8. 金魚ー前編ー
テレビを消し、ベランダに出て空を見上げた。透き通った青い空が悠々と広がっている。
「そっちでは、元気にやってるか?」
澄んだ青空を見ると、時々思い出すことがある。
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ある夏の日、近所の子供からお祭りですくった金魚を4匹押し付けられてしまった。仕方がないので家に持ち帰り適当な桶に水を張って入れると、翌日には3匹死んでしまい、1匹だけが生き残った。その子には長生きして欲しいと思い、「小金丸」と名前をつけて育て始めた。
夜店の金魚は死にやすいと聞く。無理もない。いきなり訳の分からない場所につれてこられ、すくいに追われて逃げ回る。だから大抵弱っていて、すぐに死んでしまうことが多いのだ。小金丸も1週間もすれば死んでしまうだろうと思っていたが、そのころには元気に泳ぎ回っていた。
いつまでも桶では可哀想なので、小さめの水槽を買い玄関の下駄箱の上に置いた。家を出る時、帰ってくる時、いつも小金丸と挨拶を交わすようになった。また、餌をあげる直前にトントンと水槽を叩くと、水面に近づいてきて口をぱくぱくとさせてくる。僕に少し慣れてきたのだろうか。観察しているうちに、愛着が湧き始めた。
夏場だからか水がすぐに濁るので頻繁に交換した。その際に金魚用のすくい網ですくうのだが、網を持ち上げた瞬間にぴちぴちと暴れている姿を見るのが可哀想だと思った。そこで手で器を作り、すくいあげてやることにした。飛び跳ねて逃げ出すかと思ったが、僕の手で作った水たまりの中で、じっとしている。
小さな命だが、可愛らしい。
そう思った瞬間、いきなり機敏に動いたので急いで綺麗な水に移してやった。
僕はその移し方を気に入って、水槽の水を換える時はいつもそうした。最初、小金丸は落ち着かない様子だったが、何度かこなすうちに慣れてきたのか、逃げずにじっとするようになった。それに心なしか水槽に近づく度に僕をじっと見ている気がする。相手は金魚だが、絆ができているような気がした。
指で水槽をつつき、「小金丸、元気か?」と話しかけると、返事をするように僕の指の後をついてくる。
懐いてくれている。
そう思うと、嬉しい気持ちになった。
小金丸を育て始めてから半年が経った。仕事が繁忙期に入ってしまったことに加え、苦手な女性の上司とペアで仕事をする羽目になってしまい、心身共に疲れ果てていた。家に着く頃には玄関で眠ってしまおうかと思う時がよくあった。
その日も帰宅すると夕食を取る時間はとっくに過ぎており、軽くシャワーを浴びるとすぐにベッドに横になった。そこで夢を見た。
僕は暗い夜空の下を吹く風になっていた。しばらくすると、どこからか「カン・・・カン・・・」と音が聞こえてくる。音の方へ近づくと鬱蒼とした森が見え、森に隠されるように真っ赤な鳥居があった。鳥居の奥には境内があり、裏手には大きな木が一本だけ生えている。その木の下で白装束の女性が何かを打っていた。
カン・・・カン・・・
嫌な予感がした瞬間、僕の上に何かがのしかかって来た。その何かは、足から腹、腹から胸の上へとゆっくりのぼって来る。体を動かすことができず、どんどん息が苦しくなる。このままでは顔まで来てしまう。
見てはいけない・・・!
そう思い、ぎゅっと瞼を閉じると、急に胸が軽くなった。「あれ?」と思い、おそるおそる目を開けると・・・
家の玄関に立っていた。いつの間にか昼間になっていて、振り返ると下駄箱の上に金魚の水槽があった。オレンジ色の小さな金魚が泳いでいる。
「小金丸。」
そう呼びかけると、小さなヒレを動かして小金丸が水槽の端に寄って来た。人差し指で水槽に触れようとすると、いきなり小金丸が大きく飛び跳ね、宙を泳いだ。驚いて見ていると、僕の顔の近くを悠々と泳いでいる。可愛らしいから撫でてみようと、手を伸ばした。
ーー瞬間、小金丸に黒い影がぶつかり弾き飛ばされた。
あっという間の出来事だった。床に落ちた小金丸を見ると、鮮やかなオレンジ色だったのに黒色に変わっていた。苦しそうに何度も飛び跳ねている。
助けなくては・・・!
そう思った時、目が覚めた。
僕は自分のベッドの上にいた。「変な夢を見たな」と思い、時計を見ると6時を指していた。朝食を食べ出掛ける準備を済まし、玄関へ向かう。水槽を見ると・・・
小金丸が水面に浮き、動かなくなっていた。
慌てて駆け寄り、指で何度も水槽を叩いた。しかし、小金丸が泳ぎ出すことはなく、コンコンとガラスを叩く音が虚しく響くだけだった。