03:雀のヒト
もはや点滴の針を抜く気力さえわかない。そんな私を見て、山羊の頭をした主治医はこんな提案をしてきた。
「気分転換に、中庭に行ってみたらどうかな?」
私の意思など関係なく、車椅子に載せられ中庭へと連れて行かれた。エレベーターに乗り、大勢の人がいる一階へと出る。
(寒い)
閉鎖病棟の中は常に温かく、今の季節が秋から冬へ移ろう時期であることさえ忘れていた。看護師は私に何か話しかけながら車椅子を押していく。正直、何を言われても耳を通じて通り過ぎていくだけだった。
このときの私は、自分が世界で一人だけ取り残された人間であり、一人ぼっちで可哀想。この呪われた世界から開放されたい、そう思い込んでいたのだ。今思うと、妄想の症状が出ていたのだろう。医師も母も後遺症としか言わなかったが、後に「統合失調症」であると告げられることなど、今の私は知る由もない。
中庭について、冷たい外気に身体を震わせた。天上から注ぐ太陽の光が眩しい。すんと鼻を嗅ぐと、ほのかに緑の匂いがした。懐かしささえ覚えて、しばらく中庭に設置されている木々を見つめていた。
「こんにちは、見ない顔だね」
眼の前に、雀の頭をした人が立っていた。ずっと不気味な頭ばかり見ていたので、その愛らしさに思わずくすっと笑ってしまった。
「ん? 俺なにか変なこと言った?」
声からして、若い男性のようだった。彼の近くに看護師がいないということは、開放病棟か、普通の病気の病棟の人間なのだろう。
「ううん、違うの。おかしいのは、私だから」
男性は首を傾げ、私の付き添いの看護師に話しかけてから向こうへ行ってしまった。
(初めて、会話ができると思ったわ)
ずっと怖かった。どうしてその生き物の頭なのか理由もわからない。実は心根が悪い人ほど見にくい生き物になっているのだろうかと考えれば、よけいに信用できないし、恐怖が募る。
(お母さんらしきヒトも、雀だったらよかったのに)
もしそうだったら、まだ話ぐらいはできたかもしれない。だが、母は角をはやした鳥という、神話に出てくるような化け物の頭をしており、まったく信頼できない。疑心暗鬼の鎖が、私の全身どころか首を締め上げていた。
「これ、よかったらあげるよ」
先程の雀の男性が戻ってきて、缶コーヒーを渡してくれた。
「え、あの」
「無理して飲まなくてもいいよ。突然知らない人からもらっても怖いよね。温かいからさ、カイロ代わりにしなよ」
「あ、ありがとうございます」
ずっと胃に何も入れていない状態で、いきなりコーヒーなど飲めるはずもなく。私は言われたとおりに缶コーヒーをぎゅっと両手で握りしめた。
(あったかい……)
頭上で看護師が「よかったねぇ」と言っているのが聞こえた。おそらく、先程の会話は自分が購入した缶コーヒーを私に渡してもいいのか許可を取っていたのだろう。
男は太い指で缶コーヒーを開け一気に飲み干す。雀がコーヒーを飲んでいる……なんともシュールな光景だ。じっと見つめていると男は小首を傾げた。
「俺の顔に何かついているのか?」
「さぁ……」
「さぁって」
「私、人の顔を人間と認識できないんです」
「は?」
言ってからはっと両手で口元を抑えた。手からこぼれ落ちた缶コーヒーが音を立てて転がっていく。男は驚いたが、じっと私の言葉を待ってくれた。
「……すみません」
「……言いたくなきゃいいよ、別に」
「……ごめんなさい」
じわぁと目尻に涙が浮かぶ。私は人に伝える事ができない病気になってしまったのだと実感してしまったのだ。
泣き出した私を男は困ったように首の後ろをかいた。そして立ち上がり、転がっていった缶コーヒーを拾う。
「……ここは病院だから、色んな症状の人がいるよ。自分はそのうちの一人だ、って思えば楽になるんじゃないかな」
だから、謝るな。そう言って私の手に缶コーヒーをもたせると、去っていった。きっと泣き続ける私に呆れたのだろう。
(だけど、涙が止まらないの)
ずっとこんな風に、怒りも絶望も悲しみも混ぜて泣きたかったのかもしれない。動かなかった涙腺は刺激を受け、涙が堰を切ったようにとめどなく流れ続ける。
(こんなことなら、事故で死ねばよかったんだ。生き残ってごめんなさい)
看護師は私が泣き止むのをじっと待ってくれた。ひとしきり泣いて、鼻水をすすりだした頃、看護師は何も言わずにハンカチを渡してくれた。
(泣いたら、ちょっとスッキリしたかも)
冷たくなってしまった缶コーヒーをぎゅっと握りしめ、重たく沈んでいた心がほんの少しだけ浮かび上がったような気がした。