悪意
曇天の下、朱音は絶望感とも無力感とも形容し難い気持ちで教室から窓の外を見つめていた。昼休み後の古典の授業は眠たく、ウトウトしている人も多い。この女教師は自分の話が聞くに耐えない話であることを自覚していないのだろうか。この程度の授業内容で聞いていない人がいたら説教できるというのも、大した自信というものだ。
朱音がこの高校に入ってからというもの、良いことが無かった訳では無い。吹奏楽部の先輩はほとんど皆優しく接してくれるし、厳しい時があってもそれは人を思う気持ち故だと分かっている。大会で結果が残せた時は嬉しかったし、それを分かち合う仲間もいた。
家庭も理想とまではいかなくとも、平均以上の家庭だという自負はある。これは経済的な面だけの話ではない。束縛が強すぎる両親の元に生まれたらどれだけ大変か、周りの人間を見ればよくわかる。それに比べたら内の両親はマシな部類だろう。勉強しろと言われることはあるが、スマホを持たせて貰えないとか、外出禁止とか過度な束縛は無いのだから。
いじめられている訳でもない。人の悪意を感じることはあっても、それがずっと続く訳ではないし、良い人間も悪い人間も結局は自分の捉え方次第で変わるものなのだと分かっている。
しかし時折内から湧き上がってくる、この破壊衝動は何なんだろうか。
人の悪意を感じた時、それが例え小さなものであっても、自分が尊重されていないと感じた時、この世の全てを破壊したくなるのだ。
「良いですか皆さん。る・らるには自発・尊敬・可能・受け身の4つの意味がありましたよね。それでは、心情語の後にる・らるがきたら、この4つの内どれになりますか?じゃあ、結城朱音さん。」
「えっ…」
朱音は中年の女教師に当てられるまで、自分が授業中に話を聞かず、外を見ていることで反抗したつもりになっていた。しかし、実際に教師に当てられて答えられないと、途端に猛烈な恥ずかしさに襲われた。反抗したい気持ちはあるけれど、いざ当てられると、この授業に何の意味があるんですかとか、言いたいことがあっても何も言えなくなってしまう。教室の全員が私のことを馬鹿にしているみたいだ。皆が敵に思えてくる。
「ちゃんと人の話を聞きましょうね〜」
ああ、よく分かる。こいつは適当に当てたんじゃない。私が聞いていないのを見つけて、嫌がらせのために当てたのだ。答えられないことを分かって、皆の前で恥をかかせたかったのだ。悪意だ。悪意がある。教師の役割は教えて導くことだ。しかし、この一瞬、奴は教師では無かった。一人の人間として、自分の話を聞かないムカつく人間を貶めるためだけに当てたのだ。それは教師の行いではない。自分の欲求を満たすためだけに私に恥ずかしい思いをさせたのだ。
大人からしてみれば、そんなの気にし過ぎだというのだろう。でも関係ない。私はこの世界に生きている。この世界に生きている私が不快に感じ、この悪意を、悪意を発する人間を消し去りたいと感じたのだ。この程度の悪意を相手にしていたら生きていけない?知るか。そんなこと。私が不快に感じた。それが問題なのだ。この小さな世界に生きている私にとって、この世界が全てであり、この世界で私が辱めを受けることは私にとって何より辛いことなのだ。こいつをズタズタに引き裂いてやりたい。
朱音が再び窓の外に目をやると、先ほどよりも空がかなり暗くなっていて、まるで夜みたいだった。外が暗く、教室の照明が明るいせいで窓ガラスに反射した自分がはっきりと見えた。するとなぜだろう、そんなことあるはずがないのに、自分の手がワシのように鋭利な鉤爪を持っているように見えた。
朱音が慌てて直接自分の目で手を見ると、今度は人間の手だった。きっと疲れておかしくなっていたのかも知れない。今自分は人間の手で普通にシャーペンを握っている。ちゃんと、女子高生の手入れが行き届いた可愛い手だ。大丈夫。あんな悍しい鉤爪のついた手なんかじゃない。
でも、もし自分が本当にあんな巨大な鉤爪を持っていたら、ムカついたやつを全員引き裂いてやれるな…。
自分はなんて暴力的な妄想をしているんだと思いつつも、しばし妄想を膨らませた朱音は、悪い気分では無かった。
二日後、再び古典の時間。
この時間は苦痛以外の何物でもない。勉強自体が嫌いな訳ではないけど、興味のないことをやらされるのは苦痛だ。自分にとって興味のないことでも、楽しそうに話してくれるならまだ良い。でも、この赤い眼鏡をかけた中年の女教師は、違う。こいつがここにいるのは、古典が好きだからとか、子供が好きだからとかでは無い。こいつは公務員という安定した職が欲しいだけで、自分が生活できれば何でも良いのだ。そういう存在は生徒からしたら害でしかない。
そして、こいつは自分が不快に感じたら、その不快さの元凶を辱めてやろうとする下劣な人間なのだ。なぜ人間には、聖人のように高尚な人間もいれば、こんな低俗で下劣な人間がいるのだろうか。この年になって、そんなことをして恥ずかしいとは思わないのだろうか。教員全てが悪い訳では無いと分かっている。しかしこの女は、何というか、不快さの塊なのだ。この女の一挙手一投足全てが不快だ。一定のスキルはあるだけに、周りの評価は悪くは無いのだろう。だが、こいつの本質は、本当に下らないものだ。
朱音は前回の授業で辱められたことを思い出すと、恥ずかしくなったが、今は憎しみの方が強くなっていた。
そうこうしている内に、授業が始まった。授業はいつも通り、教師が面白い話をして生徒のドカ笑いが起きることもなく、あまりのつまらなさにキレる生徒が出る訳でもなく、至って平穏に進んだ。
「〜はい、という訳で、る・らる・す・さす・しむ・ず・じ・む・むず・まし・まほしというのは、理屈抜きでリズムで覚えるのが良いです。おさかなくわえたのらねこ〜おーかけって〜のリズムで歌にしてみるとよく覚えられますよ。それでは、これを歌のように歌って頂きましょうか。じゃあ、佐々木美瑠さん。」
ん、歌う?この人数の前で歌うだと?こいつ本気で言っているのか?音楽のテストで皆の前で歌うことは稀にある。あれも地獄のような時間だが、これは違う。急に当てられて皆の前で歌を歌わされるなんて、信じられない。しかも佐々木さんは大人しいし、とても人前で歌えるようなタイプじゃない。なんでこんなこと急に言い出したんだこいつは。
その時、朱音は女教師の瞳に濁ったものを見た。悪意だ。悪意がある。恐らく、佐々木さんは退屈すぎて寝てしまったのだろう。それも仕方無い。こんな中身のない授業でシャキッと起きられる方が不思議だ。それを見つけたこの教師が、また辱めるために当てて、皆の前で歌わせて辱めてやろうと思ったのだ。佐々木さんがそんなことできないことを分かってわざとやったのだ。これは教育なんかじゃない。ただの憂さ晴らしだ。佐々木さんはいつも真面目で勤勉な人だ。でも、この授業には流石に耐えられなかったのだろう。睡魔に負けてしまったのだ。いや負けるという表現もおかしい。寝たって良いじゃないか。こんな授業。いつも真面目でひたむきに頑張っている佐々木さんが、この低俗な人間の辱めを受けることが朱音はたまらなく悔しかった。
怒りで前が見えなくなった朱音は、気持ちを落ち着けようといつものように外を見た。昼過ぎだというのに、外は再び真っ暗になっていた。
そして窓ガラスに反射した自分の姿を見て、朱音は時が止まったかのように困惑した。
今、目の前に化け物が映っている。窓ガラスに反射して見える自分は、自分ではない。化け物だ。ワシのように鋭く、しかし、圧倒的に巨大な鉤爪。悪魔のように光る大きな鳥のような目。狼のように鋭く長い牙。そして全身が黒か濃い紫のような毛で覆われている。化け物が椅子に座っている。自分を落ち着かせようと、前と同じように直接自分の目で手を見てみた。しかし、今度は自分の目で見てもやはり化け物の手だった。巨大な鉤爪を持った化け物が教室にいる。これは本当に私なのだろうか。周りを見渡してみても、皆佐々木さんの方を見ていて誰もこちらの様子に気づいていないようである。佐々木さんは恥ずかしくて歌うことも出来ず、しかし自分の気持ちを素直に伝えることも出来ず、ただ立たされて固まってしまっている。
世界には戦争を経験する子供や貧困に喘ぐ子供がたくさんいることは知っている。それに比べたら、この恵まれた国で、教師に少し悪意を向けられただけで、殺してやりたいと思うのは傲慢かもしれない。しかし、彼女にとってこの経験は人生の中でも最も屈辱的な経験の一つになるだろう。今、彼女は信じられないストレスを感じているに違いない。いつも頑張っているのに、少しだけ寝てしまって、揚げ足を取られるように歌を歌えと言われたのだ。しかしどうすることも出来ず、ただ立っているしかない。こんな屈辱があるだろうか。高校生にとって学校はとても大きなもので、世界の全てなのだ。その世界でこんな悪意を向けられ、辱められて、なんて可哀想なんだろう。
彼女はもう自分でこの状況を打開することは出来ないだろう。この教師を八つ裂きにしてやりたい。朱音は、思考が化け物に支配されていくのを感じた。しかし抗うことなく、それを受け入れた。
次の刹那、その化け物は床が割れる程の踏み込みで飛び出し、一瞬の間に教師の胸を鉤爪で引き裂いた。




