運命の日
「う~ん。まさか……ね」
エリュはそう呟いてから、廊下の方に顔を覗かせた。フィーネの姿がないことを確認して、エリュは廊下に出た。
「女神から才能を貰ったんだから、才能がないわけないよね。お姉ちゃんはあんなこと言ってたけど、魔法の勉強しよう。今日みたいに危ない状況で震えるだけじゃ嫌だし」
そう言って、エリュは反対側の廊下の突き当たりにある書庫の前へと移動した。
「ここが確か書庫だよね……」
その部屋のドアは他の部屋よりも豪華な装飾が取り付けられていた。これまでのエリュは、書庫自体にあまり興味を持っていなかったようで、眼の前の部屋が書庫であるという確信は持てない。
「まぁ、自分の家だし、勝手に見てもいいでしょ」
そう言ってエリュはドアノブを掴むと静かにドアを押し開ける。ギギギ、と油の刺さっていないようなドアの軋みが響く。そこからわずかに開いた隙間に顔を突っ込んで、エリュは部屋の中を覗いた。
部屋の中には、数十冊の本が詰められた本棚がいくつも並んでおり、古臭い本の匂いに満ちていた。
「やっぱり、ここか」
エリュは開いた隙間に体をねじ込み、書庫に侵入した。
「さてと……魔法に関する本は~」
本棚に並べられた本を丁寧に確認する。上の方にある本はぴょんぴょんとジャンプしながら装丁を確認し、下の方の本は少しかがんで確認し、ゆっくりと一つ目の本棚を確認し終えた。
「う~ん。ここにあるのは歴史書かな。ちょっと気になるけど、まぁ、あとでいいや」
エリュは場を仕切り直すように手を叩くと、隣棚へと目を滑らせた。
「魔法魔法~っと」
呑気な声を出しながら、ぴょんぴょんと飛び、棚の上の方から下まで一通り確認する。隣の本棚と違い二つ目の本棚には、毛色の違う怪しげな本が陳列されていた。
その中で、妙に豪華な装丁をした本にエリュは目をつけた。
「ん? アイシュタルクの魔導書……ね」
装丁に書かれたタイトルを読み上げながら本を手に取ったエリュは著者を確認する。
「ガレン・アイシュタルク……自分の苗字を本のタイトルにしたの?」
ぽつりと呟きながらエリュはパラパラと本に目を通す。
中には図や解説が丁寧に記載されており、魔法についての知識がないエリュでもしっかりと読み込めば理解できそうな内容になっていた。
本のタイトルに自分の名前を入れ込むような人物が書いたとは思えないほど、良い本なのは軽く目を通しただけで分かる。
作者は魔法について随分と造詣が深いようだ。
「最初の本はこれにしようかな」
エリュは開いた本を閉じると、脇に抱えて部屋を出た。
そのままフィーネがいないか左右を確認してから自室へ向かう。
自室に戻ったエリュは、ベッドの上に腰を下ろし、本を開いて一ページ目に記載されている内容を読み上げた。
「え~まず、紙とペンが必要です。……そうなんだ。どこにあったっけな~」
エリュはベッドから立ち上がると、窓際に置かれた机へ向かう。
机には無造作に羽ペンと羊皮紙が置かれており、それらを手に取ったところで、エリュの視線は窓の外へ向いた。
部屋の窓からは、アドミス家の管理するリュナン農場が見える。両親が死去し、誰にも手をつけられていない農場は、すっかり荒廃していた。
それに対して、心中には寂しさが込み上がってくる。だが、具体的なエピソードが思い出せるという訳ではない。それはエリュが幼かったからなのか、それとも記憶の統合に失敗し、消えてしまったのかは分からない。それでも寂しさだけは確かに感じていた。
「はぁ。知ってるのに知らない。寂しいのになんでか分からない。変な感じだなぁ」
そんなことを呟きながらエリュは窓枠に手を掛ける。
すると家の真下、リュナン農場を囲う柵の上に、十代前半から中盤程度の少女が腰かけているのが見えた。上からでは、あまり顔は見えないが、髪が薄桃色であるのは確認できる。
どうやら読書中のようで、手元には本が握られている。その本の見開きのページには、魔法陣が描かれており、どうやら魔法に関する本を読んでいるようだった。
「魔物が襲撃に来たばっかりなのに、危ないなぁ。なんでうちの裏にいるんだろ」
エリュは窓を開けると、大きく息を吸い込んだ。
「ねぇ! 君。そこにいると危ないよ! さっき魔物が襲撃に来たんだ」
かなり声量を張って伝えたのだが、本に夢中なようで気がついていない。一瞬、こちらを向いたような素振りは見せたが、すぐ本に戻ってしまった。
「仕方がない。直接話に行こう。それに、魔法について詳しそうだし、色々教えてもらえるかも」
エリュは、羊皮紙と羽根ペンを魔導書の間に挟み本を抱えて家を出た。
家の外では、襲撃に来た魔物の遺体やけが人の手当てで住人たちが忙しなく動いている。だが、空気感から死者はでていないように感じた。
そのことにはホッと安堵しながら、エリュは家の裏手へと移動する。
大きな家なので、家の裏手に出るまでに大きく半周する必要があり、そこまでの間、エリュは大人たちに見つからないように慎重に移動した。
そして、リュナン農場がある側の曲がり角を曲がった瞬間、心臓が強く跳ねた。
視線の先には、先ほど二階から見た少女の姿があった。近くで見ると、上から見たのとは別の印象を受ける。
「…………綺麗だ」
桃色の髪は、春の花びらを束ねたかのように、柔らかく風に揺れていた。均整の取れた顔立ちは、まだ幼さを残りながらも美しさを湛えている。トパーズを埋め込んだような金色の瞳は静かに澄み渡り、はかなげで吸い込まれるような透明感がある。
春の日差しに照らされた彼女には、目を奪われるような美しさがあった。
呼吸するだけで、その場を舞台にするような圧倒的な魅力と同時にそこには儚さが存在している。触れてしまえば割れてしまうようなガラス細工のような存在感は、エリュの視線を釘付けにした。
心臓が激しく鼓動を鳴らす。
少女を見た直後から、以前のエリュが「動きだせ!」急かしている。衝動というよりも衝撃と言った方が良いほどの力でエリュは前に進んだ。
そして、少女のすぐ近くまで歩いた時、エリュは双眸から暖かい液体が伝っていることに気がついた。エリュは手の甲で液体を拭う。
「なんで……ゴミでも入ったかな」
そう言って、再び少女を見た。
すぐそばにいるというのに、彼女はまるでこちらに気がついていない。
「ねぇ。君?」
──反応なし。
少女は石像のように微動だにしない。
「あの~?」
──反応なし。
少女はショーケースに飾られたマネキンのように動かない。
「もしも~し」
エリュは少女と彼女が読んでいる本の間に手を入れると、軽く振った。
その瞬間、少女はびくっと身体を揺らし、ようやくこちらを見る。
「っ──!!」
少女はエリュを見た途端、瞳を大きく見開き数秒間沈黙した。なにやらエリュを知っているような反応だ。だが、エリュの方は彼女を知らない。もちろん、過去の記憶を探っても彼女に関する記憶は一切存在していない。
「ねぇ。君。俺のこと知ってるの?」
「…………」
少女は言葉を返さない。それどころか、無言で開いていた本の方へと視線を戻した。
「え? あの──」
戸惑うエリュ。
しかし、少女は反応しない。
「……ひょっとして、じゃなくても無視してる……よね?」
無視をされる寂しさに打ち勝ち、エリュは言葉を放った。
だが、その言葉にも反応はない。それでもエリュは、畳み込むように口を開く。
「ここで何をしてるの?」
「…………」
「だめ……か」
普通、ここまで無視されれば、大半の人ならば帰るだろう。
しかし、エリュは意地になっていた。
絶対に会話をするという固い意思を持って大きく息を吸い込む。
「ねぇ!! き・こ・え・て・る⁉」
「……うるさい! 聞こえてるッ!」
今までこちらを見もしなかった少女が突然、凄まじい剣幕でエリュの方を向いて叫んだ。それを受けたエリュは、ビクッと体を震わせた。