過去
物心ついた時には、父親はいなかった。
居るのは母さんと、ねーちゃんと、親に捨てられたにーちゃんの三人。ただでさえ二人も子供がいるのに、お人好しの母さんはいとこから養子に出されそうになっていたにーちゃんまで引き取って育てていた。昔から方言が出ることが多かった母さんが標準語になったのはこの頃からだろう。俺も母さんと同じように、標準語にするようにしていたのをよく覚えている。
ちょっと歪な関係だったけどそれなりに楽しくやっていた。
変わってしまったのは、五年前のことだった。
にーちゃんが18歳になる年、にーちゃんの本当の親が家に押しかけてきた。俺たちの子供を返せ!って。母さんはいつもの母さんじゃ考えられないほど怒って、玄関で口論になっていた。俺たちが家の中に居たから頑張って抑えようとしてくれたんだろう。ねーちゃんと俺は押し入れの中で隠れて、にーちゃんが警察に通報し終わったその時、ゴツン、という鈍い音が聞こえた。みんなで急いで玄関に行った時、
頭から血を流しながら倒れている母さんの姿が見えた。
打ちどころが悪く、即死だった。母さんの元に駆け寄った時にはもう、呼吸をしていなかった。それから警察や救急車が来て、母さんが搬送されて、にーちゃんの親は現行犯として逮捕された。事情聴取を何回もされて子供ながらに、悲しむ時間をくれと強く思った。
母さんが死んでから、親戚が後見人になってくれたけどもちろん引き取ってくれはしなくて、にーちゃんと、ねーちゃんと、俺の三人での生活が始まった。
18歳、16歳、11歳になる年のことだった。
親に捨てられた兄と、母が嫌いな姉、そして父親に捨てられた俺。
まるでパズルピースのように、ぴったりはまった関係だった。幸い、父親からの養育費や貯金、二人がバイトをしてくれたお陰で金銭面はマシだった。一番きつかったのは精神面。泣いても母さんは帰ってこないし、現状が変わることはない。でもただ涙がこぼれ落ちていき、苛立ちだけが心に残るようになった。毎日誰かしらが泣いていた。
しかし、そんな日々にも終わりが来るもので。俺が中学生になる頃には家事分担が決まって、少しずつ楽になっていった。
「で、ご飯は俺、洗濯はねーちゃん、掃除はにーちゃんなんだよ」
話し終わっても返事がない。仕方ないことだとは思う。最近出会った人のこんな話聞く機会なんて早々ないだろう。すぐに返事をできる方が凄いだろう。
やかんの甲高い悲鳴が聞こえる。立ち上がり、火を止めに行く。光の頭をわしゃわしゃと撫でる。ごめんという気持ちを込めながら。
火を止め、きゅうすにお湯を注ぐ。味が出るまで少し待つだろうと思い、リビングに戻る。光は先程と変わらず同じ体勢を続けていた。身長が高い男が丸まると小さく見えるのは本当なのだと感心する。
隣に座って光に声をかけようとした時、長い前髪の隙間から水滴が溢れ落ちるのが見えた。
「ひ、かる、……っうわぁ!」
勢いよく光から腕を引っ張られて体勢が崩れる。次に見たのは、至近距離にある光の顔面だった。綺麗な瞳が水滴でいっぱいになっていて、宝石のように見える。涙さえ美しく思えて、思考が吸い取られる。輝きは暗くても消えることはない。先に口を開いたのは、光の方だった。
「……なんでそんな軽いことみたいに言うんだよ」
「え、だって一応終わったことだし…?」
見つめあう。いつもより鋭い瞳に撃ち抜かれる。目が離せない。ぐちゃぐちゃで、綺麗で、何もかもわからないのに。指先まで冷えた手で俺の手を力強く握る。
「悲しかったって、辛かったって!ちゃんと言えよ!っ…言ってよ……」




