗えぇぇ!!」
叫びながら、ただ必死に魔力を注ぎ続ける。
肌にうっすら赤みが差し、魔力の奔流が渦を巻く。
「も! もっと……もっと強くッ!」
エストは必死だった。
加減なんて分からない。とにかく全力で魔力を注ぎ込む。
すると──。
女性の額から、メキメキ……と音がして──
黒い立派なツノが生えた。
「あ、やば。魔力込めすぎた……」
エストは冷や汗をかいた。
でももう止まらない。
「……ま、いっか! 強い方がいいよね! オシャレだし!」
ポジティブに解釈して、さらに魔力を注いだ。
そして、とうとう立っていられなくなり、膝をついた。
それでも両手だけは、まっすぐ魔法陣へ向けたまま離さない。
「ううう……」
魔法陣の光がピークに達した。
部屋全体が、真昼みたいに明るくなる。
──バシュゥゥン!!
閃光が走り、すべての光が一点に収束した。
…………
ドサッ。
長い黒髪の女性が、石床に倒れ込んだ。
その体は、ちゃんと重さを持っていた。浅い呼吸が、かすかに胸を上下させる。
「……やった……」
声が震えた。
エストはふらつきながら近づき、そっとその手を取る。冷たい。けれど、指先の奥だけが、ほんの少しだけ生きている。
「……家族……」
言った瞬間、喉がきゅっと痛くなった。
そう呼ばないと、消えそうだった。
召喚陣の上には、ココア色の染み。
甘い匂いが、冷たいダンジョンの空気をやさしく塗り替えていく。
「……ココアで召喚とか……バカだよね」
自分で笑おうとして、うまく笑えなかった。
「昔ね……みんな、私のこと、笑ったんだよ。『エストはバカだ』って」
その瞬間、胸の奥に、ちいさな穴が開く。
笑われた記憶は、いつだって寒い。
でも今日は、寒いだけじゃない。
「でもね……笑われたら、ありがとうって返すの」
サクラの手を、ぎゅっと握った。離したら、消えそうで。
「だって、それ……私を見つけたってことだから」
返事はない。
でも、握った指先が、ほんの少しだけ、あったかい。
……泣きそうになった。
「……ねえ」
エストは、サクラの手を引き寄せ、頬にそっと当てた。冷たい頬に、熱が移る。
「私、ちゃんと見つけたよ。あなたを」
その言葉を言った途端──
胸の奥で、もうひとつの名前が暴れた。
呼んだら戻ってくる気がして。
呼んだらいなくなる気がして。
エストは息を飲んで、声を小さくする。
「……父様」
たったそれだけで、目の奥がじわっと熱くなった。
父様。
その二文字は、世界より先に胸に刺さっている。
でも。
今ここにいるのは、父じゃない。
エストは、サクラの手をもう一度強く握り直した。
──この人を呼んだのは、自分だ。
「……私、てっぺんまで行く」
言い聞かせるように、呟いた。
「世界を征服して、派手に旗を立てて……」
その先の言葉が続かない。
願いが、喉につかえる。
エストは、笑うみたいに息を吐いて、やっと言った。
「……見つけて」
言った瞬間、指先に力が入った。
……離したら、何かが終わる気がした。
ココアの匂いが、ゆらりと濃くなる。
エストのまぶたが、重く落ちていく。
魔力を使い切った体が、もう言うことを聞かない。
眠りに落ちる直前。
エストはサクラの手を握ったまま、息みたいな声で言った。
「……父様……」
そこで言葉が途切れた。
でも手だけは、離さなかった。
まるで、ここにいることを、誰かに証明するみたいに。
ふたりはココアの匂いの中で、静かに倒れた。
──闇は何も言わない。
ただ、その小さな拳と、握られた手だけを見ていた。
『ココア召喚は前代未聞だな』
──そして、サクラの寝言が静かに響いた。
「……替え玉……バリカタで……」
(つづく)
◇◇◇
──【エスト理論:バカの相対性】──
「バカって言われたら、ありがとうって返すの。
だってそれ、私を見つけた証拠だから」
解説:
世界は、気づかれた瞬間に輪郭を持つ。
誰かに「バカ」と呼ばれるのは、バカだと分かるくらい、ちゃんと見てもらえたということ。
無視よりずっとましだ。
恥ずかしさは、生きている証明書。




