第2話「妖狐様、早くも異世界の勇者と邂逅する」
「……いや待て待て待て待て」
しかし、そうして自らの過去を振り返り始めた少女ではあったが、その思考の中で何かを思い出したのか、それから数秒もしない内に突然その様な奇声を、いや無論当人からすればそれを発する十分な理由があったのだろうが、少なくともその様子を眺めていたサラにはそう思える声を出しながら自らの右手を、その甲をサラの方に向けた状態でわざとらしくゆっくりと差し出す。
「え? な……んですか?」
だが、互いの知る文化の違いか、その少女の渾身の……かどうかは兎も角、少なくとも伝わり易い様にと意図的に速度を抑えて披露したツッコミも虚しく、その意図を理解する事は出来なかったサラは驚きと困惑の入り混じった表情を浮かべながらそれを声でも表現すると、その困惑故に折角直前に褒められた口調を早くも崩し掛けながらも、どうにか恩人への敬意を示したままを素直にその言動の意図を尋ねる。
「……まあ良い。あの様な体験の直後という事もあるし、お主の無知も無礼も今回は見逃してやろう。しかし、その全てが常に有意義であるとは申さぬが、礼儀というものは存外に大切な、もとい役に立つものじゃぞ。特に自らの命を容易に奪える様な者の前に立つ時にはのう。則ち、仮にも命の恩人に……という事は措いておくとしても、他者に何者であるのかを尋ねるのであれば、先ずは自分から名乗るべきではないかの? という話じゃ」
しかし、何とかして敬語を保つ事は出来たという事で、恩人を、そしてたった今恐るべき力を見せた相手を悪戯に刺激する事は無い筈である、と自らの胸を撫で下ろしたサラの見解とは裏腹に、それを聞いた少女は心底呆れた顔を浮かべながら溜め息を吐く。
が、あからさまにその様な態度を取る程度には思う所があった筈であり、それを表情や声色にも遠慮無く滲ませながらも、少女は先程までの当人にとっては生涯最大の危機だったであろう状況を理由に今回はその件については不問とする旨を口にすると、自ら無知と断じたサラの質問にも素直に応え自らの言動の意図をそう説明する。
「あの、本当にごめんなさ――いえ、申し訳――」
一方、仮にも恩人の、そして明らかに人間のそれを超越した力を持つ相手への発言の途中という事で口を挟まずにこそいたものの、その中盤辺りには既に相手が言わんとする事に思い当たった事であまりの羞恥に顔を、もとい上半身の全てを真っ赤に染めるばかりか、最早軽く目尻に涙さえ浮かべながら少女が話し終えるのを待っていたサラは、その時が来るなり一度は言葉を詰まらせながらも、そして例によってその敬意の表し方を途中で改めながらも心からの謝罪を口にするが、それこそサラとしては「礼儀」に則っての言動であったにもかかわらず、少女はその途中で右手を軽く挙げる事でそれを制止する。
「今回は許してやると申したじゃろう。それよりも――」
「あ、はい! 私はサラ。サラ・ワトソンといいます。えっと、一応冒険者です。今日そうなったばかりですけど……」
そして、その謝罪が不要である旨を先の自身の発言を自ら引用する形で再度告げると、それよりも……とより重要な要求がある旨を示唆するが、流石にその先に続く言葉は待つまでもなく自明である事もあり、これ以上相手の気分を損ねない様に……というよりもこれ以上は自身の駄目な所ばかりを見せたくない、と思ったサラは今度は敢えてその発言の途中で勢い良く割り込むと、そう名乗る事に一定の、どころではない気恥ずかしさを覚えながらも改めて自身の名と職業を明かす。
というのも、無論今日それになったばかりの身で「私は冒険者である」などと名乗るだけでも何かむず痒い様な感覚を覚えるのは仕方が無い話ではあるのだが、実際にその責務を果たせずに助けを呼ぶばかり
であった自身の姿をしっかりと目撃していたであろう相手にそうするとなれば尚更であり、それ故にその顔は先程そうなって以来未だに見事な赤さを保っていたし、漸く口にした自己紹介の言葉も早々に詰まらせてしまったのであった。
「成程の。大層立派な格好の割にはなんとも情けない姿を晒しておるとは思うておったが、その立派な装備も今日初めて身に着けたという新米も新米となれば、まあそれも仕方が無いと思えぬ事も無いかもしれぬな。じゃが、あの程度の破落戸程度をもあしらえぬ様な者でも『冒険者』と名乗れる……だけならば個人の自由だとしても、『そうなった』という発言からして公にもそう認められたという事じゃろう? この……辺りではそこまで人手が不足しておるのか?」
だが、そうして誰の目にも明らかである、という程度にはサラの態度には自身の発言に対する羞恥が滲み出ていた、もとい溢れ出していたにもかかわらず、その発言を聞いた少女はその辺りには触れずに語られた内容に一先ず納得の意を示すと、その羞恥の要因となった出来事について結構な辛口で評価した後、妙な所で一瞬言葉を詰まらせながらも周辺の状況についてそう尋ねる。
「え? ええと、そうなんですよ。五年前のあの出来事以降世の中が乱れている上に魔物の活動も活発になっているという事もありまして、最近は冒険者になろうっていう人はあんまり居ないみたいなんです。まあ、以前は寧ろその状況をチャンスだと思って冒険者で一山当てようという人が多かったらしいんですが、それで成功する人はごく一部だけだった事もあり、最近はそういう血気盛んな人は逆に世を乱す側に回ってしまう事も多くて。特にこの辺りは『アーグ盗賊団』……ああ、さっきの連中の事ですが、まあそういう輩が幅を利かせている為か、特に冒険者のなり手が少ないらしくて、だから私みたいなちょっと足が速いだけの人間でもこうして試験に合格出来た……という訳です」
しかし、その少女の言葉を聞き終えたサラは何処に引っ掛かったのか、口を開いた直後にこそ大層意外そうに一度聞き返したものの、すぐさまそれは後回しにすべき事柄だと判断してその質問に肯定の答えを返すと、その理由として五年前からのこの世界の、特に現在自分達が居る地域の事情をざっと説明するが、既に人生最大の危機から救って貰った事もありそれも当人の性格なのだろうと納得したのか、自身への辛辣な言葉にも特に口調を乱す様な事も無かった。
「……成程の。では概ねの状況は理解出来た事であるし、今度は妾の番じゃな」
すると、その自身の力不足を認めるサラの潔い態度が気に入ったのか、その話を聞いていた少女はその途中で明らかに興味深そうに眉を動かしていた箇所もあったにもかかわらず、その点を含む現状の話題についてはこれ以上の質問をする事も無くそう納得の意を示すと、既にサラは先程指摘した礼儀を全うしたと判断したのか今度は自分の番であると宣言する。
とはいえ、その少女の興味深そうな様子はその目から見ても明白であった為、その言動を聞いたサラは眼前の少女の、もとい少女の姿をした何者かのその尊大な物言いの割には存外に礼儀正しいというか義理堅いというか、自身の様な当人から見れば矮小な存在を相手にしてもむやみに軽んじたりはしない態度に、直近の盗賊達のものも含めこれまでに自らへ向けられていたそれと比較して或る種の感動を抱いていた。
「妾は珠実。偉大なる妖狐である!」
しかし、そこまでは、つまり自身を初めて目にするサラからの感動と尊敬の眼差しを勝ち取ったまでは良かったのだが、その後に一度咳払いを挟んだ少女が満を持してやけに大仰に、それこそ見得を切るかの様に自らの名とその正体を明かすと、何はともあれ待ちに待った情報を漸く得る事が出来たにもかかわらず、それを聞いたサラの表情は直前のそれのまま固まっていた。
それは無論この世界には「歌舞伎」などという文化が存在しない為に、その大仰な動作の意図が分からずに固まってしまっていたという事ではあるものの、いや或る意味では同じ理由であるとも言えるのだが、文字通り意味の分からない単語を立て続けに使用された事により、その時のサラにとってはその少女の、もとい珠実の言葉自体の意味を理解する事すら困難を極めていたのであった。
「……えっと、「タマミ」……までがお名前という事で良いんですよね? それで「ヨウコ」……とは? あ、凄い魔法……じゃなかった、「ヨウジュツ」? を使われてましたし、もしかして何か神様の称号みたいなものですか?」
とはいえ、仮にも冒険者を志した者という訳か、程無くして我に返ったサラは珠実の言葉をいくつかの部分に分けた上で、直近の言動等も含めてどうにかその意味を自分なりに解釈すると、失礼の無い様には気を付けつつも、持ち前の好奇心のままに自らの仮説が正しいかを珠実へと訊き返す。
が、思えばその外見からも漂っていた神秘的な雰囲気の事もあり、サラとしてはその説に結構な自信を持っていたからこそ、そうしてわざわざ自説を口にした上で尋ね返してみた訳なのだが、それを聞いた珠実は自身の呆れ振りを隠す事も無く溜め息を吐いた為、今度はサラもその焦りの感情をそのまま表情と動作へと表す。
「……名に関してはいかにもその通り……じゃが妾は決して神などではない。妖狐とは狐の妖……まあ、あ奴らも申しておった通りの化け物じゃと思えば良い。妖術に関しても、別に魔法の様なものという認識でも何ら問題は無いじゃろう。仕組みは兎も角、現象としては似た様なものであるじゃろうからな」
すると、その慌て振りを哀れに思った珠実は再度、今度はその様子のサラでは気付かぬ程に小さく鼻から息を吐くと、先ずは眼前の哀れな若者の一つ目の質問に肯定の答えを返す……が、何か思う所でもあったのか、もう一つの質問に対してはそうはっきりと否定する。
しかし、基本的には自らが相手にどう認識されるかについてはさして重要視はしていないのか、どうやらサラにとっては未知のものである自らの正体である「妖狐」という存在や、その能力である「妖術」に関しては、最終的にその様ないい加減にも思える説明で返答を済ませる。
「……なる……ほど? じゃなかった。ええと、詳しいご説明をありがとうございます。しかし、貴方程の力を持つお方であれば、この辺りでは勿論世界的にも有名……どころか伝説になっていてもおかしくはないと思うのですが、そのお名前はおろか「妖狐」という種族……になるのでしょうか? そちらに関しても私は今日まで見聞きした事がありませんでした――あ、ええと、別に仰った事を疑っているとかそういう訳じゃなくて――」
とはいえ、それが説明が面倒だからといい加減に語られたものであるのか、それとも実際にそれが最も理に適った説明であるのか、などという事は当然知る由も無いサラはそう曖昧に納得の意を示すが、直ぐにそれは目上の、少なくとも既に当人から礼儀についての指摘を受けた相手に対する態度としては如何なものかと自ら気付くと、演技には慣れていないのか全くもって誤魔化し切れてはいないものの、自らも知る礼儀としてその説明への丁寧な礼を返す。
だが、実際に出来ているかは兎も角、折角そうして自身の無礼を誤魔化したにもかかわらず、持ち前の好奇心を抑え切れなかったサラは一連の話に、延いては今此処に居る珠実という存在について自身が気になった事をそのまま疑問として口に出してしまう。が、即座に今度はそれが相手の発言を疑っている様にも聞こえる事に自ら気付くと、その慌てて振りを隠しもせず決してその様な意図での発言ではないと弁明する。
「分かっておるから落ち着け。妾程の超絶至強かつ傾城傾国の美しき妖狐の存在が今日まで伝わっていない事には、当然ながら相応の理由がある」
しかし、それは当人としてはそれだけの焦燥を覚えながらの発言であったのだが、それを聞いた珠実は別にその言動を咎める事も無く、どころかその気配さえ見せずにそう答えてサラを宥めると、それが冗談なのか本気なのかは分からないがそう真顔で自身を形容しつつも、その存在が伝わっていない事には明確な理由がある旨を告げる。
が、例によって知らない単語が含まれていた事を措いて意味の分かる部分だけを考えても、その自信に満ち過ぎた発言には「その通り」と「いやそこまでは」という両方の感想を抱きつつも、ともあれそう口にしたからには直ぐにその理由とやらを知る事が出来る、と目を輝かせたサラの期待とは裏腹に、そこまでを口にした珠実は不意にサラから視線を外すと、それをやや下に向けながら今度こそ自らの過去の……と言ってもそう遠いものではない、時間にして精々が十数分程度前の記憶を思い浮かべるのであった。
斯くして、ほんの十分程度前の事という事もあり珠実の脳内にはその時の記憶が鮮明に思い浮かべられた訳であったが、その始まりは映像ではなく足先に感じた微かな温かさだった。それは本当に微かな温度の変化に過ぎなかったが、その変化を足先の神経が感じ取った刹那、その瞬間まで熟睡中であったにもかかわらず即座に目を開いた珠実は瞬時に身体を起こすと、その割には急ぐ事も無く軽く周囲の様子を窺う。
その結果、昨晩は……もとい今朝は自室で眠りに就いた筈であるにもかかわらず、その視界に映ったのは草生した地面や鬱蒼と……という程ではないものの視界の結構な割合を占める木々、そしてその枝々の隙間を透る木漏れ日といった自然溢れる光景であったが、その明らかな異常事態に於いても珠実の思考は冷静そのものだった。
「……これが流行りの異世界転生、もとい異世界転移というものか」
そして、数秒も経たぬ内に状況を、特に少なくとも現状で差し迫った危険は無いという事を理解した珠実は一度呆れた様に深く呼吸をすると、現在自身が置かれた状況をその理解に基づいてそう一言で表現するが、その言葉の何かが自ら気になったのか直ぐにそう言い直す。
というのも、自身を「偉大なる妖狐」であると自称する程度には、自身の実力に……それは戦闘力に限る事は無く、此度の場合に於いては主に危機を感知するという意味での五感や警戒の鋭さにも自負を持つ珠実からすれば、自身が先に口にした言葉は、則ち自身が気付かぬ内に命を落とすなどという出来事などは、それこそ異世界へと転移するよりも余程あり得ない事なのであった。
いや、だからと言ってそれが、つまり異世界などという空想の産物とも思える可能性が真っ先に出て来るのはおかしいのでは、という話ではあるのだが、無論先述の能力への自負により同じく気付かぬ内に拉致されるという事もあり得ない、という考えも無かった訳ではないのだが、そちらに関してはより明確な根拠が存在していた。
というのも、妖狐……則ち妖怪の一種として人間とは異なる能力を、この場合では特に感覚を持つ珠実からすれば、周囲の状況から少なくとも一般的な人間では感じられない様な変化を感じ取る事も容易であり、今回は周囲の空気から自身が元居た世界とは明らかに異なる要素を感じ取った為に、この様な「異世界転移」などという、本来は荒唐無稽にも程がある出来事に直面した直後であっても、即座にその答えへと辿り着く事が出来たのであった。
尤も、それが可能であった背景としては、「偉大なる妖狐」を自称する珠実も元の世界ではしっかりと現代社会に溶け込んでいた……いや無論周囲の人間達と積極的に交流していたなどという訳ではないものの、文化的にはそうしていた事でその手の作品の知識が、より厳密にはそういった作品が流行しているという知識があった事は否めなかったのだが、言うまでもなく当人がその様な事を認める筈は無かった。
ともあれ、そうして自身が置かれた状況自体は素早く理解する事が出来た珠実ではあったが、「何故その様な事になったのか」や「ではこの転移して来た世界はどの様な世界なのか」等、妖狐という身ではあれど至極当然の疑問も含めたそれ以外の全ては言うまでもなく不明のままであった為、それをわざわざ解き明かすべきかも含め今後の方針を考えようとした時だった。
「誰かいませんか! 盗賊に追われているんです!」
その「妖狐」という自称が真実である事を示す頭上の耳がピクピクと動き、助けを求める若い女性らしき声を捉える。とはいえ、珠実が目覚めた地点からその発生源までには結構な距離がある様で、その声は少なくとも一般的な人間の聴力ではとても聞き取る事が出来る様な大きさではなかったが、狐の耳は伊達ではないという事か、既に珠実にはその声の主の詳細な位置まで把握出来ていた。
「……どうやら退屈はせずに済みそうじゃな」
そして、その声の内容と響きからその声の主が走って移動している事はおろか、追跡者との概ねの距離や両者の速度差までをも、則ち取り敢えず現時点では声の主が危急の状況ではない事を把握した珠実はそう小さく呟くと、その声がした方向へとさっと、殆ど音を立てずに駆け出す。
そうして最早常人には動きを捉える事も難しい速度で出発した珠実は直ぐに声の主が居る林へと辿り着くと、障害物の多い地面を走るよりはそうした方が速く、かつ状況を視覚で確かめるにも都合が良いと判断して林冠部を跳躍する移動へと切り替えると、あっという間に声の主……則ち現時点ではその名は知らぬもののサラの、そしてその数百メートル後方を余裕のある速度で歩く男達の姿を捉える事に成功していた。
則ち、珠実は別にサラを助けようと思えばいつでも、少なくとも実際の出来事よりも早いタイミングでそうする事は容易だった訳だが、改めて現在の状況を視覚という最も信頼の出来る情報として捉えた結果、やはり未だ或る程度の余裕はあると判断した珠実は、事を急がずに一先ずはその場を離れる事にする。
いや、助ける気があるのならばそんな勿体振らずにさっさと助けていれば、少なくとも男達全員が灰に……いやそれすらも残っていたのかは怪しい所だが、兎に角無駄に命を落とす必要も無かったのでは、という話ではあるのだが、別に自身を正義の味方だなどとは露とも思っていない珠実からすれば、単に自身の思うままに行動しただけの話だった。
なお、別に珠実は自身の聴覚に、延いてはそれも含めた状況を把握する能力に自信が無かった訳ではなく、仮にも「異世界転移」などという、自身の他者よりはそれなりに多く積んで来た経験にも含まれない未知の出来事に巻き込まれた直後である事から、自覚は無くともその能力にも不調がある可能性は否めなかった為に、こうしてわざわざ視覚という、少なくとも明確に映る物に対しては最も信用出来る感覚でその状況を確認しに来たのであった。
ともあれ、そうしてサラと男達の位置関係やその進路を確認した珠実であったが、では直ぐに助けに入る代わりに何をしようとしていたかといえば、最終的な結果がどうなったのかは既にご存じの通りであるが、その理由は当人の性格に基づく変わった……というよりも最早当人独自のものであると言えるものであり、他の……少なくとも一般的な感性を持つ人間には理解のし難いものだった。
則ち、ただ単に追われるサラを助けるだけでは「つまらない」と考えた珠実は「よりドラマティックな救出劇」を演出する為だけに、その進路の先にあった件の広場へと先回りしてその中心にあった大木の上へ移動すると、その場にサラが訪れるまで、より厳密にはそこが行き止まりである事に絶望し背を向けるまでわざわざ待機していたのである。
尤も、その裏にその様な独特な考えがあった事は勿論、そもそも当然ながらその行動自体を知る者も当人を措いて他には存在しないのだが、ともあれそうして少し前の過去を一通り振り返った珠実は十分だとばかりにそこで回想を中断するのであった。
しかし、そうして意識を現在に戻したであったが、直ぐにはその口を開く事は無かった。いや、その回想の目的を考えれば当然の事ではあるのだが、それでもその前に行っていた過去の回想の時間を含めても、当然ながらその思考の切り替えに気付く事の無いサラが続きの言葉を待ち切れなくなる前には全ての思考を終えた珠実はわざとらしい咳払いを一つ挟むと、満を持してその口を開く。
「……というのもじゃ、妾が活動しておったのはもう随分と、と云うても正確な事は妾にも分からぬのじゃが昔の事であるし、そもそも日の当たる様な活躍をしていた訳ではないのでな。その活躍が現代のお主らにまでは伝わっておらぬのも無理はないじゃろう」
そして、その思考の結果、異世界から転移して来たという情報を伝える必要は無い、というよりも伝えるべきではないと判断した珠実は適当な理由をでっち上げると、それをサラからの質問への回答として然も真実であるかの様に堂々と語る。
「え? それじゃあどうして――」
「人の……いや人ではないのじゃが、兎に角相手の話は最後まで聞け。で、昔から強過ぎた妾には気付けば敵は居なくなっており、それが退屈になってしもうての。面白い時代が来るまで眠る事にして自らを封印しておったのじゃが、漸くその時が来たのかついさっきその封印が解けた、という訳じゃ」
とはいえ、その語られた内容だけでは多くの謎が残っていた為、それを聞いたサラは思わず頭に浮かんだ疑問をそのまま訊き返そうとするが、それも織り込み済みだったのか珠実は即座にそう、自らの言葉にもツッコミを入れつつもサラを諫めると、自らの作り上げた「事実」をやはり普段と何も変わらぬ口調で語り終える。
いや、その異世界から来たという事実を伏せるという判断の是非は兎も角としても、仮にも口から完全なる出まかせを吐いている側であるにもかかわらず、よくもまあそんなに堂々と語るばかりかサラに対してそう偉そうに言えるものだという話ではあるのだが、自身の判断に一切の疑いを持っていない珠実からすれば、その言葉が真実であるか否かはさして重要な事ではなかった。
ともあれ、そうして珠実が話を終えた事を確認すると、珠実からのツッコミにより言葉を呑み込んでいた、どころか自らの口を覆ってその呼吸さえも止めていたサラも漸くその戒めを解き、数十秒ぶりの深呼吸により酸素をその肺へと取り込む。
「……なるほど。そういう事ならば色々と合点がいきましたが、中々凄い事をしますね。つまらないからっていうだけで自らを封印しちゃうとは……」
そして、眼前の人物が「異世界から来た」などという真実は想像もしていない事は当然として、その堂々とした態度やそもそも珠実には嘘を吐く理由も無いだろうという推測、そして何よりもそれが自身の抱いていた疑問を解決するには十分な内容であった事もあり、語られた内容を事実として受け止めたサラはもう一度小さく呼吸をした後に納得の意を示すと、深く感心した様子でその所業についての感想を語る。
「だけとはなんじゃだけとは。楽しみがない生など生きていても仕方が無かろうが」
しかし、その心底からの感心の影響か、そのサラの言葉はまたしても礼儀という点に於いては少なくともそれを尽くしているとは言えないものではあったのだが、それを聞いた珠実はその言葉の内容についてそう、妙に小気味良い調子でツッコミを入れたものの、その態度自体には特に触れる事も無かった。
「ああ、ごめんなさいそういうつもりじゃ――」
尤も、先述の通りその様な笑いの、より厳密には珠実の居た世界に於けるそれの基本などは習得していない事もあり、それを聞いたサラはその尤もな指摘に直ぐにそう申し訳無さそうに、かつ焦りを覚えている様子で返答というか弁解をするが、元より本気で気にしている訳でもない珠実は表情を変えぬまま右手を上げる事でそれを途中で制する。
「……あの?」
しかし、そうして自身の発言を止められる事は初めてではなかったものの、これまでならばその後に直ぐにその意図を説明するとか、兎に角何かしらの言葉を発していたにもかかわらず、今回は何を口にするでもなく、そして何をするでもなく佇んだままの珠実に、自身が何か口にすべきなのかもしれないと考えたサラはそう、明確に示した訳ではないがその行動の意図を尋ねる。
「こうしてご歓談に興じるのも悪くはないが、どうやらお客様をお待たせしておる様なのでな」
その様な経緯もあり、その発言ももしかすれば失言だったのかもしれないと不安を抱いたサラの胸中とは裏腹に、直ぐに口を開いた珠実は相変わらず微かな笑みを浮かべたまま普段通りの口調でその質問に答えを返すが、その口から語られた内容は全くもって予想していなかったものだった。
「え!?」
故に、その言葉を聞いたサラは心底意外そうな声で自身の驚きを表現するが、その時点で既に珠実が当人の右斜め後方を右手の親指で示している事に気付くと、そこに居る筈の誰かを探そうと目を凝らしてみるが、そこには人影はおろか動物や魔物の姿すらも見当たらなかった。
いや、確かに一見すれば、どころか少し目を凝らした程度では何も居ない様にも見えたが、更に集中して良く見れば確かに茂みの影の辺りに蜥蜴らしき生物の姿が見えるかもしれない、という事には気付いたものの、それが自分達の方に興味を示している様にも見えない上に、そもそも出会ってから未だ時が浅いとはいえ、珠実がそんな小動物を「お客様」などと称して話を中断する様な性格とも思えない、とその疑問を更に深めた時だった。
「これは失礼を致しました。お二人のお話を邪魔するつもりは無かったのですが」
突然、そのサラが「何も居ない」と思っていた木陰から一人の女性が姿を現し、自身の無礼を丁寧に詫びながらゆっくりと珠実達の方へと歩み寄る。が、その突然の出来事に驚いたサラにはその言葉の意味も碌に理解する事も出来ず、ただその長い黒の、この辺りでは珍しい色の髪を僅かに靡かせながら姿勢良く歩く姿を見惚れる様に眺めている事しか出来なかった。
それ故に、現状では唯一その様子を目にしているサラもその事に気付く事は無かった、いや厳密には微かな違和感を覚えてはいたもののついぞ意識する事は無かったのだが、そうしてその女性が姿を現した瞬間、件の蜥蜴や付近の茂みに隠れていた小鳥等が一斉にその場を去って行っていた。
「それは此方こそ気を遣わせたのう。それであ奴は誰じゃ、お主の知り合いか?」
ともあれ、そうしてその場に新たな人物が、少なくともそちらの方を向いていた筈のサラが気付かない内に近付いていた様な人物が現れた訳であったが、その事にいち早く気付いた筈の珠実は何故か未だにそちらに背を向けたままそう、その状態でも件の人物に声が届く様にやや大きな声で返事をすると、今度はそれと対照的な小声でそうサラに尋ねる。
「いえ、初めて見る方だと――いや、その黒髪と何よりもこんな林の中でも素足、まさか「裸足のエレナ」!?」
その珠実の奇行を不思議に思いながらも、恩人の質問に素直に答えようとしたサラは先ずはその外見、主に見覚えの無い顔から知り合いではないという事実を答えようとするが、より視点を広げてその全体像を捉えた瞬間、そのあまりに特徴的ないでたちから自身の知識内の或る人物に思い当ると、その人物がこんな所に居たのか、という驚きも込めてそう大声でその名を口に出す。
「裸足の? おお、本当にこの様な森の中を素足で歩いておる。で、その様な二つ名まで付いているとは有名な奴なのか?」
その変わった呼び名に興味を持ったのか、それを聞いた珠実は自身もその部分を口にしながら漸く背後を振り返り、そのエレナと呼ばれた女性の姿を見ながらそう感心した様に口にするが、続けて当人に対して何かを言うのではなく、再度後方へと軽く振り返りながらあくまでサラに対してそう尋ねる。
「え!? 知らな――ご存じないんですか!? ってそう言えば先程目覚められたばかりと言っていましたね。ええと、此方のエレナ……さんは先の試練で唯一『勇者』として――」
それは珠実からすればごく当然の質問ではあったのだが、この世界の住人からすれば心底意外なものだったのか、それを聞いたサラは大層おどろいた様子でそう訊き返す……が、先の珠実の説明に基づき、いやそれ自体は虚偽のものだったのだが直ぐにその理由を思い出し申し訳無さそうにそう言うと、漸く珠実の質問に答える為に客人について自身の知る限りを話し始める。
「ほう、『勇者』と来たか。道理で気配を断つのが上手い訳じゃ」
が、恩人の役に立とうと記憶を辿るサラの懸命さとは裏腹に、その口から「勇者」という肩書が語られた直後、珠実はもう十分だ、とでも言わんばかりにそれを遮ってそう言うと、漸く客人の、則ち自身の前に現れた「勇者」に向けてそう、挨拶よりも優先して相手の技量への称賛を送る。
斯くして、熟睡中に見知らぬ世界へと転移させられて僅か半時にも満たぬ後、異世界の地に立った妖狐はその理由も知らぬまま、早くもその世界の「勇者」との邂逅を果たしたのであった。




