英子と和枝
遊が高子に屋上へと連れ去られた時、英子もまた、和枝によって、落語研究会の部室に連れ去られていったのです。和枝に散々手を引っ張られたので、英子は悲鳴を上げてしまいます。
「その、和枝さん、痛い、痛いってば。手を、放してちょうだい」
「あ、これはすまない、英子君。そ、それで、英子君は、落語を辞めたりはしないかい?」
「え、落語をですか? そんなの、辞めたりなんてしませんよ、和枝さん」
「本当かい? その、僕が言ったことで、、英子君が傷ついてしまったんだろう。僕が英子君の落語になんやかんや言ったとたんに、英子君は、部室を出て行ってしまったんだもの。僕が英子君に、何か気に障る事を言ったんだ。僕の顔なんか見たくもないなんて、英子君が思うのも当然だ。部室に来たくなんかなくなることも当たり前だろう。でも、例え、部室には来ることがなくなっても、落語を辞めることだけはしないでほしい。英子君は、素晴らしい落語ができるんだ。そんな英子君が落語を辞めることだけはしないでくれ」
「うん、わたしは、落語を辞めないし、これからも部室には来るよ、和枝さん」
「そうかい、英子君。その、本当は君に一刻も早く、謝らなければいけなかったのかもしれない。昨日、部室を飛び出していった英子君を、探して回ったんだけど、どうしても見つからなかったんだ。電話ということも考えたんだけど、また、僕が変なふうに言って、英子君を悲しませるようなことがあるかもしれないと思って、直接、こうして顔を合わせて、お詫びをしたかったんだ。すまない。どうか許してくれ」
そう言って、和枝は英子に、深々と頭を下げるのです。それを見て、英子は大慌てになってしまうのでした。
「ね、頭を上げてよ、和枝さん。わたしは、もう大丈夫だから」
「うん、わかった、英子君。ども、これだけは信じてほしい。僕は、英子君の落語は、本当にすごいと思っているし、そんな落語をする英子君のことを、尊敬しているんだ。あんなに、流れるように落語ができる英子君のことを。僕のとぎれとぎれの落語と比べれば、月とすっぽんだよ」
「ど、どうもありがとう、和枝さん」
「それで、僕が英子君に言った『落語が頭の中を、きれいに通り過ぎていく』という表現はまずいのかい。今後、こういう事が断じて起こらないように、英子君が思うことを、包み隠さずに言っちゃってくれ。さあ、早く」
「そ、そりゃあ、自分の落語の内容が、聞いている人にまるで理解されないというのは、やっている本人にとっては、きついものがあるというか何と言うか。ほら、和枝さんも、私達に”群・環・体”の落語やってくれた時に、泣き出しちゃったじゃない。あんな感じみたいに……」
「僕の場合と、英子君の場合は、全然違うよ。僕が”群・環・体”をやっても、聞いている英子君達は、ぽかんとしていて、頭の中に入ってすらいないみたいだった。さぞや苦痛だったことだろうよ。それに引き換え、英子君の落語は素晴らしいよ。聞いていて、心地よいことこの上ない。僕の落語はただの騒音で、英子君の落語は一つの完成された音楽みたいなものだよ」
「和枝さんが、わたしの落語を、そんなふうに思っていたなんて、初耳だよ」
「そうかい、英子君。それじゃあ、もっともっと、僕が、英子君の落語をどう思っているか聞いてくれ。僕の『権助提灯』は、お粗末もいいところだったろう? あんな未熟な落語、聞いていても、嫌にしかならないよ。でも、英子君の落語は違う。英子君の落語を聞いていると、頭の中には、もう英子君の落語しかありはしないんだ。英子君は、聞いている人を、英子君の落語以外考えられなくしちゃうんだよ。それじゃあ駄目なのかい、英子君。僕がいくらやりたくてもできないことが、英子君にはできるというのに」
「え、ええとね、和枝さん。わたしとしては、和枝さんが褒めてくてれいるんだろうなあ、と言うことは理解できたわ」
「僕が何を言おうとしたかは、重要じゃあないんだ。大事なことは、英子君がどう解釈したかということなんだよ。昨日、部室で、僕の意見を聞いた時に」
「で、でもね、和枝さん。昨日のわたしは、先生に色々言われちゃって、とても冷静でいられなかったし、パニックに陥っちゃったわたしが部室を飛び出しちゃたのも、和枝さんに何か言われたことが直接のきっかけと言うわけじゃあ……
「英子君、僕は君を尊敬しているし、君の落語は、何者にも変えがたいものだと思っている。それは、英子君が落語をやっている間、聞いているお客さんは、少なくともこの僕は、君の落語しか聞こえていないんだ。ううん、うまく言葉にできないな。自分の言語感覚の貧弱さが憎たらしいよ。ほら、英語がちっとも聞き取れない人間でも、英語の歌を素敵だと思うことがあるだろう。その場合、内容は聞き取れなくても、その歌を聴いていないわけじゃあないだろう。むしろ、その歌を感じていると言える。英子君の落語は、僕にとってまさにそれなんだ」
「その、和枝さん。わたしがやった落語を、自分が意図していない楽しみ方で、聞く人間もいると言うことはわかったわ。自分がだめだと思っているものでも、それを良いといってくれる人がいるということは。そして、わたしは、昨日の『権助提灯』は失敗だったと思っちゃったんだけど、それを褒めてくれることは、少なくとも、和枝さんがそうまでして、賞賛してくれると、嬉しい気持ちになっちゃうわ」
「本当かい、英子君。じゃあ、昨日の僕がやったことを、英子君は許してくれるかい」
「許すも許さないも何も、わたしこそ、和枝さんをそんな風に、思いつめさせちゃって、ごめんね」
「どうして、英子君が謝るんだい。悪いのは僕なのに」
「えっと、じゃあ、どっちが悪いとかそう言う話はおしまいにして、和枝さんは、わたしの落語を素晴らしく思ってくれて、わたしも、自分の落語を、和枝さんが楽しんでくれて嬉しい。それがはっきりしたことで、今回の話はやめってことでいいかな」
「うん。それでいい。いや違う、それ“が”いい。僕は、英子君の落語が大好きなんだから」
「そう、ありがとう、和枝さん」
「そうだ、英子君。『権助提灯』をもう一回、今ここで聞かせておくれよ。昨日のことを、今日やり直したいんだ」
「えっ、まあ、和枝さんが聞きたいと言うのなら、やりますけど。ああ、一応聞きますけど、和枝さん『権助提灯』の話の流れ、知っていますよね。だったら、少しくらい早口でやっちゃっても、問題ないかな」
「むう! 英子君は意地悪だ」
そして、英子の『権助提灯』が始まるのです。




