89話「緑山葉はひたすら特訓して速くなりたい④」
僕はここ最近ずっと日記を付けていた。
自分がどうしていいのか分からない日々が続いていたからだ。だからこうして、自分の筆で、自分の言葉で、そして自分の思いをしっかり書き記しておこう。いつからか、そう心に決めていたからだ。
――いつからだったっけ?
――あ、そうか。
柳田があんなことになってから、だったっけ。
「日記ってのも、悪くないな」
僕はそう呟きながら、開いた日記のページをそっと閉じた。
――いよいよ今日か。
準備は万端だ。絶対に、負けられない。ここで一気に、片を付けてやる!
僕は覚悟を決めて、戦いの地へと赴いていった。
『さぁ、最終種目のクラス対抗リレーとなりました。現在赤組と白組は拮抗しています。ここで一気に勝者が決まります。勝つのは赤組か!? それとも白組か!?』
アナウンスと共に、僕たちは運動場の中央へと向かっていった。
「よっしゃあ! 絶対に赤組勝つぞおおおおおおおおおおおおッ!」
「白組の底力みせつけてやるぞおおおおお!」
「「「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」」」」」
どのクラスも活気付いている。今年は例年にないほどの白熱ぶりを見せているから無理もないだろう。
そして――
「葉! 頑張れよ!」
「お兄ちゃああああああああん! 頑張ってええええええええええええ!」
保護者席から、お父さんと柳田の声が聞こえてきた。
更には――
「ファイトだよ葉くん!」
「一着を取るのよ絶対にッッッッ!」
「特訓してやったんだから勝ちやがれええええええええええ!」
「頑張れよおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「この学校に伝説を残せ!」
と、まぁこういうわけで、皆も応援に来てくれたわけで。
何故いるの? と思うかもしれないけど、ただ皆が暇だったから、という理由らしい。突然皆で押しかけてきたときには僕もびっくりした。ちなみに蒼条さんは、特にこちらの方には目もくれずに隅っこで本を読んでいる。あの人こそ本当に何しに来たんだろう?
「おい、緑山!」
鬼木先生が突然僕の肩を叩いてきた。
「あ、先生……」
「調子はどうだい? 緊張しているかい?」
ふっ、と僕は思わず吹き出してしまった。
「いえ、大丈夫です」
「ほう、頼もしいじゃないか」
「ええ、勝ってみせますから。見ていてください、絶対に……」
「……ん? あ、あぁ。そうか。頑張りなよ」
先生はどことなく怪訝な表情を浮かべていた。
僕はそれを意に介することもなく、所定の位置へと向かっていくのだった。
「位置について、よーい……」
バン! と勢いよくピストルの音が鳴り響き、リレーが始まった。
一斉に皆が走り出して、僕は息を潜めてしばらく見守っていった。
――なんだろう。
心の中で、どことなくワクワクしている自分がいる。自然と身体が動き出しそうだ。肩の力は既に抜けている。何よりも、楽しい。
第一走者が二人目にバトンを渡した。うちのクラスは運が悪いことにビリになってしまっている。
ちょっと前の僕なら、そのまま最後をキープしてほしい、そうすれば自分が恥をかくこともないだろうと思っていただろう。
だけど、今は違う。
二番目の走者が、一人追い抜かした。一斉に歓声が沸き上がる。
「そのまま一気にいけえええええええええええええッ!」
遠くから聞こえてくるのは黄金井さんの声だ。学校関係者でもないのに、もの凄く白熱している。
そして三番目の走者へとバトンが渡された。
僕の知る限り、彼はうちのクラスで最も速い。そのおかげか、また一人追い抜かすことができた。
「おし、緑山! あと一人だッ!」
今度は黒塚先生の声が響き渡った。
――無理はしないこと。
彼の呼吸が、既にそこまで近付いてきていた。僕はそれを感じ取り、ゆっくりと、一歩ずつ前へ踏み出していった。
そして――
僕の手に、バトンが渡った。
「がんばれえええええええええええええええええええええッ!」
桃瀬さんの歓声と共に、僕は思いっきり走り出した。
二番手になったとはいえ、前の人とはかなり距離がある。
だけど、僕にはもう怖い物はない。地面に対して無理なく踏み込み、風をかっ切るかのように走り出していく。
――楽しい!
なんだ、これ。
何かを追い抜いていくことって、こんなに楽しいことだったんだ。
僕はもう、ただそんな気持ちで一杯だった。浴びる歓声も、流れてくる風も、全てが僕の心を揺さぶっていた。
一番前の人の姿が目前へと迫っていた。どことなく彼の脚が震えているように見えたのは気のせいだろうか?
だったら――
一気に追い抜いてやる!
「うおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
僕は目をカッと開いて、更に駆けだしていった。
「なんだ、アイツ……」
「あの子、凄い……」
誰も彼もが、僕を奇異の目で見ているように感じた。
ゴールまで、あと三メートル。
僕は最後の力を振り絞って、脚に力を入れた。
二メートル。
前の人とほぼ横ばいに重なった。
一メートル。
かなり拮抗しながら、互いに走って行った。
そして――
「ゴーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーール!」
――か
勝った……?
「勝ったああああああああああああああああああああああああああああッ!」
僕はその場に膝を付いて、青空を仰いだ。
「緑山! やったなッ!」
「流石だよ、緑山くん!」
「でっしょ! だから言ったじゃん。私が見込んだだけのことはあるでしょ!」
クラスメイトが次から次へと僕のところへと集まってくる。
「お前のおかげで赤組の勝ち確定だぞ!」
「もう最高だったよ! 見直しちゃった!」
「あ、はは……ありがとう」
――なんだろうか。
まるで夢みたいだ。こんなにクラスの皆が僕のことを褒めちぎるなんて。
僕はゆっくりと立ち上がった。
「……緑山?」
「あ、ごめん。ちょっとだけ水飲んでくる」
ふぅ、と僕は溜息を吐いて、校舎裏のほうへ向かっていった。
当たり前だが、ここは誰もいない。さほど離れていないのに、運動会の喧噪が遠くに感じるぐらいだ。
僕は水筒の水を飲み干して、滴る汗を拭った。
「こんなところにいたのか」
突然、誰かが僕に話しかけてきた。そっちのほうを向くと、いつの間にか桃瀬さんたちの姿がそこにあった。
「まずはおめでとうね、緑山くん」
「あ、はい。皆さんが特訓に付き合ってくれたおかげです」
――なんだろう。
褒めてくれたのに、どことなく皆の顔が険しい。もっと喜んでくれるかと思っていたのに。
「あのさ、緑山……」
「うむ、俺たちとの特訓の成果がよく出ていたのは分かったんだが……」
――なんだろう?
「葉くん……上手く言えないんだけどさ。なんか、おかしくない?」
「えっ……?」
「何て言うか、その……ちょっと怖いというか……」桃瀬さんは少し僕から目線を逸らして、「まるで、葉くんが葉くんじゃないみたい……」
桃瀬さんの言っていることが、僕にはさっぱり分からなかった。
「いや、何もなければいいんだ。お前はよく頑張った」
「最初の頃とは比べものにならないくらい、凄い走りだったぞ」
「そ、そうだね……よく頑張ったよ」
皆が何故か俯いていた、その時――
「おやまぁ、こんなところで会うとはねぇ。黒塚兜」
突然、また一人誰かがやってきた。
この声は、鬼木先生……?
「って、てめぇはッ!」
「こないだのッ!?」
「オニキラッ!?」
――えっ?
僕は呆然として一瞬声に詰まった。
「オニキラって、もしかして、こないだ言っていた闇乙女族の……?」
「新幹部だよ。まさか、こんなところにいたとはな……」
「こっちこそ。会いたかったよ、黒塚兜」
「てめぇッ! 葉たちに何しやがった!?」
「何もしてないよ。教師として速く走れるように指導してやっただけさ。ま、本当はひよっ子どもを鍛えて鍛えて、そこで蓄えた漢気を抜いてやろうと思ったんだけどねぇ」
鬼木先生……いや、オニキラが僕の方を睨み付けてきた。
「先生、騙していたんですね」
「ははん、この様子だと、アンタもオトメリッサの仲間だってことかい。騙していたのは謝るよ。こちらももう計画倒れになっちまったからねぇ。とっとと退散してやるよ」
「計画倒れ、だと?」
「あぁ、あたいの部下がガキどもの漢気を抜く計画だったんだけど、その部下が昨夜突然いなくなっちまって。奴のことだから考えもなくその辺をウロウロしてんじゃないかと思っていたんだが……どうもそうじゃないみたいだ」
「そうですか……」
――なぁんだ。
僕はつい、気の抜けた表情でオニキラを見据えた。
「そんじゃ、これにて失礼。安心しな、アタイがこの学校に来ていた記憶はもう皆から消えちまっているよ」
「待て! お前……」
そう言い残して――
オニキラはその場から姿を消してしまっていた。
「何だったんだ?」
「部下って、もしかしてあのダチョウの……」
「消えたって、誰かが倒して……」
皆が眉を顰めながら談義している中、僕はすっとその場から立ち去ろうとした。
「緑山、おい! どこに……」
「あ、影子さん」僕は遠くから「オーストリッチアクジョのルージュが出来たら、桃瀬さんに渡しておいてくださいね。お願いします」
「え? あ、はい……」
「おい、待て! 葉ッ!」
「それって……葉くんが倒したってこと……?」
「それじゃあ、失礼します」
それだけ言い放って、僕はその場から去って行った。
9月20日 晴れ
今日は運動会でした
無事、リレーで一着を取って、赤組が優勝しました
鬼木先生は闇乙女族でしたが、何事もなく去って行きました
僕はそれだけ書き記して、ふぅ、と溜息を吐いた。
ふと、ゴミ箱の中に二枚ほど破り捨てたページを見た。
一応書いてはおいたものの、見直す気にもなれなかったページ。
僕はそれを拾い上げて、再び見直すことにしたのだった。
それは、昨日オーストリッチアクジョを倒したときのページと、
この前、パールラと対峙したときのページだった――




