第2話:囚われの魔女
王都に向かう馬車の中で、リィナ・アーデルは窓の外を見つめていた。
見慣れた村の景色が、少しずつ遠ざかっていく。
土の匂い。草の揺れる音。弟の笑い声。
もう戻れない場所。
「座ってろ。目を合わせるな」
向かいに座る護衛の男が無表情に言う。
重たい鎧の音。視線の冷たさ。
まるで、罪人を運んでいるような扱いだった。
王都に着いたとき、リィナは最初に**「施設」と呼ばれる石造りの建物**に案内された。
中は冷たく、装飾もない。壁には魔法抑制の紋章が刻まれ、扉ごとに鍵がついている。
「リィナ・アーデル。癒しの魔法を発現、純度A以上。登録番号、E-7712」
「はい、次。腕出して」
無表情の職員たちが、リィナの腕に刻印を焼き付ける。
鉄の器具が肌に触れた瞬間、焦げた肉の匂いが立ちのぼる。
「っ……あ……」
声にならない悲鳴が喉に詰まる。
痛みよりも、自分の体が“管理対象”になったという事実の方が怖かった。
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最初の夜、部屋に案内されたリィナは、その空間に絶句した。
ベッドはなく、薄い布団が一枚だけ。
窓はなく、天井の明かりは魔法灯で、外の時間すら分からない。
唯一あった家具は、鉄の洗面台と、排泄用の箱だけ。
ここが、“癒しの魔女”が住む場所だった。
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数日後、彼女は“試験”に呼ばれた。
豪華な部屋に通され、椅子に座らされたリィナの前に現れたのは、王国の第四王子だった。
年は十五かそこら。細い身体に、高慢な表情。
「……お前が“癒し”か」
「はい……」
「どれだけ癒せるか、試してやるよ。楽しみにしてたんだ。下々の女がどんなものか」
王子は指を鳴らす。すぐに扉が開き、兵士が一人、手首を切った状態で入ってきた。
血がポタポタと絨毯に垂れる。
「癒せ。失敗したら、お前の手首を切る」
リィナは手を震わせながら魔法を使った。
光が兵士の腕を包み、数秒で傷は塞がる。
王子は「ふん」と鼻で笑い、興味を失ったように言った。
「問題ないな。じゃあ、本番は今夜だ」
「……本番?」
「王家の血に“癒し”が混ざれば、もうお前みたいな平民は要らなくなる。光栄に思え」
意味がわからなかった。
でも、言葉の意味を理解したとき、背筋が凍った。
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その夜、リィナは部屋から連れ出され、湯浴みをさせられた。
手を洗われ、髪を梳かれ、薄い服を着せられる。
肌寒さよりも、自分が“献上品”として準備されているという感覚が、恐ろしかった。
案内された部屋は広く、薔薇の香りが漂っていた。
だが、豪奢な内装のどこにも安心感はなかった。
ベッドの上で、リィナは震えていた。
その横で、王子が笑っていた。
「泣くなよ。これが、お前の役目だ」
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朝になっても、太陽は昇らなかった。
部屋の中は明るかったが、リィナの目は曇っていた。
痛みも、怒りも、もう残っていなかった。
あるのは、ただの空っぽ。
“癒し”とは、人のためにあるものではなかった。
人を癒す力は、人を壊すために使われる。
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それから何度も“王家の部屋”に呼ばれた。
リィナが拒んでも、誰も止めなかった。
ただ記録を取り、身体を洗わせ、また次の夜を用意するだけ。
王族は笑い、周囲は黙っていた。
誰も、彼女を“人”として見ていなかった。
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そして数ヶ月後、リィナは妊娠を告げられる。
「おめでとう。王の血と癒しの魔力が混ざる……期待されてるのよ」
看護師は笑っていた。
リィナは、何も感じなかった。
希望も、喜びも、拒絶すら、もうなかった。
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子どもは生まれた。
けれど、リィナは抱くことも、触れることも許されなかった。
「赤子はすでに研究所へ。君はもう一度、体を整えるように」
それだけが伝えられ、また夜が来た。
出産から数日が経っても、リィナ・アーデルのもとに、子どもの姿は戻ってこなかった。
魔力抽出の準備があるから、今は預かっている――そう言われた。
その間、リィナは鉄のベッドの上で一人、眠れぬ夜を過ごしていた。
部屋には窓がなかった。
壁にかかる魔力抑制の紋章は、今も彼女の体を静かに押さえつける。
それでも、痛む体の中に宿るものは、確かに変わっていた。
“子を産んだ”という事実だけが、リィナをかろうじて人間の形に保っていた。
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最初の異変が起きたのは、産後十日目。
看護師たちの会話が、扉の隙間から漏れ聞こえてきた。
「魔力、抽出できたって」
「へえ、王家に継がせるのが先かと思ってたけど、案外早かったね」
「いや、もう“対象”の反応が落ちたらしいよ。たぶん、魔力壊れたんじゃない?」
「まさか……死んだってこと?」
「さあ。どうでもいいじゃない。あの子、もう“素材”だし」
聞こえた瞬間、体の中心にある何かが震えた。
扉の奥に飛び出して問い詰めることもできなかった。
足が動かなかった。
ただ、ベッドのシーツを握りしめるしかなかった。
……違う。違う。違う。
……私の子は、私の、あの……。
リィナは初めて涙を流した。
あの夜、何度犯されても泣かなかった彼女が、ようやく泣いた。
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その翌日。
監視兵が彼女に食事を持ってきた。
しかし、食事のトレーの上に、一枚の紙が置かれていた。
そこには、こう書かれていた。
『E-7712派生個体 No.1:癒しの魔力抽出実験により、反応停止。対象価値を喪失と判断し、廃棄。』
乾いた紙の中で、たった一文だけ、彼女の心臓を貫いた。
『対象価値を喪失』。
我が子が、名もなく、“対象”として、“価値”を失ったと記されていた。
死んだのではない。
“価値を失った”。
ただそれだけの理由で、もうこの世にいない。
母としての怒りも、悲しみも、彼女の中ではうまく発露できなかった。
代わりにこみ上げてきたのは――虚無だった。
視界が白くなる。
耳が遠くなる。
遠くで笑っている研究者たちの声が、くぐもった水の中のように聞こえた。
リィナは、膝を抱えて震えた。
気づけば、手のひらが汗で濡れていた。
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その夜、何かに突き動かされるようにして、自分の手を見つめた。
この手で、癒した。
この手で、治した。
この手で、助けた。
……だが、私は。
……私は、誰に癒してもらえた?
リィナは、右手のひらを自分の左腕に押しつけた。
魔法陣を思い浮かべる。癒しの術式。最も深く、根本に届く回復の呪文。
それを、全力で自分自身に放った。
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次の瞬間、肉が盛り上がった。
骨が軋みを上げる。血管が太く膨らみ、破裂し、筋肉が過剰に再生を始めた。
「がっ……あ、ああああっ……っっ!!!」
皮膚が裂け、腕が二重三重に腫れ上がる。
血が吹き出し、骨が中から押し出されるようにして皮膚を突き破る。
癒しの魔法は、“回復”ではなかった。
制御しなければ、細胞は狂ったように増殖を続け、やがて耐えきれずに爆発する。
リィナはそれを、ようやく理解した。
そして同時に、悟った。
――私のこの力は、“殺せる”。
“癒し”は優しい力なんかじゃない。
過剰な再生は、破壊そのもの。
私はこの力で、世界を壊せる。
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事故として処理されたその魔力暴走の後、リィナは地下の牢に移された。
すでに“使い道がなくなった”癒しの魔女として。
ただの廃棄対象として。
牢は暗く、冷たい。
食事は日に一度。会話はない。
唯一、毎日定時に監視に来る男だけが、彼女の名前を口にする。
「E-7712。死刑が決まったぞ」
その声に、リィナは反応しなかった。
ただ、目を閉じるだけ。
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処刑の日。
天気は晴れ。
王都の処刑場には、多くの貴族と市民が集まり、ざわめきと興奮が渦巻いていた。
罪状は「国家機密の破壊」「癒し魔法の暴走」「王子への危険性の懸念」。
誰一人として、彼女が被害者であることを語らなかった。
誰も、子どもの命を奪った研究者の名を口にしなかった。
正義の名の下に、リィナ・アーデルは“処分”されようとしていた。
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処刑台の上。
首に縄がかけられ、最後の言葉を求められたとき、リィナは初めて口を開いた。
「ねえ。知ってる?」
低く、淡々とした声だった。
「癒しの魔法ってね。使いすぎると、肉が破裂するんだよ。血管が潰れて、内臓が煮えて、骨が外から突き出てね……ぐちゃぐちゃになるの。私の子、きっとそうやって死んだんだよね」
群衆がざわめく。
処刑官が制止しようと近づく。
けれど、リィナは笑った。
心の底から――冷えきった、笑みだった。
「でも、いいよ。全部、終わるから。
だって、私は――」
――“また始めるから”。
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鐘の音が鳴る。
首が落ちる寸前、世界が光に包まれた。
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――そして、春の風が吹く。
草の匂い。子どもたちの笑い声。遠くから聞こえる母の声。
リィナ・アーデルは、十歳の自分に戻っていた。
弟が転んで、膝を擦りむいて、血がにじんでいる。
「大丈夫、治してあげるね」
……だがその手を、彼女は伸ばさなかった。
手のひらが震えていた。
その中には、癒しの光はまだ灯っていない。
リィナは、ただ静かに呟いた。
「……やり直し、か」
そして、誓った。
今度は、騙されない。
利用される前に、すべて壊す。
守るべきものなど、最初からない。
「……殺してやる。全部、全部」