第3話:逃亡の始まり
春だった。
花の匂いが優しくて、鳥の声は穏やかで、空はどこまでも青かった。
弟たちの笑い声、母の歌声、父の足音。
全部が――悪い夢だったみたいに、平和だった。
けれどリィナ・アーデルの心は、冷たい灰の中に埋もれていた。
ここは過去。
“癒し”の魔法が初めて発現する、その二日前。
十歳の自分の身体に、彼女は戻ってきていた。
けれど心は――もう、戻らない。
処刑台の首縄の感触。
我が子の名も知らぬまま、命を失った時の感覚。
生きたまま壊される痛み。
リィナは、それを忘れていない。
この家は、偽りの愛で満ちていた。
今笑っている母は、あのとき金貨の袋を撫でていた。
今口笛を吹く父は、あのとき彼女を“王都に売った”張本人だった。
その事実を、リィナは知っている。
知ってしまっている。
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「リィナー、お昼だよ~」
母の声が明るく響いた。
窓から差し込む陽光の中で、焼きたてのパンの匂いがふんわりと香る。
以前なら、それだけで嬉しかった。
でも今は、吐き気がした。
「はい、今日はハチミツもつけたから。あなたの好きなやつよ」
母が微笑みながらパンを差し出す。
白い手。少し荒れているけど、どこか優しいその仕草。
けれどリィナの目には、そこに**“計算”**が見えていた。
この女は、私を売る。
魔力の発現を聞いたその日に、“王都へ送ってくれ”と笑顔で言う。
“娘の未来のため”なんて言葉の裏で、金貨を受け取り、家を修繕し、宴を開いた。
リィナは黙ってパンを受け取り、無表情で一口かじった。
「美味しくない?」
「……ううん、美味しいよ」
そう言った自分の声が、自分のものではないように思えた。
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食事の後、父が戻ってきた。
重い足音。乾いた手の音。
弟たちの声が弾む中で、父はリィナの頭をわしわしと撫でた。
「どうだ、今日の畑仕事、手伝ってみるか? そろそろ魔力の気配も見えてくる頃だろう」
「……なんで?」
「ん?」
「なんで、そんなに魔力に期待するの?」
父の手が止まった。
「……まあ、お前がもし何か持ってたら、王都に行けるからな。
いい教育受けて、いい生活して、立派な人間になれる」
「それは、私のため?」
「……当たり前だろ」
リィナは、そっと首を傾げた。
「でも、“行きたい”って言ったこと、一度もないよ?」
父の顔から笑みが引いた。
一瞬、困ったような、気まずそうな、それでいて――苛立ちを抑えるような表情が浮かんだ。
「……なに言ってんだ、お前。王都に行けるなんて、滅多にない機会なんだぞ」
「私は、売られるんだよ。知ってる。
魔力を測られて、癒しの魔法があるってわかったら、スカウトが来て、
それを“預かり”って言いながら、金貨を積んで……お父さんは、それを受け取る」
部屋が、静まり返った。
弟たちの笑い声が止まり、母が手を止め、父がリィナを見つめる。
「おい……なんだそれは……。何か夢でも見たのか?」
「夢じゃないよ。現実だった。……私は一度、処刑されたの。
子どもも産まされた。研究所で殺された。
お父さんも、お母さんも、何もしてくれなかった」
「リィナ、それは――」
母が何か言いかけたとき、父が立ち上がった。
「馬鹿なこと言うんじゃない!誰がそんな――」
その手が、リィナの腕を掴む。
固くて、重くて、嫌な力。
その瞬間だった。
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バチン。
魔力の光が、弾けた。
まだ覚醒していないはずの癒しの魔力が、リィナの体内で暴発する。
無意識に流れ出した“過剰な再生”が、父の指に集中した。
「ぐ……っ!?」
骨が逆関節に曲がり、肉が裂け、血が吹き出した。
「う、あ……があああああああっ!!」
父が叫ぶ。
母が悲鳴を上げる。
弟たちが泣き出す。
けれど、リィナは動じなかった。
「ごめんね。癒しって、使い方間違えると壊れちゃうんだよね」
そう言って、無表情のまま、自分の部屋に戻った。
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夜。
リィナは荷物をまとめていた。
といっても、金も、服も、ほとんど要らなかった。
この家から持ち出すものなど、何ひとつない。
家族は、別室で慌ただしくしている。
リィナの部屋には誰も来なかった。
いや、もう怖くて近づけなかったのだろう。
父の手は二度と戻らない。
あれは、“癒し”の力を制御できなかったせいじゃない。
リィナが、“癒さなかった”から。
痛みを止めることも、止血することもできた。
だが、そうしなかった。
だって、これは“警告”だったから。
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深夜。
リィナは靴音を殺して、裏口から出た。
背後にある家が、二度と戻らぬ場所であることを確認し、
そのまま村を後にする。
誰にも気づかれずに、闇の中を歩く。
遠くに見えるのは、北の山脈。
その先には、“魔族の森”がある。
人間にとっては、恐怖の地。
だが、リィナは違う。
“人間でいるつもりは、もうないから”。
⸻
夜風が冷たかった。
でも、その冷たさが心地よかった。
熱も、愛も、優しさも――
リィナにとっては、すべて“嘘”だったから。
「さあ……ここからが本当の始まりだよ」