さらに続……人と話せるキツネに叱られた。
終業時刻を過ぎた、午後6時頃。
いつもは仕事を終えたらすぐ帰宅するんだが、その日は職場の敷地内にある庭園に足を運んでいた。
俺が働いている浄水場が所有し、管理しているこの庭園は、5月の今の時期には一般開放もされる。しかし開放時刻は夕方4時までなので、今は人の姿はない。木々が揺らぐ音や虫の鳴き声、それに近くの道路から聞こえてくる自動車の走行音……取るに足らない環境音だけが、辺りを満たしていた。
青々と生い茂った雑草や、アスファルトで舗装された歩道の上に、淡い桃色をした桜の花弁が散乱していた。
それは毎年のように目にする、春の恒例ともいえる光景。
去年の今頃も俺はこの庭園を訪れ、庭園内に舞い散った桜の花弁を眺めたものだった。
――だけどあの頃、まさか来年の今頃には、親父がこの世を去っているだなんて……夢にも思わなかった。
「ふう……」
俺は、庭園のベンチに腰を下ろした。
意味もなく空を見上げてみる。数羽のカラスが鳴き声を上げつつ、夕焼けに染まった空を横切っていくのが見えた。
ぼんやりとしていた時だった。
「くあっ」
――よう。
甲高い鳴き声に振り返ると、キツネがこちらに歩み寄ってきた。同時に、そいつの言葉が俺の頭の中で翻訳される。
俺は無言で片手を上げ、応じた。
キツネは俺から数メートル先の位置で止まり、草の上でお座りの姿勢をした。
「くあっ」
――最近お前の姿が見えなかったから、心配していたぞ。
また、キツネの言葉が俺の頭の中で翻訳される。
こいつは人と話せるキツネで、俺の友達だった。
「ああ。ちょっと事情があって、1週間ほど休んでたからな……」
俺は応じた。
自分でもわかるほどに、覇気に欠けた声だった。
キツネは少しのあいだ、俺の目をじっと見つめ続け、
「くあっ」
――どうした?
そう問うてきた。
人と意思疎通ができるだけでなく、彼はとても利発で賢いキツネだ。どうやら、俺が何かを抱え込んでいると感づかれたらしい。
「いや、ちょっとな……」
俺は渋った。
親父の死を打ち明けるべきか、わからなかったのだ。
「くあっ」
――俺でよかったら、相談に乗るが。
でも、キツネのその言葉で決心がついた。
話す相手は誰でもよかったし、俺にとって彼は間違いなく、大切な友達だったのだ。
「親父が……亡くなったんだ」
草木の匂いを内包した風が吹き、庭園に林立した桜の木がざわめく。
キツネは何も言わなかった。しかし俺の言葉は届いていたらしく、かすかに表情を変化させた。
「去年の11月あたりだったよ。母さんから電話が掛かってきて、親父が肺がんで入院したって聞かされて……医者からは、余命3ヵ月って宣告されたんだ」
実家を出て自活し始めてから、母さんと電話越しに話すことはたびたびあった。
だけどあの時の母さんの声は、元気がなくて、涙が混ざっていて……何かよくないことがあったのだと、すぐにわかった。
先月までは元気にしていた親父の、突然の入院。さらには余命3ヵ月だと聞かされた時、急すぎる話に、頭が真っ白になったのを覚えている。
「くあっ……」
――その頃から、だったな……なんとなくだが、お前の様子がおかしいと思っていたんだ。
庭園のどこかを見つめながら、キツネは言った。
あの時は冬の時期だったから、この庭園にはあまり来ない。でも退勤間際にはしばしば、俺はこのキツネと顔を合わせていた。
ほんの数分程度ではあったものの、会った時はとりとめのない話をしたもんだった。親父の話はしていなかったんだが、どうやら俺が何かを隠していることはお見通しだったらしい。
お座りをしたまま、キツネは今一度俺と視線を重ねた。
「くあっ……?」
――肺がんということは、症状が出た頃にはもう……?
俺は頷いた。
「ああ……もう骨とか脳にも転移があって、手術は無理な状況だった。親父に残された道は、抗がん剤治療だけだったんだよ」
調べてみてわかったことなのだが、肺がんの多くは初期段階では無症状。咳や息苦しさなど、自覚症状が現れる頃には病状が進行してしまっていることが多いそうだ。
母さんの話によると、親父はまず近所の内科を受診した。そこからの紹介を受けて大病院でもう一度検査し、肺がんであることが発覚したそうだ。その時にはすでに段階はステージ4……いわゆる、末期がんだったらしい。
父親に下された、突然の余命宣告。俺はもう、現実を受け入れられなかった。
でも、親父はもっとショックだったはずだ。
「悪い夢であってほしかったよ。でも何度目覚めても……現実は変わらなかった」
キツネが、沈痛な面持ちを浮かべた。
「くあっ……」
――何と言えばいいか……残念だ。色々と大変だったろう?
キツネの言うとおりだった。
彼の言葉を聞くと、胸に押し留めていたものがどんどん込み上がってきて……俺は俯くように視線を下げた。
「抗がん剤は決して万能じゃない。使えばたちまちがんが消えてなくなっちまうような、そんな都合のいいもんじゃない……むしろ、副作用で逆に命を縮めることにもなりかねない。先生はそう言ったんだけどさ、親父は『やる』って即答したんだよ。きっと、少しでも可能性があるなら、賭けたかったんだろうな……」
治療をやめて退院し、残された時間を自宅で家族と一緒に過ごす。
その選択肢も存在していたんだが、親父は一片の迷いもなく抗がん剤治療を選んだ。
何も考えずに出した結論ではなかったはずだ。黙って死を待つくらいなら、生きるために戦うことを望んだんだと思う。そうじゃなければ、相当な苦痛を伴う抗がん剤治療を受ける覚悟なんか、絶対に持てやしない。
親父の選択を、俺は支持した。
俺にできることなんかたかが知れてるだろうが、それでも力になりたいと思った。
「どうにか元気になってほしかった、奇跡が起きてほしかった……だけど、ダメだったよ。一時は小さくなったがんも、抗がん剤の作用を上回るスピードで進行しちまってさ、親父の調子もどんどん悪くなっちまって……中断せざるを得なくなっちまった」
気づいた時には、職場の同僚や上司にも話していないことを語っていた。
――もう、お父さんには抗がん剤は打てないって、先生に言われちゃったよ。
親父を病院に連れて行った母さんからそのメッセージを受け取った時、重苦しい絶望が身に圧し掛かったのを覚えている。それは、もう打つ手がないということと同義だったからだ。
悲しかったし、悔しかった。
医者は何のためにいるんだ、医療は何のためにあるんだ……筋違いだと理解していても、そう思わずにはいられなかったんだ。
「くあっ……」
――弱っていく親父さんを見ているのは、辛かっただろうな……。
キツネの言葉に、俺は頷いた。
当初は入院しての治療だった親父は、通院しながらの治療に切り替えるために一度退院した。しかしそれから2か月も経たないうちに、足の感覚がなくなったと訴え、自力で立ち上がることもできなくなってしまったのだ。
母さんが救急車を呼び、親父は再入院することになった。
呼吸器内科に入院していた親父は緩和ケア科に移り、それからはもう、悪くなっていく一方だった。緩和ケア科は、そもそもがんの根治治療を目的とする場ではない。
酸素吸入チューブを鼻に繋がれ、指先に血中酸素濃度計を装着され、寝たきりになった親父の姿……思い出した途端に、涙が込み上がってきた。
「モルヒネを使い始めたら、もう会話もまともにできなくなっちまってな。それから、ものの数日後だったよ。親父は、俺と母さんと、5歳上の兄貴が見守る中で……!」
それ以上は、何も言えなかった。
この数か月で、俺はもうどれほど泣いたかわからない。
親父と面会した時はほぼ毎回泣いた、家でも母さんや兄貴と一緒に泣いた。親父が亡くなった時にも泣いたし、通夜と葬儀の時にも、弔問客として来てくれた同僚や上司、それに友人達の励ましが痛くてボロ泣きした。
泣いて泣いて、一生分の涙を出し切ってしまった気になっていた。
親父が亡くなってから1週間あまり……もう涙も枯れてしまったと思っていたが、そうじゃなかったらしい。
目の前にキツネがいることも忘れて、俺はただ、手の平で顔を覆って泣いた。
「どうして親父が……どうして……!」
親父の享年は70歳。
数年前に定年で仕事を引退して、新しい人生を歩み始めようとしていた矢先に、こんなことになっちまって……どんなに悔しくて無念だったか、想像もつかない。
やりたいことだってたくさんあったはずだ。また、母さんと一緒に旅行したかったはずだ。
どうして、がんは親父を選んだんだ。どうして、知らない他の誰かじゃなかったんだ……。
とてつもなく性格の悪い考えだと理解していたが、そう思わずにはいられなかった。
そして……。
「死ぬんなら、俺が死ねばよかったのに……!」
込み上がる感情に突き動かされるまま、俺は口走った。
――次の瞬間だった。
「バカ野郎!」
その凄まじい怒声に、俺は思わずビクリと身を震わせた。
顔を上げた瞬間、俺のことを睨みつけるキツネの姿が目に映った。
お座りの姿勢を解き、目の前に敵が現れたように身構えるその様子は、初めて会った時……焼きそばパンを千切って与えた時と同じだった。
「『俺が死ねばよかった』とは何事だ、お前の口からそんな言葉が出ることを、親父さんが望むと思うか!」
岩石で殴られるような衝撃が、全身を駆け巡るのを感じた。
キツネの言葉には、それほどまでの想いが込められていたのだ。
「一生をかけて育ててくれた親父さんに対して、あまりにもお粗末だろうが!」
圧倒された俺は、もうまばたきもできなくなってしまった。
――そこでふと、俺は気づいた。
これまでは頭の中で翻訳されていたキツネの言葉が……いつの間にか、直接的に理解できるようになっていたのだ。
「二度とそんなことを言うな、わかったな!」
俯いたまま、俺は頷いた。
キツネの言う通りだった。自分の考えがどんなに愚かだったのか……身に染みてわかった。
表情を緩めたキツネが、俺の近くまで歩み寄ってくる。2メートルくらいの距離を隔てた位置で止まると、俺のことをじっと見つめてきた。
彼がこれほど近づいてくるのは、カエンタケの時以来だった。
キツネ色のその毛並みが、夕焼け空に照らされていた。
「すまない。俺がキツネじゃなくて人間だったなら、お前の肩を抱いて励ましてやりたいところだが……」
怒った時とは打って変わって、キツネは穏やかに語り掛けてくる。
「いや、十分だ……ありがとう」
ああ、また叱られちまった。
でも、このキツネと友達になれて本当によかった。 今一度俺は、心の底からそう思った。
それでも、ここ数か月のことを思い出すと、自分が無力な人間に思えてしまう。
弱っていく親父の姿に、泣き崩れる母さんの顔が……脳裏に焼き付いていた。
親父を助けられず、母さんを元気づけることもできない。
俺は、役立たず……!
「許してやれ」
拭い切れない自責の念に苛まれていた時だった。キツネが、俺の心を読んだかのように……そう言ったのだ。
「優しい息子じゃないか。そんなにボロボロになるまで、親父さんとお袋さんのために心を砕いているんだから……」
キツネはくるりと身を翻し、俺に背を向けた。
先っちょだけが白くて、もふもふの尻尾がはっきりと見える。
「生きるために戦うことを望んだ親父さんは、とても勇気ある偉大な人だ。心から尊敬するよ」
キツネは、横顔で俺のことを見つめてきた。
「そんな親父さんの子として生まれ、そして最期を看取ることができた……お前は、そのことを誇りに思うべきだ」
キツネの瞳が、潤んでいるように見えた。
「俺はキツネだから焼香はできないが……せめて、親父さんに黙祷を捧げさせてくれないか」
「ああ、頼む……きっと親父、喜ぶよ」
俺が快諾すると、キツネはオレンジ色に染まった空を見上げた。
そして彼は、その場で軽く頭を下げた。
俺もベンチから腰を上げて、目を閉じ、キツネと同じように親父に黙祷を捧げた。草木の匂いを内包した風が、庭園内を吹き抜けていくのを感じる。
ふと俺は、親父が俺に遺した言葉を思い出した。
“お母さんのこと、よろしくな”
親父……改めて、色々と世話になった。
母さんと出会ってくれてありがとう、俺を産まれさせてくれてありがとう。
どうか、あとのことは何も心配せず見守っててくれ。
兄貴もいるし、俺を元気づけてくれる人達もいる。
それに、人間ではないけれど……俺のために真剣に怒ってくれて、親父に心からの敬意を表してくれる、素晴らしい友達もいることだしさ。