第1話:癒しの才能
小さな村の朝は、早い。
まだ太陽が顔を出す前から、鳥の声が聞こえ、土の匂いが濃くなっていく。
屋根の上に薄く霧がかかり、遠くの森が幻想のように揺れていた。
リィナ・アーデルは、今日も母と一緒に洗濯物を干していた。
十歳になったばかりの少女。
黒髪に近い焦げ茶の髪をひとつにまとめ、母の背中を真似するようにして洗濯籠を抱える。
「リィナ、もっとしっかり絞らないと乾かないわよ」
「うん……」
毎日と変わらない会話。
けれど、リィナは今朝、自分の中で何かがほんの少し違っていることに気づいていた。
右手のひらが、ずっとじんわりと熱を帯びている。
何も触れていないのに、まるでそこに何かが宿っているような感覚。
心臓の鼓動に合わせて、じん、じん、と脈打つように。
「ねえ、お姉ちゃん!」
声が飛んできたのは、弟のユオだった。
駆け寄ってきたユオは、手を押さえてしゃがみ込んだ。
見ると、小さな棘が指に刺さっていた。
「いてぇ……!」
「ユオ、待って、動かないで」
リィナは思わず手を伸ばした。
その瞬間――
ぶわり、と。
指先から光が溢れた。
白に、うっすらピンクを混ぜたような、あたたかい光。
それがユオの指を包み込んだ瞬間、小さな棘は溶けるように消え、赤みも痛みもなくなっていた。
ユオが、ぽかんとした表情でリィナの手を見つめる。
それを見ていた母も、目を丸くしていた。
「……リィナ、それ……魔法……?」
「わ、わかんない。手が、勝手に……」
ただ、リィナは感じていた。
この力は“願い”によって生まれた。
弟が痛そうにしていたから、ただそれを“治したい”と思っただけ。
その夜、村に“魔力測定の使者”が現れた。
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「これが……癒しの魔法だと?」
「この子が発現させたのか。血統は?」
「平民……だと? 本当に?」
調査官たちが家に入ってきたのは、その日の夕方だった。
彼らはリィナの手を検査器にかざし、いくつかの呪文を唱え、光の反応を確認した。
「間違いない。“癒し”系の純魔法。それも……かなり純度が高い」
「これは報告ものだな。すぐに王都へ連絡を――」
それだけ言って、彼らは足早に立ち去った。
何も知らされないまま残されたリィナは、不安と緊張で手が震えていた。
その日から、両親の態度が少しずつ変わっていった。
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父は畑仕事に出かけるのをやめ、家の中で何かを数えていた。
母は珍しく笑顔が多くなり、料理が豪華になった。
そして夜になると、両親は小声で話し合っていた。
「癒しの魔法だって……本物みたいよ」
「王都の者が視察に来るほどだ。きっと……そうだな、今ならまだ高く売れる」
「売るって、そんな……!」
「“預ける”だ。教育のためだろう? 貴族の子と同じ施設で学べるんだ。運がいいじゃないか」
“預ける”――その言葉に、リィナは胸の中に冷たいものが這い上がるのを感じた。
村の大人たちの目が変わったのも、この日からだった。
「リィナちゃん、すごい魔法を持ってるんだって?」
「国の宝だよなあ。平民から出るとはな」
「まあ、もともとこんな田舎にはもったいない子だったんじゃないの?」
まるで、もうこの村の人間ではないかのように。
まるで、どこかへ“献上”されるのが当然だとでも言いたげな眼差しだった。
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そして数日後。
その馬車は、本当にやってきた。
黒塗りの豪華な車体。王国の紋章が入った制服の兵士たち。
誰もが一目で分かる“選別”の印。
父が笑っていた。
母も笑っていた。
家の奥には、見たことのない金貨が詰まった袋が五つ。いや、六つ。
「よかったわね、リィナ。今日からあなたは、本当の魔導士になれるのよ」
「誇りに思ってるぞ。王都に行って、お前の力をちゃんと活かしてもらうんだ」
リィナは、何も言えなかった。
否、言葉を持っていなかった。
笑うしかないのだ。泣いたら、全部が崩れてしまいそうだったから。
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その夜、荷造りを終えて布団に入ったリィナは、眠れぬまま天井を見つめていた。
うすい壁の向こうから、両親の声が聞こえてくる。
「……本当にあの子、癒しの魔法なんて持ってるなんてね」
「まさかだよな。これで一生安泰だ」
「貴族の子どもでも産めば、正式に取り入れてもらえるかも」
「ま、どうせしばらく戻ってこないだろ。いなくても困らんしな」
リィナは、布団をかぶった。
暗闇の中で、自分の手のひらを見つめた。
この手が、癒した。
この手が、奪われた。
この手が、これから――“使われる”。
まだ何も知らなかった。
けれど、この日、リィナ・アーデルの“人間としての人生”は、確かに終わった。