遊、屋上にて 其の5
怜先生はそんなことを言いますが、遊は納得できないようです。
「で、でも、映画ならまだしも、英ちゃんがするのは落語なんですよ。目の前で落語をやっているのに、寝息なんて立てられたら……」
「おや、デジタル全盛の現在ならいざ知らず、ちょっと前までは、映画館では、後ろの映写室でフィルム技師さんが、十分か二十分くらいに一回、フィルムを交換していたんだよ。おっと、遊さん、『柄見先生みたいな年増ならいざ知らず、あたしはナウなヤングですから、映画フィルムなんて知りません』なんて、言わないでくれよ。要は、映画にだって、上映中流しっぱなしでいいという事でもないという事さ」
「柄見先生! 真面目な話をしてください! お願いします」
「おお、剣呑、剣呑。遊君は怖いったらありゃあしない。だけどね、お客さんが眠ることを目的にしていようが何だろうが、その落語に金銭的価値を見出す人間が、一定数いるということは、それだけで立派なことじゃあないか。世の中には、落語、というより、芸事全般だね。それを、いくらやっても、お金になんてならない人間なんて、五万といるんだよ。ま、それで商売が成り立つかとか、英子君がそれで満足するかとかは、別の問題だけれどね」
「え、英ちゃんはともかく、今は和枝さんのことを話しているんですよ、柄見先生」
「ああ、そうだったね。それで、先生の見るところ、和枝君は、英子君がうらやましくてしょうがないみたいだねえ」
「和枝さんが、英ちゃんをうらやましく思っているんですか」
「そうだよ。落語研究会の部室でね、前々から、英子君には古典落語をやらせていたんだ。『権助提灯』に限らずね」
「そういえば、英ちゃんも、そんなことを言っていました。高子さんは、悔しそうに見ていたけど、和枝さんは、素直に感心していたみたいだって」
「だろうね。で、先生は、高子君や和枝君にも、ちょこちょこ、古典落語をやらせてみてたんだよ。高子君は、台本通りにやることは苦手みたいだね。普段好きなように話しているときは、あんなに人を惹きつけるのに、面白いねえ。ああ、別にこれは、高子君の落語のことじゃあないよ」
「そんなことはいいですから、柄見先生、続けてください」
「はいはい。それで、和枝君だよ。和枝君は、”群・環・体”とか、数学のことなら、途切れなく話すことができる。まあ、それを理解できる人間は少ないけどね。ところが、それを発見したガロアの事になると、遊君達に理解できるようには話せるんだ。おそらく、和枝君は、数学ができすぎるんだろうねえ。自分が簡単にできちゃうものだから、周りにやり方をうまく説明できない。お猿さんに、人間が二足歩行を説明するようなものかな。人間が当たり前にしている歩き方を、いざ説明しようとすると、なかなか難しいみたいだね」
「英ちゃんの古典落語もそうだって言うんですか、柄見先生。古典落語ができすぎるから、かえって伝わりづらいと」
「そうなんだろうね。そして、ガロアの人となりとなると、歴史になっちゃって、文系よりの話になる。これだと、和枝君も、他の人と大差がつくというわけではなくなるんだなあ。だからこそ、うまく伝えられることになるのかな。それで、遊君は、和枝君の『権助提灯』を聞いて、どう思ったかな」
「それは、技術的には、拙いところもありましたけども。途切れちゃったり、つっかえちゃったりで。それも、和枝さんが文系の話が数学ほどには、できないからですか」
「そういう事だね、遊君。そんな和枝君にとって、あれほどに古典落語がすらすらとやれる英子君は、素直に尊敬の対象だったろうね。先生は、和枝君に英子君の落語を、こう評したことがあるんだよ。『聞いていて実に心地が良かった。リラックス音楽を聴いているようで、お昼寝でもしちゃいたいくらいだった』とね。さて、和枝君は、これを英子君の落語に対する、悪口と受けとったと思うかい、遊君。早い話が、英子君の落語は退屈なだけだと」
「そんなこと、和枝さんが英ちゃんの落語を聞いている様子を見ればわかりますよ。和枝さんは、英ちゃんの落語を聞いていて、すごく感心しているんですもの。すごいものを見て、そのすごさに、素直に感激しているなんて、一目瞭然じゃないですか」
「そうだね、遊君。先生がした英子君の落語への批評を、和枝君は誉め言葉であると取っただろうね。もちろん、先生が英子君の落語を、悪く言ったと、和枝君が解釈するようだったら、訂正するつもりだったけどね。それを、和枝君が『右の耳から左の耳に抜けていく』と、表現したわけだけど、それについては、遊君、どう考える?」
「仮に、すぐに落語が頭の中を通り過ぎちゃっても、その通り過ぎている間、聞いているお客さんに楽しんでもらえるんだったら、それは、十分に芸と言えるってことですか。お客さんを心地よくさせているんだから」
「和枝君は、そういうつもりだったんだろうね。内容が一切頭に残らないからって、それが何だというんだ。落語をやり終えたその後がどうだろうと、英子君は、落語をお客さんに聞かせている間、お客さんを陶酔させられる。それって、素敵なことじゃないかって」
「ですけどね、柄見先生。先生が、藪をつついた結果、英ちゃんは傷ついたんですよ。和枝さんにまで嫌なこと言わせちゃって。あのあと、どうなさったんですか」
「それはね、突然、英子君が飛び出したことに戸惑っている和枝君にね、こう言ったのさ。『和枝君が英子君のことを、尊敬していることを先生は知っている。でも、英子君はそうじゃあないみたいだ。英子君ってば、すごい勢いで出て行っちゃったからねえ。和枝君の言ったことを何か取り違えたのかなあ。しっかり和枝君が英子君を尊敬しているということを伝えないと、このまま、英子君は二度と落語研究会に来ないかもしれないねえ』ってね。そうしたら、和枝君まで、部室から飛び出しちゃったよ。英子君がどこにいるかなんて、わからないはずなのになあ」
「和枝さんもですか。それで、英ちゃんが、和枝さんに引っ張られていったんですね」
こうして、遊は怜先生の、人の悪さを痛感するのでした。




