第九話 答えのない、愛とは何かという問い
「世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです。」
かの有名な敎育家、社会福祉活動家であるヘレン・ケラーが残した名言だ。
障害者敎育が充分になされていなかった時代で、目が見えずと耳も聞こえない彼女の生涯は想像を絶するものだろう。視覚、聴覚ともに申し分なく、何不自由なく今まで過ごしてきた僕が語るには役不足というものだ。
勿論、彼女の生涯についての考察をしたり憶測でどうこういうつもりもない。しかし、ふと「愛とは一体なんだろう」なんて答えのない問いが頭に浮かんだ時に、先の言葉を思い出しただけだ。
何だかよくわからないものではあるが、僕にも愛という感情が芽生えたと感じたこともあるにはある。
小学校低学年だっただろうか。あまり活発的ではなく、友達が少なかった僕は担任のちょっと子供っぽくてお茶目な女の先生に何か特別な感情を抱いていたような気がする。
目で見たり、手で触れられないけれど、確かにそれは僕の心の奥底で密かに暖かさを持っていた。
ただ、現実は非情なものでその女の先生は既婚であり、来年になると子育てのために教師を辞め、家事・育児に専念することになった。
まあ、そんな幼い子供の頃の儚い夢物語なんてものはどうでもよくて、大事なのは寧ろここからだ。
時刻は午後4時半頃、僕は依然として小刻みに揺れるタクシーの中にいて、先ほど隣にいる清隆から誘拐された少女の写真を見せてもらったところだ。
この誘拐事件には明確な矛盾があり、誘拐事件があったとされる後に僕は誘拐された本人に会っているわけだが、今の関心はそこではなく、何故こうまでして僕はあの少女のことが気掛かりで仕方ないのだろうかということに尽きる。
特に自分とは関係のない誘拐があったとして、そのことについて別段興味を惹かれず、物騒だなとか早く犯人が捕まってほしいなとか、どこか他人事のように、けれど少しは赤の他人の不幸を心配する程度のものだと思うからだ。
別に何年も前からの知り合いだった訳じゃない。1時間程度話をしただけなのに、心が締め付けられるように苦しい。そう、この感覚はどこか遠い昔僕が感じていたものと同じだった。
あの小学校低学年の頃、僕が初めて恋愛感情を抱き、そして残酷な現実に直面したその時と同じだった。理屈は、よくわからない。けれど僕は彼女に恋愛感情に近しい何かを感じているのだろう。
つまり僕は散々清隆をロリコン扱いしておきながら、見た目中学生の少女に恋愛感情を抱くロリコンだったということだ。なんと嘆かわしい。
自分の心の奥底で密かに感じる暖かさ、情熱。この誘拐事件は他人事なんかじゃない。と本能が訴えかけている。警察がどうにかするのを待てないと思うほどに、自分からどうにかしたいと思うようになっていた。
しばらく考え込んでいると、平坦な市街を走っていたタクシーは大きく市街を離れ、勾配のきつい山道へと入っていった。
どうやら目的地は近いらしい。
僕たちの目的地である聖カトリーヌ女学院高校は、市街にはなく、少し外れた山の中にある。
僕も詳しくは知らないけれど、全国的に見ても高い水準の敎育を提供する同校を市街に立てたとあっては、生徒の健全な敎育に支障をきたすとかなんとか。
市街では信号が多くあり、特に気になることは無かった運転であったが、車の通りが少なくS字状のカーブが多くある山道に入った運転手は気分が乗ったのかスピードを上げカーブに差し掛かるごとに遠心力で車外へ放り出されそうになる。
「おわっわっ」
思わず情けない声が出てしまい、清隆の失笑を誘ってしまう。
「はは、情けねーなっ」
「うっさい」
カーブが連続して続いたが、徐々にそれにも慣れ、カーブに差し掛かると気持ち体重を反対側に掛けて体を振られないように努力をする。分かっていれば何のことはない。
清隆はというと、揺れに全く動じず足と腕を組んで腰を落ち着けている。その横顔はどこか得意げだ。むかつく。
10分くらい車に揺られながら必死に耐えると、視界の端に4メートルほどの立派なコンクリートの外壁が見えてくる。学校というよりこりゃ監獄だなと苦笑いしながら眺めていた。
運転手は正門の外にある駐車場に車を止め、ここでいいかいと聞くと僕と清隆は二人して降りる準備をした。
「そいじゃ、若。お気をつけて。」
「若は辞めて下さいよ土屋さん。俺ぁまだそこまでの器やないですし」
「そっか。んじゃ、坊っちゃん。頑張ってきーや」
土屋と呼ばれたサングラスの黒服は清隆の背中を軽く叩き笑顔を浮かべると、少し照れ笑いしながら清隆がタクシーから降りていく。何だか彼の意外な一面を見たようで僕は少しにやけていた。
こちらの黒服の運転手も見かけによらず案外親切な人なのかも知れない。
「おい、そこのあんた。坊っちゃんになんかあってみぃ。ただじゃおかんぞ」
「は、はあ……」
そんなことはなかった。
女子校に向かうだけでなにか問題が発生するわけなんてないのに過保護すぎやしないか、と少し不満を抱きながら僕は軽くお辞儀をしてタクシーを降りていく。
50メートルくらい先を歩いていた清隆に追いつくために小走りで向かう。
車が2、300台くらいは止まりそうな巨大な駐車場を出て、女学院の正門に向かう。正門には制服姿の警備員がいて、清隆と僕が向かっているのに気付くと見るからに疑いの目を持って睨んでくる。
それもそのはず。清隆は金髪で左耳に銀色のピアスをしていて、目つきは悪く、シャツには返り血が飛んだようなプリントがなされていている。どこからどう見ても不良であり不審者だ。
僕はまあ、学生の本分を理解したまっとうな服装、チェックにジーパンだから問題ないと思うけれど。
「おい、そこのお前!ここで何をしている!ここは聖カトリーヌ女学院高校の敷地内だぞ!」
正門前の警備員Aが清隆を指さして大声で怒鳴っている。お前ら、ではなく清隆だけに言っているということは少なくとも僕は問題ないと見られているらしい。
怒声を浴びて気分を害されたのか、清隆は小さく舌打ちをして靴を鳴らしながら早歩きで警備員に近付いていく。一瞬見えた横顔は怒りに震えるというよりは不敵な笑みを浮かべているようで、キレながらも今の状況を楽しんでいるようだった。やれやれ。
警備員Aの目の前まで行き、相手の顔面に自分の顔を近づけた清隆はどすのきいた声で喋り始める。face-to-face、ワルの喧嘩スタイルの一つだ。
「俺あ、ここの学院の関係者だ。姉貴が在籍してるんだがよー。なんだー?文句でもあんのかぁー?あ?さっさと取り次げや」
顔をしきりに動かして色々な角度から相手を舐め回すように見る。ここで怯んでは警備員の名折れとばかりに強気に警備員Aは反論する。
「ええい、貴様のような不良の家の者がこの学院に通っているものか!とっとと失せろ!」
警備員Aは限界まで近付いてきた清隆の肩を軽く押し、清隆は少しふらつく。軽くため息を吐いて両手を頭の両サイドに持ってきて、手の甲を下にしてそのままの状態で上に両手をあげるジェスチャーをする。英語圏でよく使われる、何を言っているかわからないを意味する相手を見下した表現だ。
「もういいや、めんどくせーからさっさと取り次いでくれや。待田透子って言や多分わかんだろ。昨日問題起こしてるしさ」
「まちだ……とうこ……っ!」
その言葉を聞いた途端、警備員は喉から捻り出すような声を上げながら腰からストンと尻餅をつき体を震わせている。昨日の暴力沙汰がよほど恐ろしかったのだろうか。大の大人をこうまで縮あがらせるこいつの姉貴に少し興味が湧いてきていた。
そんなときだった。上空から凛々しい、大人びた女性の低い声が聞こえてきた。
「お、清隆やん。案外来るん遅かったなぁ」
「紆余曲折ありまして」
見上げると、そこには白と黒の袴を着た、身長170センチメートルくらいの長身の女性が正門横の塀に立っていた。上に着ているのが白で、下は黒だ。下駄を履いており、今どき珍しいなと思ったけれど服装とマッチしていたので特に違和感は感じなかった。
黒髪と茶髪の中間くらいで、地毛かどうかの判別がつきにくい髪色をしていた。
男勝りな風貌のわりには髪の手入れが行き届いているのか、サラサラであり、優雅さを感じさせた。
ルビーのように澄み渡った赤色の瞳で、目が細いところは弟である清隆に少し似ていた。もっとも、清隆自身が金髪に染めているため、ひと目で姉弟だとは分からないけれど。
腰には2本の木刀が刺さっており、よく使い込んでいるのか所々に傷がある。立ち振る舞いを見ても、僕よりも明らかに格上――上段者であると感じる。
高さ4メートルもある塀にどうやって登ったのだろうという疑問が一瞬浮かんだが、今はどうでもよかった。
「よっと」
小さい掛け声のあと、塀から飛び降りたとき、一瞬だけバランスを崩したがすぐさま持ち直して唖然としている僕をよそに女生徒は怯える警備員Aに話しかける。
「そいじゃ、一応許可は取っとるからこの二人校内に入れさせてもらうけど、かまんよね?」
「……はぃぃっ」
警備員Aが力なく呟き、ちょっとかわいそうだなと思ったけれど、袴の女生徒が気にもとめず鼻歌混じりに校内へ戻っていくのでそれに続いた。